2020年7月1日水曜日

【Daily Open Windows】7月1日

七月一日

ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。(第二コリント一・九)

私たちは、自分を十字架に付けることはできても、それより高いところへ自分を掲げることはできません。主が私たちに何かをされるときは、必ずこの事実が念頭に置かれていることを、私たちは知っておかなくてはいけません。ご自身のよみがえりの力を示すために、主は私たちに対して、次のような態度を取らなければならないことがよくあります。たとえば、人間が癒し、救う能力ではとても及ばないほど、何かを回復させたり、あまりに極端なところまで事態を至らせ、その状況を救うことができるものは、この力の他に、宇宙のどこにも存在しないことを示されます。主は、死や分裂が行われることを許され、それによって、ご自身のよみがえりの力の他は、この宇宙にある何ものも、役に立たないようにされます。


私たちは、アブラハムがたどり着いたあの場所に行くことになります。アブラハムは、信仰の偉大な模範となり、よみがえりのただ中へ入りました、『アブラハムは、自分のからだが死んだも同然であること認めました』(ローマ四・十九)。『死んだも同然』とは、あの使徒がアブラハムについて語るときに使った言い方です。そして、パウロは、『ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした』(第二コリント一・九)という状況に置かれました。創造の世界で、人間たちに他に何ができようとも、死が現実のこととして迫ってきたとき、その場で立ち尽くすしかなく、それ以上、できることなどありません。よみがえりとは、神がされること、神にしかできないことです。いのちがあるとき、人間にできることはたくさんありますが、いのちがないときも、何でもできるのは神だけです。そして、神はご自身の教会と、そこに属する者たちが、どこから見ても、人間の助けがとても及ばないような状況に陥るがままにされることがよくありますが、これは、主が御力を示すため、主ご自身を現されるため、その中に人が栄光を受ける場所はないことを示されるためです。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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