2020年7月31日金曜日

【Daily Open Windows】7月31日


七月三十一日

ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。(ローマ五・十八)

霊的な力とは、あらゆる面でもっとも大切な問題です。実に多くのキリスト者が、自分が考える神の標準に則った生き方をしようとして、気が付けば、絶えることのない戦いの中に囚われています。彼らにとって、キリスト教とは、様々な規範と基準からなる生き方のことです。彼らは、自分が、こうあるべきだ、また、こうあるべきではないということはよく知っており、その生き方の基準を満たそうともがいています。この絶え間ない努力の中では、良心が大きな部分を占めていて、このために、彼らは多くの恐怖を味わいますが、約束された喜びを経験することはできません。彼らの人生は、たくさんの失望と失敗であふれた苦行のようになってしまっています。ときには、自分が何かを立派に成し遂げたような気持になり、大きな喜びを味わうこともありますが、たましいの中では思いが散り散りに乱れ、結局は、全てが崩れ去って、悪い方向に進んで行くようです。このために、人にはキリスト者の人生は重荷で満ちているように見えるのです。彼らは、真の勝利、真の解放と主の喜びを知りたいと熱望していますが、実際には、絶え間ない戦いの中で浮き沈みを繰り返しているだけです。新約聖書に描かれているキリスト者の人生が、実際の自分の経験とは全く違っているように思えてしまうため、悪魔はすぐにそこに付け入って、いつも勝利する人生など決してあり得ないし、そんな望みはすべて夢物語に過ぎない、という思いを植え付けようとします。サタンは、神の民が、神の力を知る希望を失わせようと望んでいます。しかし、決してそのようにならない全く違う人生もあります。それは、キリストにおいて既に完成したものの中に入るところから始まるからです。すなわち、その人生は、自分で達成する何かではなく、既に成し遂げられたものの上に立っています。それは、生きていく上での人生の基準ではなく、共に生きるただ一人のお方のことです。この二つの生き方の違いはあまりに大きく、測ることすらできません。前者は、自己努力と敗北の人生であり、後者は、キリストの実在、神の力を享受することからなる人生です。

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2020年7月30日木曜日

【Daily Open Windows】7月30日

七月三十日

あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。そのようなものは、人の言い伝えによるものであり、この世に属する幼稚な教えによるものであって、キリストに基づくものではありません。(コロサイ二・八)

愛する友人の皆さん、伝統と照らし合わせて、このように言うことには、まったく意味がありません、『そう、神は、始まりにこのようにされた、ここが、神からのお告げが見られる場所であり、また、神の宮が築かれ、選ばれた民であるイスラエルの偉大な伝統が作られたところだ。ここがその場所なのだから、私たちもここに腰を据えよう。』いや、今、伝統は助けになりません。歴史も、今となっては助けになりません。制度も、今では助けになってくれません。神にとっては、宮、契約の箱、祭壇や祭司制度などは、もはや、どうでもいいもののようです。神は、預言者を通して叫んでいます、『下がれ、あなたは引き下がれ。わたしは、あなたが持ってくるいけにえなど欲しくはない。』イザヤ書58章。何という章でしょう!『せいいっぱい大声で叫べ。声をあげよ。』後に続くことばはどうでしょう?『しかし、彼らは日ごとにわたしを求め、わたしの道を知ることを望んでいる。』『わたしは、そんなものはひとつも受け入れない』と、主は言われます。『そのようなものをひとつも受け入れない。それは、わたしが望むいけにえではない。その儀式をわたしは求めていない。この伝統的な制度は、わたしが望むものとは違う。わたしが求めるのは、ある霊的な状態だ。』そして、その霊的な状態にあって初めて、主はご自身をシオンと結び合わせ、シオンとひとつになることができるのです。・・・・

2020年7月29日水曜日

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七月二十九日

私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。(第二コリント四・七)

神の全ての目的、あの十字架を超えて、よみがえり、引き上げられたキリストとの結びつきの中で、神が私たちにしようとしている全てが成し遂げられるためには、打ち砕かれること、そこに関わる者たちの全てが砕かれることが絶対的に必要です。彼らの見方と世に対する希望が砕かれるだけではなく、内面が砕かれることです。『わたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである』(第二コリント4:7)。すなわち、砕かれた自我、天的な永遠の完全さのために砕かれた器です。

2020年7月28日火曜日

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七月二十八日

神にとっては何事も決して不可能ではありません。〈神から出る言葉で、実現の力のないものは一つもありません〉。(ルカ一・三十七、詳訳聖書)

主イエス様が十二人の弟子たちを選んだとき、そこには――その選択の背後、そして、ずっと一緒に過ごす仲間たちをそろえた目的の背後には――神の家族たちとの関わりという面での、この神の初子の特徴を示し、表すという意図があったのではないでしょうか。別の言い方をすれば、主イエス様のご性質を、地上におられたときの信者たちとの関わり方の面から調べてみれば、そこに、御父が考える家族のあり方とはどのようなものかという、その良い例を見ることができます。例として、この十二人の不完全さ、欠点、弱さを取り上げて、それに対して主イエス様が取られた態度をみてみましょう。聖霊は、このような失敗や欠点を覆い隠そうと苦心したりはしません。この弟子たちを、理想的な人間の集まりであるかのように伝えようという試みは一切、行われていません。彼らの肖像は、現実の姿に即して描かれていて、言い難いことも――悪いところも、よいところも――そのまま記されており、不快なことも何ひとつ隠されていません。見た通りうありのままに彼らは描かれ、何も消されていません。そのすべてが明白に表されています。主イエス様が手をかけていたのは、扱いやすい集団ではなく、ことあるごとに希望を失わせるような人たちでした。しかし、この扱いにくい一握りの人たちとの関わり方において際立っていたのは、主の彼らへの信仰でした。

