2020年7月9日木曜日

【Daily Open Windows】7月9日

七月九日

ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。(ヨハネ九・二十五)

あなたや私が、人生のどこかの段階で、自分が持っているものだけで完全に満足してしまい、持ったことのない何かをどうしても手に入れたいという欲求が全くなくなったら、それでも、前に進み続けるでしょうか?もちろん、しないでしょう!私たちを前に向かわせるために、主は特別な経験を通らせます。それは、私たちが新しい見方で主を見て、新しいかたちで主を知ることが絶対に必要となるためであり、また、最後の時に至るまで、そのままであり続けなければならないのです。その中で、何かが見え、再び何かが見え、さらに何かが見えるという一続きの難局を経て、主が私たちの目を開くとき、これまでには言えなかったことば、『私には見える!』を言えるかもしれません。ですから、大切なのは、学問、勉強、本から得る知識ではなく、主を知ることで得られる知恵と啓示の霊であり、私たちの心の目に光が当てられることであり、こうして見ることが、本当に必要とされる権威の証印が加えられることになるのです。今日、求められているのはこの要素、この特徴です。すなわち、見ること自体が目的なのではなく、新しい権威ある語りかけができることが大切です。


今日、権威ある声はどこにあるのでしょう?本物の権威をもって話す人々はどこにいるのでしょう?生活のあらゆる局面で、私たちは権威ある声を、ひたすらに探し求めています。教会がひたすら求めているのは、霊的な権威をもつ声、「主はこう言われます!」――この預言者の響きを持つ声です。この権威がないために、この世界は弱り切っていますが、その権威とは、既に見た人に与えられている権威です。盲人として生まれながら、見えるようになった男の証し、『ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです』――ここには、イスラエルにあるすべての権威、あらゆる伝統と学問に裏打ちされた全イスラエルの権威よりもはるかに大きな権威があります。そして、主イエス様に大きな影響力を与えているのはまさしく、『イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられた』(マタイ七・二九)という、この事実ではないでしょうか。律法学者は権威ある者たちでした。法の解釈を求める者は、律法学者たちのところに来ました。権威ある立場とは何かを知りたい人は、律法学者たちに会いにきました。しかし、主は、律法学者たちのようにではなく、ただひとり、権威ある者のように話されました。その権威は、どこにあるのでしょう?それは、あらゆることで主がこう言えたという事実の中にです、『私は知っています!私が読んだこと、教えられたこと、学んだことに力があるのではなく、力があるのはここです――私は知っている!私は見た!』

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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