2020年10月26日月曜日

【Daily Open Windows】10月26日

十月二十六日

彼はそこにあるほら穴にはいり、そこで一夜を過ごした。すると、彼への主のことばがあった。主は「エリヤよ。ここで何をしているのか。」と仰せられた。(第一列王記十九・九)

『あなたがここに来ても意味はない』――主はこう言われています。そう、預言者や使徒たちも間違いを犯すおそれがありましたし、実際に、間違いを犯しました。しかし、ひとつ大切な点があります――すなわち、彼らは主の御心を見ており、自分が見た主の願いに対して、自分を捨てきっていたので、主は彼らが犯した間違いの上に豊かに臨み、自らの権威でその間違いを打ち消した上で、しもべたちに、主ご自身とその道を重ねて教えることができたのです。さて、はっきりした態度を示さない人には、このことは起こりません。あいまいな態度をとる人たち、真摯に仕える気持ちのない人たち、自分を捨てきっていない人たちは、主のことを何も学びません。自分を捧げ切っている人たち、主から光が与えられたときは、その強さにかかわりなく、光の方向へと自分をゆだね、まっすぐに進んで行く人たち、一面では、自分の過ち――熱心さから出た過ち――が、神の権威によって取り払われ、消し去られているところを見る人たちこそ、別の面から見れば、まさしくその過ちを通して、主の御心とは何か、また、主はどのように働きをされるか、どのようにして働きはされないかということを、主ご自身から教えられる人たちです。不確かで定まらない心のまま、待ち続けるだけで、すべてを理解できるまで何もしないつもりでいたら、私たちは何も学ぶことはないでしょう。


その心が神のために燃えている男と女こそが、本当に主から来たものを見ただけでなく、自分が見たものによってしっかりと捉えられ、今も学び続けている民であることが、まだ分からないでしょうか?主は、彼らに今も教えておられ、民が自分の失敗や間違いによって押し潰され、滅び去ってしまうようにはされません。主は、至上の権威をもって、思うがままに支配されているので、彼らはいつか、こう言える日が来るのです、『そう、私は恐ろしい失敗を何度も犯してきたが、主はすばらしいかたちでそのすべてを受け入れてくださり、その失敗をよい物に変えてくださった。』私たちの存在の全てを表したうえで私たちを支配する幻を受けて、こう言える者となることが、間違いを犯してもなお、主が私たちを支えるための基礎となります――そこにかかっているのは、主が受ける益であり、私たちの心にあるのは、主の益であって、私たち自身の益ではないからです。預言者や使徒たちは、自分自身が犯した間違いから、すばらしい方法で主を知ることを学びました。それは、その間違いが、自分の強情な片意地からではなく、神ご自身と、彼らに示された目的に対する真摯な情熱から生じたものだったからです。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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