2020年7月27日月曜日

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七月二十七日

やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。(イザヤ九・二)

この大きな光が私たちの上に射し込むことのすばらしさはどうでしょう。この光が、どれだけ私たちを高め、私たちを栄光で満たし、霊的な光が射し込む時、どれほど、私たちの将来は違って見えることでしょう。それは、これまで、天にも地にもなかった光、上から来る主の光です。そして、主イエス様はこの神の光の総体です。主は光です。ただ、私たちの目が開かれて、主イエス様の存在の大きさに気がついていたら、どれほど大きな違いが生まれるでしょう。私たちは、完全に解放されていたはずです。必要なこととは、すなわち、神の御子を、光そのものであるがゆえに、光を与える神聖な特権を内に授かっているお方としてみることです。暗闇に覆われた私たちの人生の一場面に現れ、その暗闇を追い払うのが、主のされることです。これこそ、主の栄光であり、あなたが神の御子の栄光を知ることができ、主を礼拝することができるのも、あなたの目が開かれたからに他なりません。

2020年7月26日日曜日

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七月二十六日

キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。(コロサイ二・九、十)

キリストは天の啓示であると、私たちは語ってきましたが、キリストはまた、天の満ち満ちた豊かさでもあります。もし、神ご自身の思い、ご自身の考えをキリストの中に表されたら、もし、神が意図されたことのすべてが、個人的な啓示の中で私たちのもとに届けられたら、神は、それを実現と達成するために、豊かな備えをキリストの中にすでに用意されています。これは、私たちの必要の一つ一つが、神の豊かな富に応じて、キリスト・イエスの栄光の中に備えられるためです。キリストの中には、ただひとつの標準が定められているのではなく、神の標準を達成するためのあらゆる種類の備えがなされています。ご自身の目的に達するための神の隠れた備えは、すべて、私たちのため、キリストの中にあります。もし、主が、神の思いのすべてを抱いて出てこられたのなら、主は、神の元にあった備えも、すべて運んで来られたのです。満ち満ちたご性質のすべてが主の中に宿っており、私たちは、主にあって満ち満ちている(コロサイ二・九)。神はいずれ、その啓示の基準に即して、私たちを裁かれますが、もし、私たちがその基準を実現するための全ての準備をしてくれていなければ、その裁きをすることができません。・・・・

2020年7月25日土曜日

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七月二十五日

いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません。(使徒行伝七・四十八)

キリスト教は、初めにはなかったものが、うず高く積み上げられた姿に変わってしまいました。今日、私たちが知っているキリスト教は、きわめて複雑化しています。神から来たものに、人の手がかかり、そして、人間たちは、この偉大なものを、自分自身の判断に沿って建てようと試みてきました。このために、私たちの前で、全てが混乱し、全てが分裂し、そして、全てが複雑化しています。キリスト教は、本当に苦しい時代を迎えています。キリスト教は、それ自体に対する最大の阻害要因となってしまいました。・・・この国のどこへ行っても、この街のどこへ行っても、天辺に十字架を掲げた立派な宗教的な建物をいたるところで目にします。そして、このような建物に入る人たちは、頭を垂れ、非常に敬虔な者のように見えます。彼らは、これこそ神聖な建物だと考えます。中にある物に手を触れたりすれば、冒涜行為と呼ばれます。神からみれば、全く無意味なことです。このようなことに、全く何の意味もありません。神にとって意味があることはただひとつしかなく、それは、立派な建物でも、その建物の中にきれいに飾り立てられたものでもなく、屋根に立てられた十字架ですらありません。ただひとつ、神にとって大切なのは、主がそこにいるかということです。神御自身は、その場所に臨在しているでしょうか?

2020年7月24日金曜日

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七月二十四日

<神以外のものを愛し、また崇拝する>どのような偶像礼拝も避けなさい<きっぱりと離れなさい、必要ならば逃げ出して避けなさい>(第一コリント十・十四、詳訳聖書)

無害なだけでなく、それ自体は良い性質を持つものでありながら、主ご自身に置き換わるように用いられてきたものは数多くあり、このために、主に献身しようという気持ちにを持つ人の中でさえ、良いものが偶像礼拝の原理を具体化してしまうことがあります。キリスト教徒たち、または、キリスト教の団体に触れてみて、それから、その手を主ご自身よりも大きなものにまで伸ばしてみてください。そうすれば、主ご自身の計りが増し加わる可能性に対して、人を完全に盲目にしてしまうその団体を妬む気持ちが湧き上がってくるはずです。あなたも、宗派、伝道活動、キリスト者の働きの一端に専念しすぎるあまり、その上に主の計りが加わる余地がなくなってしまうことがあります。そのこと自体が目標点、生きる目的となってしまったため、本当にご自身から来るものに動き始めて欲しいと、主があなたに望んでも、その良いキリスト者としての働き、集会、団体、伝統、人間関係といったものが障害となってしまいます。そう、これは、原理的には偶像崇拝であり、歴史を見ればわかるように、それ自体はよいものを、主がその上に一撃をふるって、打ち倒さなければならないということが繰り返されてきたのであり、それは、主の民、一人ひとりをご自身へと救い出すためでした。・・・・

