2020年7月18日土曜日

【Daily Open Windows】7月18日

七月十八日

あなたがたはよく走っていたのに、だれがあなたがたを妨げて、真理に従わなくさせたのですか。(ガラテヤ五・七)

彼らの霊的な競争に何かが入り込んで、走ることを妨げました。これは極めて深刻なことであり、パウロはその存在の奥深くまで揺さぶられました。このガラテヤ人たちの場合、入り込んできたのは、ここでも生まれたままの人間だったのですが、このとき、それは、生まれつきの感情という領域で起こりました。彼らは、キリストのたとえの中で、土の薄い岩地に落ちた種にあたる、すぐにつまづく性質の者たちだったのではないでしょうか。種は直ちに、喜びをもって受け入れられましたが、そのまま育って、実を結ぶことはなかったのです。このように、始まりには情熱的に御言葉を受け入れ、大いに心を躍らせながら、そこから、着実に進んではいかない人たちがいます。ガラテヤの信徒はそのような者たちであり、彼らは御言葉に非常に強い反応を示し、また、献身することを大きな声で断言しながら、すぐに競争から脱落してしまったのです。なぜでしょう?それは、彼らが自分の感情、自分の感覚だけに頼っており、それはとても変わりやすいものだったからです。これは、ただ気質の問題と考えてもいいのかもしれませんが、実際に、このような性質に類するものは私たちのほとんどの中にも見られます。私たちは、外からの問いかけに反応し、大きな感情の動きに屈し、そして、動きを緩めてしまいます。主イエス様のことばを借りれば、『困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしま』うのです(マタイ十三・二十一)。


ここで明らかなように、あなたと私が最後まで走り抜こうとするなら、生まれつきの感情的ないのちの力よりも、大きな力を持たなければなりません。ただひとつの希望は、パウロと同じように、私たちにも、『キリストの愛が取り囲んでいる』(第二コリント五・十四)かもしれないことです。この愛の活力という問題においては、生まれたままの力と霊的な力はあらゆる面で全く違うものです。ここで『取り囲んでいる』と訳されている単語は、イエス様の逮捕をめぐる、『イエスの見張りをしていた者たち』(ルカ二十二・六十三)という文中で使われることばと同じです。すなわち、キリストの愛が私たちを抱きとめ、しっかり捉えることで、私たちの生まれながらの感情が、聖霊の強大な力によって克服されるのです。

私たちの感情は、湧き上がっては消えていきます。感情は時には強いものであっても、とても弱くなることもあります。私たちを強く握って離さないキリストの愛を何も知らなければ、この厳しい競争の終点まで、まっすぐに走りぬくことはできないでしょう。結局のところ、キリストを真に完全なものとするのは、キリストの愛に他なりません。私たちがいつか、同じ完全さに至るとすれば、それはただ、取り囲み、しっかりと抱きとめる主の愛の力によって可能となります。『あなたがたはよく走っていたのに、だれがあなたがたを妨げたのですか?』その答えは、『あなたは、自分の感情の力によって走っていたし、神からの呼びかけに、一時的に気持ちを動かされて、それに対する情熱的な反応として走っていたのだ。』ガラテヤ人への手紙は、信じる者の生活におけるの聖霊の存在を強調することに捧げられていますが、これは、聖霊だけが、走り続けるために必要な愛の活力を私たちに与えてくれるからです。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

0 件のコメント: