2020年7月31日金曜日

【Daily Open Windows】7月31日


七月三十一日

ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。(ローマ五・十八)

霊的な力とは、あらゆる面でもっとも大切な問題です。実に多くのキリスト者が、自分が考える神の標準に則った生き方をしようとして、気が付けば、絶えることのない戦いの中に囚われています。彼らにとって、キリスト教とは、様々な規範と基準からなる生き方のことです。彼らは、自分が、こうあるべきだ、また、こうあるべきではないということはよく知っており、その生き方の基準を満たそうともがいています。この絶え間ない努力の中では、良心が大きな部分を占めていて、このために、彼らは多くの恐怖を味わいますが、約束された喜びを経験することはできません。彼らの人生は、たくさんの失望と失敗であふれた苦行のようになってしまっています。ときには、自分が何かを立派に成し遂げたような気持になり、大きな喜びを味わうこともありますが、たましいの中では思いが散り散りに乱れ、結局は、全てが崩れ去って、悪い方向に進んで行くようです。このために、人にはキリスト者の人生は重荷で満ちているように見えるのです。彼らは、真の勝利、真の解放と主の喜びを知りたいと熱望していますが、実際には、絶え間ない戦いの中で浮き沈みを繰り返しているだけです。新約聖書に描かれているキリスト者の人生が、実際の自分の経験とは全く違っているように思えてしまうため、悪魔はすぐにそこに付け入って、いつも勝利する人生など決してあり得ないし、そんな望みはすべて夢物語に過ぎない、という思いを植え付けようとします。サタンは、神の民が、神の力を知る希望を失わせようと望んでいます。しかし、決してそのようにならない全く違う人生もあります。それは、キリストにおいて既に完成したものの中に入るところから始まるからです。すなわち、その人生は、自分で達成する何かではなく、既に成し遂げられたものの上に立っています。それは、生きていく上での人生の基準ではなく、共に生きるただ一人のお方のことです。この二つの生き方の違いはあまりに大きく、測ることすらできません。前者は、自己努力と敗北の人生であり、後者は、キリストの実在、神の力を享受することからなる人生です。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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