2020年7月16日木曜日

【Daily Open Windows】7月16日

七月十六日

それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。(マタイ十九・二十六)

人にはできないということについて、二つの見方があります。できないという意味をどこに置くか――そのことか、それとも、神か――によって、全ては変わってきます。人にはできないことが神にはできる(マタイ十九・二十六)。そして、神は、これらの不可能なことにごく当たり前のたちで答えます――それが正常なあり方だからです。反対に異常な答え方といえば、何かの兆候や奇跡や特異な出来事を起こし、私たちの感覚にうったえることです。しかし、キリスト者の生活においては、主のいのちがいつでも死の働きを超えているということ、これこそが正常な答えです。この奇蹟は、私たちが考えるよりもずっと身近にあるものです。あなたは、霊的な死という領域の中で、自分の人生を生き、自分の働きをするしかなく、そこでは全てのことが霊的ないのちと敵対しており、あなたを支えてくれるものは何ひとつありませんが、それでもあなたは、主にあって、その中を歩み続け、その世界を覆う雰囲気や状況に飲み込まれ、取り囲まれ、破壊されることはありません。これが、静かに働いている、神のいのちの奇蹟です。あなた自身のいのちは、すなわち――全ての人のいのちがそうであるように――死、霊的な死という大きな石の存在の中に置かれています。私たちはそのことを知りながらも、霊的には生かされており、そして、前に進んで行きます。これは大きな奇蹟です。それは、日々の生活にある奇蹟です。それは、神が主を死者の中からよみがえらせたという証しです。・・・・


主イエス様の復活にあっては――または、こう言い換えてみましょう――よみがえりのキリストとの結びつきの中では、私たちの希望は、この世にある全て希望よりもはるかに大きなものです。私たちは、主の死にあって、自分の宝をちりの中に捨て去り、また、希望や期待や野望や展望など、とても貴重なものを手放さなければならないかもしれません。私たちの世は、川の小石のあいだに置かれなければならないかもしれません(ヨブ22:24)。復活によってキリストとひとつになる中で、私たちがその前から欲していたよりも、ずっと多くのものが与えられます。神とは、そのようなお方です。ことばや音としては耳に心地よいが、それは本当のことなのですかと、あなたは言うかもしれません。そうですね、霊的ないのちと経験を何かしら持っているあなたたちに、私はうったえかけています。あなたは間違いなく、深く暗い試みのときを通り超え、その中で、全てを手放さなければならなかった――あなたは大きな危機に瀕し、とても大切にしていた何かを祭壇の上に置いて、主に差し出すしかなかったのです。もし、主がそれをあなたに返していなかったら、あなたは、霊的な富、霊的な善、霊的な意味でより大きな何か、あなたに『そうだ、これには価値があった!』と言わせるものを受け取ってはいなかったのではないでしょうか?神が十字架を通して、砕かれた全ての希望と期待に対して与える答えは、神の性質からいってそうでなければならないように、墓に横たえられたものより大きな答えです。それこそがよみがえられたキリストの原理です。復活されたキリストは――誤解されることを怖れずに言ってしまえば――、それ以前のご自身より、はるかに偉大な方となったのです。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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