2020年7月23日木曜日

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七月二十三日

わたしは、自分からは何事も行なうことができません。(ヨハネ五・三十)

この質問が、主の生涯を試す試験問題であったことに気づくとき、あなたは、主イエス様について、大きな真実の核心に迫ることになります、すなわち、『このお方は、自分から行動し、自分から話し、自分だけで選び、自分だけで決定し、自分だけで動くのだろうか?』そして、主の答えはいつも、『自分からは何事も行いません!』というものでした。『御子は、自分からは何事も行なうことができません。』『わたしがあなたがたに話したことばは、わたしが、自分から話したものではありません。』主に向かって、ありとあらゆる呼びかけが行われ、主が、その場の衝動に動かされ、または、ご自身の手柄になりそうな嘆願に応えて、あるいは、本物の知恵から来ているように見せかけた根拠に基づいて、自分から動き、行動し、話し、何かを行うようと試みました。・・・

2020年7月22日水曜日

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七月二十二日

このためユダヤ人たちは、イエスを迫害した。イエスが安息日にこのようなことをしておられたからである。イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」(ヨハネ五・十六~十七)

主イエス様についての本物の知識は、私たちの考えや働きの手順のほとんどを、完全にくつがえすことになります。キリストについての真の知識と、キリストとの結びつきは、そこから生まれるすべてのことと相まって、それまで慣例的に行ってきたやり方とは全く反対のかたちで、私たちを働きに着かせます。私たちが主のために何をするかということではなく、主が私たちを通して何をするかということが、すべてを決めるという、この考え方に支配される者となってゆきます。この生き方には大きな試みが伴います。同じ道を通ったことがない人にはとても信じられないでしょう。敵は激しく、苛烈に、休むことなく戦い、あなたを惑わせて、低いところと引き込み、そして、神のために再び何かを立ち上げて、自分で考えた構想のもとに、大きな事業に着手し、地上で目に見えるものを建て上げさせようと仕向けるのです。この目に見えるものだけを基準とする考えに縛られている人たちは、いつもこう言ってきたのです、『ほら、あなたは何もしていないではないか!自分がやっていることを見せてみなさい!このことで、人に見せられることなんて、ひとつもないでしょう!』サタンはこのような手を使って働きかけてきます。肉にとっては、これはとても辛いことです。神とともに進みながら、そのことを示すものが何もないこと、紙面に書き記してもらえるような働きを一度もしていなし、また、公けにできる報告も記録も何ひとつないこと、それでいて、心の奥底では、表には現れなくても、そこで何かが起こっていて、自分には今、していることしかできないと知っていること、これは、肉にとって安楽とはとても言えない、苦しい道です。

2020年7月21日火曜日

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七月二十一日

その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。(ヨハネ一・十二、十三)

神の思いの中で、キリスト者たちは何のために存在しているのでしょう?教会は、何のために存在しているのでしょうか?答えはひとつしかありません。その存在の意味と機能は、キリストを表すものとなることです。それ以下でも、それ以上でもありません。キリストとは、アルファであり、オメガであり、最初であり、最後であり、また、そのあいだにあるすべてです!この事実を、始まりとしましょう。この事実を、生活と働きの全ての面を支配する決まり、そして、現実としましょう。そうすれば、直ちに、主の教会の性質と使命が見えてきます。この広大で、不可解な天の制度、キリストが御自身によtって体現されたこの制度は、生活のあらゆる細部に、個人的、集団的にふれるものです。しかし、なぜ、そうであるのかを見通し、知っているのは、御霊だけであることを覚えておいてください。そのため、始まりにおいてそうだったように、御霊による支配に対して完全に服従し、その命令に従わなければなりません。人間の体にとっての血流に当たるものが、『主のみからだなる教会』にとって、また、その中における『神にささげる生活』です。人の肉体という領域における神経系統にあたるものが、霊的な領域では御霊になります。生まれたままの体の中で、この二つの系統が果たしている役割を全て理解すれば、神が、その壮大で天的な原理をどのように描かれたか、あなたにも分かってきます。この原理は、はじめに、人としての御子の中に、それから、主とともに働くみからだの内に書かれたのです。

2020年7月20日月曜日

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七月二十日

イエス・キリストにより、御前でみこころにかなうことを私たちのうちに行ない、あなたがたがみこころを行なうことができるために、すべての良いことについて、あなたがたを完全な者としてくださいますように。(ヘブル十三・二十一

