2020年7月29日水曜日

【Daily Open Windows】7月29日

七月二十九日

私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。(第二コリント四・七)

神の全ての目的、あの十字架を超えて、よみがえり、引き上げられたキリストとの結びつきの中で、神が私たちにしようとしている全てが成し遂げられるためには、打ち砕かれること、そこに関わる者たちの全てが砕かれることが絶対的に必要です。彼らの見方と世に対する希望が砕かれるだけではなく、内面が砕かれることです。『わたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである』(第二コリント4:7)。すなわち、砕かれた自我、天的な永遠の完全さのために砕かれた器です。


私たちが砕かれるために、主の十字架が必要です。耳障りなことばであることは分かっていますが、完全に真実であるためには、言わないわけにはいきません。あなたに向けられた主の言葉とは、すなわち、あなたが十字架によって砕かれず、神の手の下で本当に砕かれるという経験をまだ通されていなければ、主があなたの中で、また、あなたを通して実現しようしていることは、いつまでも中断されたままで、実行することもできません。主の十字架が意味することがひとつあるとすれば、それは、この十字架こそが、栄光への道であり、天の完全さへとつながる道であるということです。それは、内側で砕かれるという道です。ここで、明確にしておきたいと思いますが、それは、砕かれることには、いくつか違ったかたちがあるからです。落胆して砕かれること、希望や期待がかなえられなかったために砕かれることは確かにありますが、私がここで言っている砕かれるとは、自分の想いが砕かれること、人の中に居座って、その場に陣取り、決して去ろうとしない強い自我が砕かれることです。ここで言っている、砕かれるとはこういうことです。この自我の力は、知性的で精神的なものであろうと、感情的なものであろうと、意思の中にあろうと、生まれたままのいのちが持つこの力は、砕かれなければならないものであり、それは、まさしく、ヤコブのもものつがいに、手をかけて、はずさなければならなかったのと同じです。これと同じようなことが、私たちの中で起こらなければならず、これからの生涯を通して、それは続けられていきます。神は、私たちの自我という領域で何事かをされたのであり、私たちは、自己満足、自己主張、自信、その他あらゆるかたちの自我に関する限り、砕かれた男、砕かれた女とされています。そうでなければならないのです。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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