2020年7月15日水曜日

【Daily Open Windows】7月15日

七月十五日

私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。(第二コリント五・十六)

他の何にもまして大切なのは、御霊を通してお互いを知ることが絶対的に必要であるということです。『キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、・・・主のために生きるためなのです。』『ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。』これが意味するのは、私たちは、自分で判別できる限り、自分の生来のすがたを、私たちの関係、私たちの期待、私たちの判断、私たちの判定、私たちの評価を計る最終的な基準とはしないということです。これは、私たちがお互いの人間的な性質に気づかないということではありません。私たちがもはや、肉にある自分の姿には驚かないという意味ではないし、お互いの性質の欠点には、完全に目をつぶることにするという意味でもありません。違います!私たちはいつも、敏感であるべきです。私たちが、より霊的であるほど、生まれたままの自分たちがどのようなものであるか、また、他の人たちの生来の性質がどうか、より敏感になっていくということ、おそらく間違いないことでしょう。私たちはおそらく、お互いが生来持っている欠点と不完全さ、強さと弱さのために、いっそう苦しむことになるのではないでしょうか。


この世に属する人たちがお互いとうまくやっていくことの難しさは、キリスト者がそのために味わう困難に比べれば、非常に小さなものです。彼らは、お互いの面倒な部分や気質には目をつむって、うまく乗り切ることができるようです。キリスト者たちは、その種の事がらについて、他の人たちよりも、はるかに強く影響され、また、もっと鋭く感じ取るように見えます。もちろん、この事実は二つの筋道に沿って説明できます。私たちは、霊的に敏感になると、肉の存在を今よりもずっと俊敏に感じるようになります。すなわち、霊的ではないものがあると、霊的な敏感さの前に自ずと現れてきます。もうひとつの事実として、私たちには、忘れてはならない敵対者がおり、その敵はいつでも、人の不完全なところを巧みに利用し、その不完全さを表に浮き出させることによって私たちを撃とうとします。敵対者は、こうして主の人々のあいだのつながりをひっくり返すことを狙って、今も働いています。この敵は、決して倦むことがありません。お互いを肉によっては知らないからといって、私たちにとって、肉から生じる領域が全く存在していないということにはならず、それが意味することは、私たちがその領域の先を見るべきであること、そして、常に御霊の恵みと助けを求めることによって、自分たちの生来の性質を見抜いて、お互いの中にある主イエス様と御霊から来ているものを認め、そこから目をそらさないという強い決意を養い育てていかなければならないということです。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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