2020年7月28日火曜日

【Daily Open Windows】7月28日

七月二十八日

神にとっては何事も決して不可能ではありません。〈神から出る言葉で、実現の力のないものは一つもありません〉。(ルカ一・三十七、詳訳聖書)

主イエス様が十二人の弟子たちを選んだとき、そこには――その選択の背後、そして、ずっと一緒に過ごす仲間たちをそろえた目的の背後には――神の家族たちとの関わりという面での、この神の初子の特徴を示し、表すという意図があったのではないでしょうか。別の言い方をすれば、主イエス様のご性質を、地上におられたときの信者たちとの関わり方の面から調べてみれば、そこに、御父が考える家族のあり方とはどのようなものかという、その良い例を見ることができます。例として、この十二人の不完全さ、欠点、弱さを取り上げて、それに対して主イエス様が取られた態度をみてみましょう。聖霊は、このような失敗や欠点を覆い隠そうと苦心したりはしません。この弟子たちを、理想的な人間の集まりであるかのように伝えようという試みは一切、行われていません。彼らの肖像は、現実の姿に即して描かれていて、言い難いことも――悪いところも、よいところも――そのまま記されており、不快なことも何ひとつ隠されていません。見た通りうありのままに彼らは描かれ、何も消されていません。そのすべてが明白に表されています。主イエス様が手をかけていたのは、扱いやすい集団ではなく、ことあるごとに希望を失わせるような人たちでした。しかし、この扱いにくい一握りの人たちとの関わり方において際立っていたのは、主の彼らへの信仰でした。


主イエス様は、この男たちをどれだけ信じていたことでしょう!主は、彼らに信頼を置いていたのではなく、彼らの中に何かよいものを見て信じていたのでもなく、彼らのことで、御父に無限の信仰を置いていたのです。主の態度とは、『そう、神にとって不可能なことは一つもない。ここにいるこの男たちは、どれも扱いにくい人で、わたしを悲しませてばかりいるし、わたしの言うことも全く理解していないようだ!いつも間違って理解してしまうし、大事な点を必ず見逃してしまう。わたしが何かを言うと、彼らはそれを全く間違った方向から捕らえてしまう。彼らの見解、期待や欲望を見ても、どこまでも実利主義的な人たちだ。この世と、自分の個人的な関心を超えて、幅広く見ることができない。霊的な概念を把握する能力が、彼らには全く欠けている。それでも、御父は、彼らのような一握りの人たちを用いて奇蹟を行うことができるのだから、まさしく、神にとって不可能なことは一つもない。』

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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