2020年7月2日木曜日

【Daily Open Windows】7月2日

七月二日

そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。(第一ヨハネ五・十一)

キリストが死者の中からよみがえったことも、主となられたことも、教義の上で公式に証明されてはいません。あなたが信仰の上に立って、イエス様が死んだ後で生き返り、天に昇られて、今はすぐれて高い所の大能者の右の座に着いておられることを信じているとはっきり述べても、その声明をどうすれば証明できるのでしょうか?その証拠として、神は何かをくださったでしょうか?あなたはこのことを信じているかもしれないし、人生の全てをこの信仰の上に投げ出す覚悟でいるかもしれませんし、そのことを何よりも強いことばで言い表すかもしれませんが、それでも、このことを証明したことにはなりません。『私は力の限り、これが事実であると信じている!』と言っても何の証明にもなりません。立ち上がって、自分は何かを信じていると高らかに宣言しても、そのことを証明することはできません。あなたが、『私はキリスト教の信仰の根本をすべて信じる!』と述べて、聖書の霊感を信じる者であることを表す名前を自分につけても、それでは何も証明できません。このようなことで証明されたものなど何もないのです。ここまで語ってきたことの全体を次の二つの点、すなわち――イエス・キリストは死者から生き返ったこと、そして、すべての主であること――にまとめても、あなたはなお、この自分の声明を、自分で証明しなければなりません。神のみことばがそう述べているという事実に訴えたとしても、あなたは自分では何も証明していません。議論によってこの証明を得ることはできません。議論で立てられるものは、議論で倒されるし、論理で構築できるものは、論理で破られるからです。


では、どうやって、このことを証明すればいいのでしょうか?主のよみがえりのいのちの表現と現れによってであり、それがすべてです――しかし、それは実に力強い『すべて』です!それは、あなた自身が、自分でことばに出した事実の具現化であることを意味します――そこには、教義の上での記述とは違う、生きた表現があるのです。ここで、イエス様の復活、イエス様が主であることは、『証し』と呼ばれるこの表現と結びついています。証しは、真実を作り出す機構ではありません。証しとは、死を克服する主のいのちの力である真実を声に出し、言葉に表した、その上に付加される要素です。では、どうすれば、イエス様が死を克服したことを証明できるでしょう?その証明は、あなたの中でおのずから現れる、死に打ち勝ついのちということになります。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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