2020年10月14日水曜日

【Daily Open Windows】10月14日

十月十四日

私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危くなり、ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。(第二コリント一・八~九)

自然の道理として、私たちは情報のみから本当に生きた学びをすることはできません。ただ『耐えられないほどの圧迫』を受けることによって、本当の意味で物事の良い面に達することができるのです。だからこそ、主は長い時間をかけて、霊的な経験を積み上げなくてはいけません。長い時間を経て、目が開かれるとき、私たちは叫びます、『ああ、なぜ、もっと早く気づかなかったのだろう!』しかし、他に何をしても無駄だったのだと自分で理解するまで、真実を知ることはできず、それには長い時間がかかります。このために、私たちの目が、あの暗闇の中でローマ書六章と向けられたとき、実際に耳に聞こえるような言葉で、主は言われたのです、『私が死んだとき、あなたも死んだ。十字架に向かったとき、私はあなたの罪だけではなく、あなた自身をもそこへ連れて行ったのだ。あなたを連れて行ったとき、わたしは、あなたが自分で思っていたような罪人としてだけではなく、生まれたままのあなたをすべて受け入れたのであり、あなたの良いところ(?)だけでなく悪いところも、あなたの能力だけでなく無能力さも、そう、あなたが持っている全ての資質をわたしは受け取った。わたしは、あなたを、『働き手』、『説教者』、まとめ役として取り上げた!わたしの十字架が意味することは、あなたはあなた自身のままでは、わたしの助けにはなれないし、私のために何ひとつできず、何かの役に立てるとすれば、それはわたしから来たものでなければならないということであり、それは絶対的な依存と信仰の人生を意味している。』


この時点で、私たちは地上におられた時の主ご自身の生き方の根本的な原理に目覚め、そして、この時から、その原理は、私たちの全ての法となりました。その原理とは、『主ご自身からは(ご自身の考えでは)何も』行わず、『全てを神から(神の思いで)』行うということです。『子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは(自分の考えでは)何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです』(ヨハネ五章十九節)。このような啓示が、私たちの力をすべて取り去るほどに、力強く全てを打ち砕くものであるためには、その背景で多くの無駄な努力を積み重ねなることが必要です。しかし、そこには、大きな意義があります。終わりが主の十字架に大きく書かれ、その終わりが本当に私たちの終わりとして受け入れられて、自分自身から来るものが全て消し去られようとしている今、イエス様は生きておられます!そして、これは無限の可能性を意味しています。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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