神の目的に沿って生きている限り、神の働きは私たちの中で続いてゆきます。まず第一に、問題となるのは私たちの行動ではありません。神は、私たちが神のために何をするかということより、私たちの中で何が行われているかということに、より大きな関心をもっています。神は、私たちがたくさんの働きをしているときより、何もしない状態にあるときの方が、私たちに対する目的をよりよく達成できることも多いのです。神なる陶器師の手がモーセの上にあったのは、モーセが荒れ野にいて、ほとんど何もできなかった時です。四十年間、彼はわずかな羊の世話をしていただけです。これは、大した働きではありません。モーセも時には、自分がここにいる目的は何なのか、自分の人生には価値があるのかと悩んだことは間違いありません。しかし、諸侯と権力者たちは、そこに何かを見て、神の知恵に驚嘆しました。神は、この男に何を備えればよいか、どうすればこの人生に御心を遂げられるのか、よくご存知でした。これは、多くの神のしもべの場合にも当てはまることです。神は、益をなすために働き、ご自身の器を形作っています。神が私たちになさるすべてのことに知恵があります。しかし、私たちは、自分自身の計画や個人的な欲望を持たないように、気を付けなければなりません。粘土は、完全に御手にゆだねられなければなりません。私たちが本当に神のためにここにいるのなら、神が必ずその目標に果たすこと、私たちの中で御目的を実現されることを確信できます。そこで、私たちは強さを見いだすことになります。

2020年7月19日日曜日

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七月十九日

「わたしは、もう一度、地だけではなく、天も揺り動かす。」この「もう一度」ということばは、決して揺り動かされることのないものが残るために、すべての造られた、揺り動かされるものが取り除かれることを示しています。(ヘブル十二・二十六―二十七)

事実はどうかといえば、新約聖書の教会の特徴というべきものも存在するとはいえ、新約聖書の中に何か、完璧な様式が示されていて、それに従うだけで、教会を立ち上げ、かたち作ることができるようなことはありません!新約聖書には、教会の青写真などというものはなく、新約聖書に沿った教会を形成しようと試みても、すでにどこかにあるのと同じ律法的で、偏狭な、死んだ制度が新たに生まれるだけのことです。この世の教会は、主の教会と同じように、主にあるいのちから生まれ出る有機体であり、そこでは、『いのち』自体がキリストの十字架から湧き出して、信じる者たちの存在の中心に向かって働きかけています。

2020年7月18日土曜日

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七月十八日

あなたがたはよく走っていたのに、だれがあなたがたを妨げて、真理に従わなくさせたのですか。(ガラテヤ五・七)

彼らの霊的な競争に何かが入り込んで、走ることを妨げました。これは極めて深刻なことであり、パウロはその存在の奥深くまで揺さぶられました。このガラテヤ人たちの場合、入り込んできたのは、ここでも生まれたままの人間だったのですが、このとき、それは、生まれつきの感情という領域で起こりました。彼らは、キリストのたとえの中で、土の薄い岩地に落ちた種にあたる、すぐにつまづく性質の者たちだったのではないでしょうか。種は直ちに、喜びをもって受け入れられましたが、そのまま育って、実を結ぶことはなかったのです。このように、始まりには情熱的に御言葉を受け入れ、大いに心を躍らせながら、そこから、着実に進んではいかない人たちがいます。ガラテヤの信徒はそのような者たちであり、彼らは御言葉に非常に強い反応を示し、また、献身することを大きな声で断言しながら、すぐに競争から脱落してしまったのです。なぜでしょう?それは、彼らが自分の感情、自分の感覚だけに頼っており、それはとても変わりやすいものだったからです。これは、ただ気質の問題と考えてもいいのかもしれませんが、実際に、このような性質に類するものは私たちのほとんどの中にも見られます。私たちは、外からの問いかけに反応し、大きな感情の動きに屈し、そして、動きを緩めてしまいます。主イエス様のことばを借りれば、『困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしま』うのです(マタイ十三・二十一)。

2020年7月17日金曜日

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七月十七日

私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。(ガラテヤ一・十二)

力が打ち勝ち、進み続けるためには、私たちの中で御霊の啓示があれば、こと足ります――これは本当に可能なのです!人の霊の内側での啓示であり、たとえ、神の真実であっても、その真実を心で理解することではありません。ああ、『私は知っている』と言うことのできる力、『私は聞いた、または、私は読んだ』ではなく、『私は知っている。』それは、何も私たちから奪うことのできない経験です。この啓示を御霊によって受けることが絶対的に不可欠であり、それは、私たちが必ず対峙する悪の力に立ち向かうことができるのは、神から来るものの他にはないからです。『あなたは、私の苦しみのときにゆとりを与えてくださいました。』なぜでしょう?中にある主のいのちが絶えることなく湧き上がっているからです。困難、試み、悲しみ・・・・私たちは、こういったものに心を支配され、それはすべての人間に共通していますが、私たちは、内なる『主の大能の力』を通して、その上に立ち上がります。私たちは、神の知識の中に与えられる『光』のゆえに強いのです――エペソ一・十九。この啓示は、次第に大きくなってゆきます。エペソにいる聖徒たちに、パウロが書き連ねた手紙の中には、何とすばらしい歴史があったことでしょう!パウロが、彼らと別れる際に送った言葉(使徒二十章十七~三十八節)を見てください。パウロは彼らに、『あなたがたを強くして、理解する力を持つようにしてくださいますように』と言って、啓示をもたらすためには、神の大能の力が必要であることを示しています。敵は、啓示の前に大きな力をもって立ちふさがり、啓示を貶め、また、妨げようと試み、何があってもやめようとはしません!

2020年7月16日木曜日

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七月十六日

それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。(マタイ十九・二十六)

人にはできないということについて、二つの見方があります。できないという意味をどこに置くか――そのことか、それとも、神か――によって、全ては変わってきます。人にはできないことが神にはできる(マタイ十九・二十六)。そして、神は、これらの不可能なことにごく当たり前のたちで答えます――それが正常なあり方だからです。反対に異常な答え方といえば、何かの兆候や奇跡や特異な出来事を起こし、私たちの感覚にうったえることです。しかし、キリスト者の生活においては、主のいのちがいつでも死の働きを超えているということ、これこそが正常な答えです。この奇蹟は、私たちが考えるよりもずっと身近にあるものです。あなたは、霊的な死という領域の中で、自分の人生を生き、自分の働きをするしかなく、そこでは全てのことが霊的ないのちと敵対しており、あなたを支えてくれるものは何ひとつありませんが、それでもあなたは、主にあって、その中を歩み続け、その世界を覆う雰囲気や状況に飲み込まれ、取り囲まれ、破壊されることはありません。これが、静かに働いている、神のいのちの奇蹟です。あなた自身のいのちは、すなわち――全ての人のいのちがそうであるように――死、霊的な死という大きな石の存在の中に置かれています。私たちはそのことを知りながらも、霊的には生かされており、そして、前に進んで行きます。これは大きな奇蹟です。それは、日々の生活にある奇蹟です。それは、神が主を死者の中からよみがえらせたという証しです。・・・・

2020年7月15日水曜日

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七月十五日

私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。(第二コリント五・十六)

他の何にもまして大切なのは、御霊を通してお互いを知ることが絶対的に必要であるということです。『キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、・・・主のために生きるためなのです。』『ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。』これが意味するのは、私たちは、自分で判別できる限り、自分の生来のすがたを、私たちの関係、私たちの期待、私たちの判断、私たちの判定、私たちの評価を計る最終的な基準とはしないということです。これは、私たちがお互いの人間的な性質に気づかないということではありません。私たちがもはや、肉にある自分の姿には驚かないという意味ではないし、お互いの性質の欠点には、完全に目をつぶることにするという意味でもありません。違います!私たちはいつも、敏感であるべきです。私たちが、より霊的であるほど、生まれたままの自分たちがどのようなものであるか、また、他の人たちの生来の性質がどうか、より敏感になっていくということ、おそらく間違いないことでしょう。私たちはおそらく、お互いが生来持っている欠点と不完全さ、強さと弱さのために、いっそう苦しむことになるのではないでしょうか。

2020年7月14日火曜日

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七月十四日

わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。(ルカ十二・四十九、五十一)

あなたも私も、御霊の男、御霊の女となろうと思うなら、安楽な生活を送ることにはなりません。地獄がそれを許さないからです。すぐに衝突が生まれ、また、御霊が私たちの中で思うがままに振る舞って、神の大きな御心へと近づけるようになるほど、私たちは間違いなく、より多くの敵対や反目と向かい合うことになります。そして、それは、私たちと世のあいだに生じるだけではなく、時には、主を信じる民のあいだにも渦巻くように入り込んできます。この挑発を避けることはできません。あなたも、いったい、なぜなのかといぶかることもあるでしょう。新約聖書を読めば、こう感じるでしょう、『この人たちはどうなってしまったんだろう?なぜ、あんなに動転し、また、苛立っているのだろう?ここに書いてあることが、なぜ、起こってくるのだろうか?しかも、何度も繰り返すし、まったく理屈に合わないではないか?』しかし、確かにそう書かれているのです。そこにあるのは事実です。避けることはできません。

2020年7月13日月曜日

【Daily Open Windows】7月13日

七月十三日

主に信頼する人々はシオンの山のようだ。ゆるぐことなく、とこしえにながらえる。山々がエルサレムを取り囲むように、主は御民を今よりとこしえまでも囲まれる。(詩篇百二十五・一、二)

山々?しかも、主が山々のように?いったい、何のことでしょう?それは、要塞であり、力であり、護りのことです。では、防御すべき敵がいないのに、要塞を築く意義とは何でしょう?旧約聖書の時代に戻り、人間が新しい土地に移るとき、低い土地ではなく、高い土地だけを選んで住んだことに注目されます。彼らの街、都市、村々のほとんどすべてが、高い場所に築かれていたことがわかるでしょう。その理由とは、戦車と馬を持っていた彼らの敵が、平坦な低地では非常な強さを誇っていたのに、山場に対しては、その戦車と馬が役に立たなかったからです。まさしく、このために、主の民の安全と護りと防御は、高い土地に住むことによって保たれていたのです。

2020年7月12日日曜日

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七月十二日

私は大きな苦しみと心の嘆きから、涙ながらに、あなたがたに手紙を書きました。それは、あなたがたを悲しませるためではなく、私があなたがたに対して抱いている、あふれるばかりの愛を知っていただきたいからでした。(第二コリント二・四)

主にとって大切なものの中で、いっさいの苦しみももたらさずに、財産として民に与えられるものはひとつもありません。それが、民の財産となるのは――その意味では――民がそのために苦しむからであり、このことを非難する者は呪われるべきです!何かから、あなたの心が離れていて、あなたが証しからも神の働きとも結びついていなければ、好きなだけ避難すればいいでしょう。あなたは、そのことと、内なる心のつながりが全く持っておらず、自分の判断をその上にくだすだけです。しかし、あなたがその中にいて、苦しみを味わったら、また、あなたの生活の中でそのために損失を受けるなら、そこに多くの欠点や間違いがあったと判断するだけ終わりにはなりません。相手を批判し、さばき、過ちを指摘するだけで終わるのは、苦しみを経験していない人たちがすることです。

