2020年10月20日火曜日

【Daily Open Windows】10月20日

十月二十日

わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。(ヨハネ十六・三十三)

霊的な人が、形式的、伝統的、名目的、そして、『生まれたまま』の人と対峙するとき、そこには、必ず患難が生じます。これは、もはやこの世からの反応ではなく、宗教からの反応でもあります。もって踏み込んで、それはキリスト教からの反応と言ってもいいでしょう。一方にある形式的で、伝統的で、名目的で、『生まれたまま』のキリスト教と、これとは別の霊的なキリスト信仰のあいだには非常に大きな違いがあります。実に大きな違いです。この違いがあまりに大きいので、この二つが出会うところは戦場ともなります――患難に満ちた戦場です。


形式主義をそのままにしておけば、すべてが全き平穏のうちに進みます。伝統主義も気にかけなければ――古い時代に決められた世の秩序、人の手で制定され、定められ、確立されてきた社会の枠組み、不動のものとして受け入れられた制度としてのキリスト教のことです――多くの患難から、逃れることができるでしょう。しかし、この世界に真に霊的な秩序を持ち込むことを追求すれば、そこには、待っていたかのように患難が生じます。そして、他ならぬ「あなた」こそがその患難を起こしているのです!実は、現在の条件、状況、状態の中に潜んでいるその患難が、あなたの行動によって、表に現れてくるということです。こうして、霊的な男や女、そして、霊的な努めは、『患難の根源』と呼ばれるのですが、これは、この二つが共存することはできないからです。イスラエルの状態とはこのようなものでした。彼らには伝統があり、お告げがあり、しきたりがあり、証しがありましたし、また、彼らには形式があり、制度がありました――彼らは、このすべてを持っていたのですが、預言者の時代には、神とのつながりにおいて、生き方の『外面』と『内面』のあいだに、あまりに大きな開きが生じていました。心は、唇から遠く離されています。形式を重んじる者たちの中に、霊的な事実は見られません。多くを手に入れることはできるかもしれません――しかし、そこに、真に霊的な意味を持ち込めば、まさにその部分に患難が生じます。これは、心の外にある伝統的なものが、真に霊的なるものとぶつかり合うときに、生じる患難です。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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