2020年10月4日日曜日

【Daily Open Windows】10月4日

十月四日

いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。(第二コリント四・十)

私たちの体にとって、復活したキリストには、大きな価値があります。主のよみがえりのいのちは、この身体に活力を与えてくれます。それは、今のこの身体を主の栄光の体と同じ姿に変えるためではなく、奉仕へと向かわせるためです。死に定められたこの体のために、よみがえりのいのちがありますが、このいのちをどのように用い、選択し、役立てるかは慎重に考えて、決めなければなりません。病にあって、弱められていると感じるとき、座り込んでこんなふうに言っても、意味のないことです、『ああ、主よ、早く来て、私を救い上げ、そして、しっかりと立たせて、回復させてください!』主は決して、そのようにはされません。


私は知っています。弱さに絶望し、肉体的にも痛めつけられ、自分では何もできないところで、主が何かのかたちで介入される場合、いつも、私に主ご自身をしっかり理解させることから始まりました。主は、前触れもなくやってきて、自分は満たされている、隅々まで主のいのちが行き渡っている、そして、すぐに立ち上がれると感じさせてくれたことは一度もありません。主が、耳に聴こえる声ではなく、同じくらい心地よい勧めとはげましのことばで、『主のいのちをつかみなさい。あなたのいのちとして、主であるわたしを握りしめなさい!』と言われた瞬間が何度もありました。言葉には出さなくても、心に示されたことには、同じ意味がありました。すなわち、今の状態を拒絶し、キリストにいのちを託すときだったのです!そして、その目的は、主に仕える時間をさらに続けていくことでした。

主は、私たちを機械仕掛けの人形のように動かすことはなく、主のよみがえりのいのちを土台として、私たちがご自身と協力するように取り計らってくれます。よみがえられたキリストの大きな価値は、私たちが主のよみがえりのいのちを、注意深く、しっかりと理解することによって見いだされます。つまり、これは、からだであれ、魂や霊であれ、その全てにおいてアダムを拒絶し、そして、必要なものが何でなんであろうと、キリストに立ちなさいということです。それは、霊のためですか?頭のためですか?心のためですか?意思のためですか?体のためですか?ただひとつ、欠けてはならないことは、今の状況のために、キリストの内に堅くと立つことです。・・・・キリストの存在と広大さの全てを経験するためには、自分の中に主のよみがえりのいのちがあること、私たちがそのいのちを握り締め、その上に立つことがどうしても必要です。主よ、それが何か意味するのか、もっとはっきりと示してください。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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