2020年7月11日土曜日

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七月十一日

私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。(ヘブル四・十一)

ここにあるように、主の安息にはいることができなかった者たちは、落後しました。その前から福音を伝え聞いていた者たちが、安息にはいれなかったのです。これは、注目すべきことです!福音は、彼らに向かって伝えられていました。彼らこそ、前から福音が繰り返し述べ伝えられていた者たちでした。福音とは何でしょう?この関連の中で答えるなら、それは、私たちの安息としてのキリストです。これが福音です。私たちの安息としてのキリストの福音は、彼らに向かっても、型どおりに伝えられ、前からこの福音を聞かされていながら、彼らは安息にはいることができなかったのです。だからこそ、この使徒は言っています、『ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。』彼らは落語しました!神は、また別の時、この言葉で教えられました、『きょう、もし御声を聞くならば・・・心をかたくなにしてはならない。』信じる者たちが主の安息に入れるようにと、福音が語られました。主イエス様は、次のように語って、このことを、生命を持った真実のかたちにされました、『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。』天におられるキリストこそ、私たちの霊的な安息、心の平安です。

2020年7月10日金曜日

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七月十日

むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。(エペソ四・十五)

何年にも渡って主の子供であり続け、また、長いあいだ、主のために働いてきたのに、どこかで行き詰まり、動きが止まってしまった神の子供たちを、私たちはたくさん知っています。なぜでしょう?そう、どこかの道、どこかの地点で、何らかのかたちで、彼ら自身から来るもの、彼らの古い自我が表に出てきて、目の前にはっきりと示されて、人生の途上に立ちふさがりました。それは、彼らの古い思いから来るもの、彼らの古い願い、古くから持っている愛情、欲望や感覚から来る何かかもしれません。それが、あるかたちをとって、彼らの進む道に現れます。彼らは主の道にいるのです。必要なのは、彼らが再び死ぬことではなく、彼らが、キリストにある一度きりの死を受け入れるようになることですが、これは、何であれ、人生で起こった何ごとかのつながりの中で行われ、彼らは、その出来事を決着させて、あの罪と死の律法から解放されなければなりません。『死んだ行ないからの回心。』この使徒がヘブル人たちに言っていることはまさしくこれです。すなわち、『あなたたちは行き詰ってしまった。あなたたちはただ、先に進むことができなくなった。あまりに遠くまで進み、こうしてある地点に到達したが、その後は、何年にも渡って、その場所から一歩も離れていない。あなたは、前にはあった土台をもう持っていないし、完全な成長に向けて進んではいない。キリストが死んだとき自分も死んだことを、あなたたちはまだ、揺るがない事実として受け入れていない。キリストのもとに来たとき、あなたたちは古い創造の制度と秩序のすべてを、宗教の面でも、他の面でも終わらせたのだ。キリストは律法の終わり、キリストは古い創造の終わりであり、そして、主は新しいもの全ての始まりである。古い真実を繰り返して聞くことを厭いてはいけない。古い真実も土台として、とても大切なものであり、このこと自体が土台となるものである。』私たちには運命つけられたことがあります。すなわち、今、それを受け入れるか否か、好むか否かに関わらず、私たちは、神の土台だけが生きることに気づくように定められているのです。これは真実であり、そして、誰も、古い創造に縛られて、古い創造の水準にありながら、神と神から来るものとの関わりの中で生き抜くことはできません。主にあるこの新しい生き方は、あまりに細い道なので、私たちは自分で自分をそこに進ませることはできず、自分自身を捨てていくしかないのです。

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2020年7月9日木曜日

【Daily Open Windows】7月9日

七月九日

ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。(ヨハネ九・二十五)

あなたや私が、人生のどこかの段階で、自分が持っているものだけで完全に満足してしまい、持ったことのない何かをどうしても手に入れたいという欲求が全くなくなったら、それでも、前に進み続けるでしょうか?もちろん、しないでしょう!私たちを前に向かわせるために、主は特別な経験を通らせます。それは、私たちが新しい見方で主を見て、新しいかたちで主を知ることが絶対に必要となるためであり、また、最後の時に至るまで、そのままであり続けなければならないのです。その中で、何かが見え、再び何かが見え、さらに何かが見えるという一続きの難局を経て、主が私たちの目を開くとき、これまでには言えなかったことば、『私には見える!』を言えるかもしれません。ですから、大切なのは、学問、勉強、本から得る知識ではなく、主を知ることで得られる知恵と啓示の霊であり、私たちの心の目に光が当てられることであり、こうして見ることが、本当に必要とされる権威の証印が加えられることになるのです。今日、求められているのはこの要素、この特徴です。すなわち、見ること自体が目的なのではなく、新しい権威ある語りかけができることが大切です。

2020年7月8日水曜日

【Daily Open Windows】7月8日

七月八日

私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。(ローマ六・四~五)

