2020年7月4日土曜日

【Daily Open Windows】7月4日

七月四日

私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。(ピリピ一・二十一)

私はこう思うことが非常によくあります。すなわち、キリストについての膨大な知識、膨大な教義上の理解が、私たちを勝利のよろこびへと導くことができず、パウロのように人のあいだに広がる勝利の精神を生み出すこともできないという事実は、そこで、個人的なキリストではない他の何かが、私たちの心を奪い、占めていることの表れではないかと。私たちは、本で読む知識、大会で聴く知識、講演で語られる知識、歴史から来る知識だけからキリストを知るようになってきています。このため、今の私たちは、大会、本、学問、講演、こう言ったもの全てから離れて、一人だけの場所で、その背後に隠された歴史の中で、キリストご自身により頼んで、キリストから生じて、キリストを知りながら生きるということをしていません。このため、私たちのキリスト者としての生活の大部分が、教えること、主についての知識の問題となっています。


ことばにすると実に単純ではありますが、しかし、私たちの言いたいことを、あなたは必ず理解してくれるはずです。なぜなら、あなたは、これまでキリストの教義について非常に多くを学んだ後で、主ご自身のことで何かを見いだし、そこに非常に大きな違いがあることに気づいたからです。生きたかたちで主を個人的に経験し、主の知識へと入り込むこと、聖霊によってキリストにあなたの心へと働きかけていただくことよりも、大きな支えになるものはありません。それから、あなたは、自分が受けるたくさんの苦しみよりずっと大きな何か、苦しみを価値あるものに変える何か、そして、苦しみからその死のとげを奪う何かがあることに気づきます。それがキリストです。パウロは、キリストによって生きました。『私にとっては、生きることはキリストです。』では、そのために捨てられたものが何かあったでしょうか?私にとっては、生きることは会合に参加できることです!私にとって、生きることは他の信者たちとの交わりを持てることです!これができなくなったら、私は生きていけません!会合に行けなくなったら、私は生きられません!他の何かに置き換えても同じことです。私にとって、生きることは、働きで人に賞賛されること、労働の成果を認められることです!この生きることは何かという範囲に、自分に必要なものをいろいろと含めて、勝利を味わおうと思えば何でも付け加えることができます。しかし、パウロは周囲を見まわし、自分の働きが傷つけられ、ひどい攻撃を受け、外から破壊されて、古い友人たちが離れてゆき、信頼を無くして、彼を疑っているところを目の当たりにしました。ああ、彼が見たものは、あのような人生を送れば、どんな人でも心を失うほどのものでした。しかし、パウロはこんなふうに言ったでしょうか、『私にとっては、生きることは、自分の生涯の働きが立派な記念碑として立っているのを見ることであり、古い友人たちが皆、私を見捨てることなく、いつも周りにいることであり、私が語ったことばが広く世界で受け入れられ、感謝されてきたと知ることです!』違います!『私にとっては、(人生でこれだけ多くのこと、実に様々なことを通ってきた後も)生きることは、キリストです!』

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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