2020年7月23日木曜日

【Daily Open Windows】7月23日

七月二十三日

わたしは、自分からは何事も行なうことができません。(ヨハネ五・三十)

この質問が、主の生涯を試す試験問題であったことに気づくとき、あなたは、主イエス様について、大きな真実の核心に迫ることになります、すなわち、『このお方は、自分から行動し、自分から話し、自分だけで選び、自分だけで決定し、自分だけで動くのだろうか?』そして、主の答えはいつも、『自分からは何事も行いません!』というものでした。『御子は、自分からは何事も行なうことができません。』『わたしがあなたがたに話したことばは、わたしが、自分から話したものではありません。』主に向かって、ありとあらゆる呼びかけが行われ、主が、その場の衝動に動かされ、または、ご自身の手柄になりそうな嘆願に応えて、あるいは、本物の知恵から来ているように見せかけた根拠に基づいて、自分から動き、行動し、話し、何かを行うようと試みました。・・・


その忠告の内容は、時に、その場の状況の必要によって変わり、また、時には、主の奉仕には効果があるという裏付けによって、または、主に向けられた言葉に見られる全くの愚かさにも影響を受けます。たとえば、主を信じていなかった兄弟たちが、出発しようとしない主をたしなめて、『エルサレムに上って行って御自身を表してなさい!』と言った時のようにです。主は彼らに言われました、『わたしはこの祭りには行きません!』それから、主の兄弟たちが上って行くと、すぐ後で、主も上って行かれました。しかし、主は、多くの人が願っているという理由から、上って行くことはされません。すなわち、主は、他の人たちも皆していたからとか、誰もが祭りに行こうとしている中、主も同じことをするように求められたからという理由で、それを行うことはしません。九十九人が何かをしたということは、百人目も同じことをすべきであるという論拠にはなりません。ある考えに拠って行動を決める人が多数派だからと言って、自分も同じ考えに導かれるようなことを、私たちはしません――すなわち、『こちらの方が、多くの人に支持されている!他の人たちは皆、これをしている!これこそ、行うべきことだと誰もが認めている!』違います!御父は、私がこれをすることを望んでおられるだろうか?これが、これからもずっと、私たちの歩みを支配すべき質問です。主イエス様の場合、生涯を通して、主に、逆向きの経路を取らせ、父の御心を探ることなく、御父からの直接の導きもないままに行動させようとする、隠れた働きかけが常にありました。それは、主が、自分の行動を決める主人であって、誰の判断も仰ぐ必要などないかのごとく、御自身の裁量だけで行動させようとする働きかけでした。主の中には、個人的で、独立したものなど、何ひとつなかったのです。ここで言っているのは、単純に、個人的であることによって罪を犯すとか、個人的であることで前向きに生きるということではなく、自分だけで行う行動、ただ、最善の結果を求めて、良い動機から、全く適切な意図を持って行う行動を、主は決して、取られなかったということです。そう、こういった行動は、御父から明白な指示がなくても行われるかもしれません。これは、たとえよい動機から出ていても、自分だけで独立して動こうという考えを生んでしまいます。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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