キリストの死によって主とひとつになる中で、私たちの存在は終わって、主の存在が始まり、その始まりから、主は全てになられます。これは、基本的でありながら、先駆的なことでもあります。その意味、その意図において、全てを包み込む事実でありながら、とても先進的でもあります。この事実の完全さを、私たちは、行動によって、受け入れなければなりません。私たちは、次のような立場を極めて明確、かつ、意識的に取らなければなりません。すなわち、私たちにとって、キリストの死にある主との結びつきを受け入れることは、それ以外のどのような立場を取ることも拒否すると言うかたちで実現されるのであり、そして、他の思いが表に出てきたときは必ず、打ち倒され、見放され、前に進むことも許されないようになります。私たちは、自分から明確な意思表示をして、次の真実をきっぱりと受け入れなければなりません。すなわち、これから後は、自我から出るすべてのものは、十字架によって、容赦なくなぎ払われ、また、自我が入り込もうとしても、私たちの中にとどまることすら許されません。

2020年7月7日火曜日

【Daily Open Windows】7月7日

七月七日

なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。(ローマ八・二)

私たちの古い人から来るもの、例えば、私たちの古い気性、古い裁き方、古い性質など、何であっても、それが外に現れてしまったら、神の子供であればよく知っているように、その時点で、壁が作られて、前に進むことができなくなり、霊的ないのちの中に抑え込まれてしまうので、元に戻って、そこに現れた古いものをきれいに片付けなくてはなりません。これは、この宇宙の他の何よりも、私たちにとって明白な現実です。その瞬間、私たちは霊的に立ち止まったまま、一歩も進めなくなり、炎の剣が行く手をふさぎます。ここで、自分にできることは何もありません。その現れた古いものを、ここで表に出せば、あなたは裁きを受けます。あなたは、神の裁きにあいます。あなたは砕かれることになります。このことは、神が全ての古いものへの対処を、ずっと前に終えられていて、私たちには神の立場を受け入れるしかないという事実とは、相容れないものです。私たちが、これを受け入れたとき、この事実が良い結果をもたらし、良い結果を生み続けています。私たちは、この事実の上に立ち、真実を受け入れます。私たちは、自分で古い創造を実際に終わらせることはできなくても、前を向いてこう言う者です、『私は神と同じように考える。』さて、こうして行くうちに、私たちは気づくでしょう。すなわち、神がこのすべてを死の下に置いたからには、死がその上にとどまり、そして、死がその頭をまた、もたげることがあれば、死の判決がくだされます。自分の生来の力で、主のために働き始めたら、私たちは死と向かい合い、そして、間もなく、その生来の力は、死のもとに下るでしょう。神に関することで、自分の生来の考えで判断するようになれば、私たちは停滞に陥り、間もなく、全てが行き詰って、抜け出すことができなくなります。何であろうと生来、持っているものを、神の働きの中に持ち込もうとすれば――新しいことではなく、古いことです――それによって、私たちは、古い創造の上に置かれているはずの死と直面させられます。主にあるいのちの新しさの中に入り、神の御霊によって働き、御霊に導かれるままに歩いている限り、死はその力を失い、そして、私たちは、主のいのちの中にあって、前に進み続け、全てを乗り切ることができます。生まれ持ったものにどれだけの、困難と弱さがあっても、私たちは、全てを切り抜けて、御霊にあって進み続けます。『キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。』私たちは解放されています!

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

2020年7月6日月曜日

【Daily Open Windows】7月6日

七月六日

イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」(ヨハネ八・五十八)

広い範囲に及ぶことがらを、短い語句にまとめる主の能力は驚くべきものです。主は、人間に必要なものを全て把握し、心の叫びのひとつひとつに、単語ふたつだけの簡単な文章で答えます、『わたしはいる(I am)。』復活、主にあるいのち、何かが起こること、充足、意識、感動、動き、活力、『なにか』を求めて、私は泣き叫びます。それに対して、主の答えは、『わたしは、どんなときも、私の思いの中では、どこにいても、よみがえりであり、いのちです。』ああ、この『どんなときも――どこでも』という事実により頼み、主のゆえに、私たちは生きていけます!主は私たちを、外へと拡がっていく教訓、経験、そして、教えから遠ざけます。このような経路は多くの害を及ぼしてきました。

2020年7月5日日曜日

【Daily Open Windows】7月5日

七月五日

信じます。不信仰な私をお助けください。(マルコ九・二十四)

あなたも私も、じっくり考えなければならないことがあります。個人的に、私はことあるごとにこの思いに引き戻されます。すなわち、私は自分が信じているものを信じることを、まだ、徹底的に学びきっていないということです!私は、キリストが完成された御業を信じていますが、それなのに、時に他のどのような人間とも変わらないくらい、自分が惨めになることがあります。なんと曲がった者だろうという思いにとらわれて、自分をあきらめうになることもしばしばです。この世界に、キリスト者としての務めを投げ出したい気持ちにさせるものがあるとしたら、それは私自身です。私の言いたいことが分かっていただけますか?ああ、私たちは自分自身の中にあるものに気付いては、、心をくじかれています!こうしてみると、私たちは、自分が信じるものを信じていないのです。私たちは、キリストの完成された御業を信じ、そして、神がその完成された御業の全てを私たちに負わせることも信じています。神は、私たち自身の中にいる私たちを見ていません――キリストの中にいる私たちを見ています。神は私たちを見ず、私たちの中のキリストを見ます。私たちは、このことを信じていません!本当に信じていたら、私たちは、自分自身から解放されて、真に勝利にあふれたキリスト者となることでしょう。もちろん、これは、私たちがどのように振舞ってもかまわないという意味ではありません。

