2021年2月7日日曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】2月7日

私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。【詩篇42:2】

私が受け入れることも、容認することもできないのは、神を知らないのに、どのように礼拝すべきかを語る人です。私の神への礼拝は、ひざまずいて聖書を開き、神を求めて心が喘ぐところから始まります。

神への礼拝の仕方を指図する自然詩人に従うことを、私は絶対にしません。その指図が、人間的な観点から来ていることは明らかです。確かに、瞑想すること、自分の姿をあらわにすることによって様々なことが生まれ、多くを得られるでしょうが、私はそれを受け付けません。

私の礼拝は神とともに始まります。それは、アブラハム、イサク、そして、ヤコブの神であって、哲学者、科学者、詩人や音楽家の神ではありません。

私は、感情を否定はしませんが、感情は単独ではむしろ危険なものとなります。感情は間違っていることもあります。しかし、最終的な目標、そう呼んでよければ、それは神の臨在を圧倒されるほどに感じることです。そう呼びたければ、それを感情と呼んでもかまいませんが、この感情は、既にある神の臨在に焦点を当てています。感情が私を神の臨在へと導くことはあり得ません。ここが、間違いを犯すところです。人の感情を操ることができる者は、私たちの礼拝を支配します。私はこの人生で受け入れるものとして、神だけを望んでいます。

雄鹿が、冷たいせせらを求めて喘ぎ、、
熱くなった身体を冷やすように、
私のたましいも待ち焦がれる、ああ神よ、あなたを、
そして、心を生き返らせるあなたの恵みを。
ナハム・テート(1652–1715)とニコラス・ブラディー(1659–1726)

愛する父よ、私は他のすべてに背を向けて、今日この生活の中で、あなたを待ち、あなたの臨在が豊かに満ちることを望んでいます。導いてください。あなたの恵みの冷たいせせらぎへと私をお導きください。イエス様の御名によって、アーメン。

My Daily Pursuit, Devotions for every day
A.W. Tozer

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