2020年7月30日木曜日

【Daily Open Windows】7月30日

七月三十日

あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。そのようなものは、人の言い伝えによるものであり、この世に属する幼稚な教えによるものであって、キリストに基づくものではありません。(コロサイ二・八)

愛する友人の皆さん、伝統と照らし合わせて、このように言うことには、まったく意味がありません、『そう、神は、始まりにこのようにされた、ここが、神からのお告げが見られる場所であり、また、神の宮が築かれ、選ばれた民であるイスラエルの偉大な伝統が作られたところだ。ここがその場所なのだから、私たちもここに腰を据えよう。』いや、今、伝統は助けになりません。歴史も、今となっては助けになりません。制度も、今では助けになってくれません。神にとっては、宮、契約の箱、祭壇や祭司制度などは、もはや、どうでもいいもののようです。神は、預言者を通して叫んでいます、『下がれ、あなたは引き下がれ。わたしは、あなたが持ってくるいけにえなど欲しくはない。』イザヤ書58章。何という章でしょう!『せいいっぱい大声で叫べ。声をあげよ。』後に続くことばはどうでしょう?『しかし、彼らは日ごとにわたしを求め、わたしの道を知ることを望んでいる。』『わたしは、そんなものはひとつも受け入れない』と、主は言われます。『そのようなものをひとつも受け入れない。それは、わたしが望むいけにえではない。その儀式をわたしは求めていない。この伝統的な制度は、わたしが望むものとは違う。わたしが求めるのは、ある霊的な状態だ。』そして、その霊的な状態にあって初めて、主はご自身をシオンと結び合わせ、シオンとひとつになることができるのです。・・・・


ヘブル人への手紙をもう一度、読めば、私たちがシオンに来ていることが分かります。私たちが来ているのは、何かのもの、宗教的なもの、何かの伝統ではないし、歴史的なキリスト教でもありません――こう言わせてもらってよければ――私たちを驚愕させるため、周到に用意された、ある霊的な状態に来ているのです。ああ、私たちは言います、『私たちは、神の恵みの日に生きている。これは、恵みという摂理だ。』確かにそのとおり!ヘブル人への手紙は、神の恵みという土台の他に、別の何かの上にも立っているでしょうか?他の土台などないことは確かですが、しかし、あなたは、この手紙に聖書の中でもっとも恐ろしいことばが書かれていることを、知っていますか?『どうしてのがれることができましょう(のがれるとは私たち、キリスト者である私たち、この摂理を信じる私たちのことです)。私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにしたばあい、どうしてのがれることができましょう?・・・・私たちの神は焼き尽くす火です・・・・生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。』このようなことばが、この人たち、このキリスト者たちに語られており、また、他にも、同じようなことが記されています。しかし、私がここで指摘しているのは、この手紙が書かれているのは神の恵みの日であること、そして、この日、目の前に示されるのは、何か新しいキリスト教の制度や、新しいキリスト教の伝統の形成ではなく、ある霊的な状態であり、それがなければ、他のすべてが無に等しくなるということです。あなたがたは、シオンに来ているのですが、実は、シオンの争いに加わったのです。あなたがたも、私たちも、シオンの大きな戦いに参加するようになったのであり、それは、霊的な戦いです。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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