2020年7月4日土曜日

【Daily Open Windows】7月4日

七月四日

私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。(ピリピ一・二十一)

私はこう思うことが非常によくあります。すなわち、キリストについての膨大な知識、膨大な教義上の理解が、私たちを勝利のよろこびへと導くことができず、パウロのように人のあいだに広がる勝利の精神を生み出すこともできないという事実は、そこで、個人的なキリストではない他の何かが、私たちの心を奪い、占めていることの表れではないかと。私たちは、本で読む知識、大会で聴く知識、講演で語られる知識、歴史から来る知識だけからキリストを知るようになってきています。このため、今の私たちは、大会、本、学問、講演、こう言ったもの全てから離れて、一人だけの場所で、その背後に隠された歴史の中で、キリストご自身により頼んで、キリストから生じて、キリストを知りながら生きるということをしていません。このため、私たちのキリスト者としての生活の大部分が、教えること、主についての知識の問題となっています。

2020年7月3日金曜日

【Daily Open Windows】7月3日

七月三日

こういうわけで、私はひざをかがめて、天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。(エペソ三・十四―十五)

神はこの摂理の中で、神の家族を得るために動いておられ、この摂理に基づいて今、行われていることは、死に打ち負かされるものではなく、また、神は死に欺かれることもありません。主は、ご自身の『家族』を手に入れ、その『家族』の死を欺きます。それは神とか、永遠の力強さなどというものではなく、御父です。そして、御父が追い求めているものとは死のない『家族』です。この『家族』は、死によって分かたれることは決してなく、この『家族』は、死によって壊されることは決してなく、この『家族』には、死による別離など言うものはあり得ず、この『家族』が、死によって子供を失うことはありません。もちろん、この『家族』の一員となる価値を認めるようになると、それは大きな慰めとなります。その価値とは、この『家族』の中では、誰も失われることはないということです。死がその中に手を触れても、これまでならば引き離されていた家族であっても、霊的となった『家族』は、霊的な現実の中、また、御父の家で永遠にひとつになっている限り、もはや引き離されることはありません。人を失うことに苦しみ、大きな痛みを感じることは、私たちの自然で人間的な一面です。しかし、信者の慰めとは何でしょう?私たちは、希望のない者のように悲しむことはしません。私たちの希望とは何でしょう?私たちには御父がおられ、その御父には、死によって壊されず、誰も死によって失われることのない神の家族があることです。私たちの願いとは、神の家族全体が、一人も欠けることなく、ひとつになることです。私たちが、まだ誰も失っていないということが希望です。私たちの希望は、永遠にひとつになることです。『天上と地上で家族と呼ばれるすべてのもの・・・。』これは、父なる神であることの意味の一部であり、そして、これこそ、御父がこの摂理の中で行われていること、すなわち、このような神の家族を持つことです。

2020年7月2日木曜日

【Daily Open Windows】7月2日

七月二日

そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。(第一ヨハネ五・十一)

キリストが死者の中からよみがえったことも、主となられたことも、教義の上で公式に証明されてはいません。あなたが信仰の上に立って、イエス様が死んだ後で生き返り、天に昇られて、今はすぐれて高い所の大能者の右の座に着いておられることを信じているとはっきり述べても、その声明をどうすれば証明できるのでしょうか?その証拠として、神は何かをくださったでしょうか?あなたはこのことを信じているかもしれないし、人生の全てをこの信仰の上に投げ出す覚悟でいるかもしれませんし、そのことを何よりも強いことばで言い表すかもしれませんが、それでも、このことを証明したことにはなりません。『私は力の限り、これが事実であると信じている!』と言っても何の証明にもなりません。立ち上がって、自分は何かを信じていると高らかに宣言しても、そのことを証明することはできません。あなたが、『私はキリスト教の信仰の根本をすべて信じる!』と述べて、聖書の霊感を信じる者であることを表す名前を自分につけても、それでは何も証明できません。このようなことで証明されたものなど何もないのです。ここまで語ってきたことの全体を次の二つの点、すなわち――イエス・キリストは死者から生き返ったこと、そして、すべての主であること――にまとめても、あなたはなお、この自分の声明を、自分で証明しなければなりません。神のみことばがそう述べているという事実に訴えたとしても、あなたは自分では何も証明していません。議論によってこの証明を得ることはできません。議論で立てられるものは、議論で倒されるし、論理で構築できるものは、論理で破られるからです。

2020年7月1日水曜日

【Daily Open Windows】7月1日

七月一日

ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。(第二コリント一・九)

私たちは、自分を十字架に付けることはできても、それより高いところへ自分を掲げることはできません。主が私たちに何かをされるときは、必ずこの事実が念頭に置かれていることを、私たちは知っておかなくてはいけません。ご自身のよみがえりの力を示すために、主は私たちに対して、次のような態度を取らなければならないことがよくあります。たとえば、人間が癒し、救う能力ではとても及ばないほど、何かを回復させたり、あまりに極端なところまで事態を至らせ、その状況を救うことができるものは、この力の他に、宇宙のどこにも存在しないことを示されます。主は、死や分裂が行われることを許され、それによって、ご自身のよみがえりの力の他は、この宇宙にある何ものも、役に立たないようにされます。