2020年7月8日水曜日

【Daily Open Windows】7月8日

七月八日

私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。(ローマ六・四~五)

キリストの死によって主とひとつになる中で、私たちの存在は終わって、主の存在が始まり、その始まりから、主は全てになられます。これは、基本的でありながら、先駆的なことでもあります。その意味、その意図において、全てを包み込む事実でありながら、とても先進的でもあります。この事実の完全さを、私たちは、行動によって、受け入れなければなりません。私たちは、次のような立場を極めて明確、かつ、意識的に取らなければなりません。すなわち、私たちにとって、キリストの死にある主との結びつきを受け入れることは、それ以外のどのような立場を取ることも拒否すると言うかたちで実現されるのであり、そして、他の思いが表に出てきたときは必ず、打ち倒され、見放され、前に進むことも許されないようになります。私たちは、自分から明確な意思表示をして、次の真実をきっぱりと受け入れなければなりません。すなわち、これから後は、自我から出るすべてのものは、十字架によって、容赦なくなぎ払われ、また、自我が入り込もうとしても、私たちの中にとどまることすら許されません。


私たちは、この事実をきっぱりと心に受け入れ、また、主はご自身のこの考えを必ず実現されるという、包括的で普遍的で揺るがない土台に立った上で、主と向かい合うべきです。この事実についての私たちの理解ではなく、私たちがこの事実をどう把握し受け取るかということではなく、もはや『私』が生きているのではないことを、自分がどう考えるかということでもなく、そのような『私』であることについて主が知っていることがその土台です。また、自分についての知識の計りではなく、私たちについて主が知っておられることが大切です。『私』というものについて、これまで私たちの考えや想像の中にあったものよりもずっと多くが、これから明らかにされるでしょう。そのとき、自我、私たちが知っている自我ではなく、主が徹底的に知っておられる自我が、あの十字架の力のもとに引き出されることになり、私たちはこれを、行動によって受け入れるのです。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

1 件のコメント:

翻訳虫 さんのコメント...

【翻訳メモ*】この部分だけを読むと分かりにくいところがありますが、この前段で、ガラテヤ書の『私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです(I have been crucified with Christ; yet I live, and yet no longer I, but Christ liveth in me)』を引用して説明されており、そこから話がつながっています。この『私』とは、ガラテヤのこの切にある『私』のことです。