2020年7月14日火曜日

【Daily Open Windows】7月14日

七月十四日

わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。(ルカ十二・四十九、五十一)

あなたも私も、御霊の男、御霊の女となろうと思うなら、安楽な生活を送ることにはなりません。地獄がそれを許さないからです。すぐに衝突が生まれ、また、御霊が私たちの中で思うがままに振る舞って、神の大きな御心へと近づけるようになるほど、私たちは間違いなく、より多くの敵対や反目と向かい合うことになります。そして、それは、私たちと世のあいだに生じるだけではなく、時には、主を信じる民のあいだにも渦巻くように入り込んできます。この挑発を避けることはできません。あなたも、いったい、なぜなのかといぶかることもあるでしょう。新約聖書を読めば、こう感じるでしょう、『この人たちはどうなってしまったんだろう?なぜ、あんなに動転し、また、苛立っているのだろう?ここに書いてあることが、なぜ、起こってくるのだろうか?しかも、何度も繰り返すし、まったく理屈に合わないではないか?』しかし、確かにそう書かれているのです。そこにあるのは事実です。避けることはできません。


お分かりのように、主がそのために来られ、今もしておられるこのことには、中立的な立場が入り込むことはできません。明白に二つのうちのどちらかになります。賛成するか、反対するかのどちらかです。燃える炎のような目(ここでまた、炎が入ってきます)炎のような目は、中途半端な態度を取り続けること、また、ラオデキアの性質を持つものを絶対に認めません。この火は、いつでも前向きな要素であり、そして、前向きな状況を作り出します。もし、全てのことが、ただ、心地よく、静かで、そこに何の混乱もなく、問題も起こらず、また、対立や敵対もなければ、本当に御霊がたくさんの働きをされているのか問いかけてみた方がよいでしょう。なぜなら、御霊はこの前向きな生き方を目的とされており、それは、非常に大きな犠牲を伴うものだからです。主とともにあるか、あるいは、主にそこにはいないのか、そのどちらかであり、中間はありません。遅かれ早かれ、このことは表に現れ、目の前に降り注ぎます。今、主は、自分が来たのはこのためであると言われています。これは、偶然ではないし、予期せずこうなったものでもなく、何かが間違ったり、しくじったわけでもありません。まさしく、主が来られたのはこのためです――すなわち、地に火を広げるためであり、そこで起こることは、その火が引き起こす避けられない結果なのです。こうして起こることが、大きな働きをします。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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