2020年7月25日土曜日

【Daily Open Windows】7月25日

七月二十五日

いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません。(使徒行伝七・四十八)

キリスト教は、初めにはなかったものが、うず高く積み上げられた姿に変わってしまいました。今日、私たちが知っているキリスト教は、きわめて複雑化しています。神から来たものに、人の手がかかり、そして、人間たちは、この偉大なものを、自分自身の判断に沿って建てようと試みてきました。このために、私たちの前で、全てが混乱し、全てが分裂し、そして、全てが複雑化しています。キリスト教は、本当に苦しい時代を迎えています。キリスト教は、それ自体に対する最大の阻害要因となってしまいました。・・・この国のどこへ行っても、この街のどこへ行っても、天辺に十字架を掲げた立派な宗教的な建物をいたるところで目にします。そして、このような建物に入る人たちは、頭を垂れ、非常に敬虔な者のように見えます。彼らは、これこそ神聖な建物だと考えます。中にある物に手を触れたりすれば、冒涜行為と呼ばれます。神からみれば、全く無意味なことです。このようなことに、全く何の意味もありません。神にとって意味があることはただひとつしかなく、それは、立派な建物でも、その建物の中にきれいに飾り立てられたものでもなく、屋根に立てられた十字架ですらありません。ただひとつ、神にとって大切なのは、主がそこにいるかということです。神御自身は、その場所に臨在しているでしょうか?


私たち自身はどうでしょう。このような会合に入ってきたキリスト者たちが、自分は神の家に入ってきたと語るのを、私たちはよく耳にします。おそらく、彼らは、この会場に向かうときも、こんなふうに言っているのではないでしょうか、『私は神の家に行くところだ。』そして、祈る時のことばは、『今朝、神の家にいられて、本当に嬉しい。主の家にいるのは、すばらしいことだ。』ある場所を、神の家とするものは何でしょう?この場所を聖くするものとは何でしょう?もし、ここが本当に聖い場所であるとするなら、何が聖くしているのでしょうか?建物が聖くするのではなく、ここは建物などではありません。ここに集う人たちが聖くするのでもありません。その場所を聖いものにしてくれるのは、主が臨在しているという事実だけです。主は、私たちが集う場所にも、集会にも関心はなく、ただ、御自身が喜びの中で臨在できる場所を見つけることにのみ、関心を払っておられます。荒れ野に立てられていた幕屋は、今、どこにあるのでしょうか?地中、深くどこかに埋められてしまったのでしょうか。ソロモンの壮大な神殿は、今、どこにあるのでしょうか?!それを探そうと試みても、時間を無駄にするだけだと思います。神が、その全てを埋めてしまったのですからね。・・・キリストから来るのでないものは、何であろうと、いずれは消え去ってゆくことになります。ここを間違えてはいけません。キリスト教のこの全体の構造は、キリスト自身に即して試されようとしています。キリスト教は、それが、どこまでキリスト自身に即した神の御霊の働きであったかという面から、試されることになります。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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