2020年7月26日日曜日

【Daily Open Windows】7月26日

七月二十六日

キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。(コロサイ二・九、十)

キリストは天の啓示であると、私たちは語ってきましたが、キリストはまた、天の満ち満ちた豊かさでもあります。もし、神ご自身の思い、ご自身の考えをキリストの中に表されたら、もし、神が意図されたことのすべてが、個人的な啓示の中で私たちのもとに届けられたら、神は、それを実現と達成するために、豊かな備えをキリストの中にすでに用意されています。これは、私たちの必要の一つ一つが、神の豊かな富に応じて、キリスト・イエスの栄光の中に備えられるためです。キリストの中には、ただひとつの標準が定められているのではなく、神の標準を達成するためのあらゆる種類の備えがなされています。ご自身の目的に達するための神の隠れた備えは、すべて、私たちのため、キリストの中にあります。もし、主が、神の思いのすべてを抱いて出てこられたのなら、主は、神の元にあった備えも、すべて運んで来られたのです。満ち満ちたご性質のすべてが主の中に宿っており、私たちは、主にあって満ち満ちている(コロサイ二・九)。神はいずれ、その啓示の基準に即して、私たちを裁かれますが、もし、私たちがその基準を実現するための全ての準備をしてくれていなければ、その裁きをすることができません。・・・・


神の考えは、天におられるキリストを中心としており、神の備えも、天にあるキリストを中心に置いています。これが意味するのは、この摂理にある主の民は、本質的には天の民であるということ、そして、天の民とならなければ、神の考えに達することも、キリストにある神の備えを知ることも、決してできないということです。どのようなかたちであれ(そして、私たちは今、主の民に向かって語っていますし、キリスト者の生活と呼ばれる生き方のことを語っています)、あるいは、どのような尺度でも、私たちが地上に縛られていたら、その尺度では、神の考えに達すること、神の備えを知ることは、絶対にできないでしょう。神は、本質的に天的であるものを供給し、遂行するという責任だけを負われますが、それはあることが確かに天的であるという尺度で行われるのであり、そして、この尺度でのみ(そして、間違いなくこの尺度によって)、神はその責任を負われます。もし、そのことが、どのようなかたちであれ、世とつながって、この世の制度の一部となっており、地とかかわりを持っていたら、それは、自分だけの責任で、自分の役割を果たし、必要な備えを見つけ、自分が進む道を探さなければなりません。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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