2019年12月20日金曜日

スポルジョン、『もろびとこぞりて』、第二十日

もろびとこぞりて―降臨節に向けた25章
チャールズ・H・スポルジョン

第二十日:恐怖への救済

さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」(ルカ2:8-12)

ここにあるのは恐れからの救済です。神が私たちとともにある。神が人のからだを持った。

この言葉にあるように、羊飼いたちには恐れる必要はなかったのです。御使いが彼らに良い知らせを伝えに来たからです。何が起こるのでしょうか?『私はすばらしい喜びを知らせに来たのです』とあります。しかし、この福音とは何でしょう?後になると、福音とはキリストが生まれたことであると知らされます。ということは、このときは、キリストが生まれること、神が降りてきて、人間の性質を御自身に結び合わせたことが、人間にとっての良い知らせなのです。

これは、確かに良い知らせです。天を造られた方が、飼い葉桶で眠っています。これは何を意味しているのでしょう?ここで、人間の性質が神の性質とともに働くようにされているからには、神が人間の敵である必要はもうないということです。

永遠なる神は私たちから、遠く離れているように思えます。神は無限であり、私たちは小さな生き物に過ぎません。人間と神のあいだには、被造物の立場から見ても、動かしようもない大きな溝があるように見えます。しかし、神であるお方が、人にもなったのです。神が天使の性質を御自身に結びつけたなどというはなしは聞いたことはありません。ここから、神の性質と天使の性質のあいだには無限の距離があると言えます。しかし、主は、実際に人間の性質を御自身に与えました。ですから、超えられないほど大きな溝はもはやなく、逆に、ここには、驚くべきつながりがあります。神という存在が、人間という存在と婚姻によって結ばれたのです。

私の魂よ、父親が声も聞こえないほど遠くへ行ってしまって、深い海に向かって泣いている、哀れで寂しい孤児のように立つのはやめなさい。造り主があまりに遠くに行ってしまって、求めに応えることも、叫びを聞くこともしてくれない、裸で哀れな幼子のようにすすり泣き、ため息をつくのはやめなさい。あなたの造り主はあなたと同じものになったのです。強すぎることばでしょうか?その方なしには、造られたものが何ひとつ造られなかったお方が、私たちと同じ幕屋に住み、人間となった方と同じことばで表されています。人間となられたことで、罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように試みに会われたのです。

人間である皆さん、あなたがたに、このような知らせがかつてあったでしょうか!哀れな人間よ、塵の中に住む弱い虫のようなあなた、御使いよりもはるか低いものたち、頭を上げて、恐れることをやめなさい!哀れな人間よ、弱さの中で生まれ、労苦の中に生き、汗にまみれ、そして、最後には、死んで虫に食まれるものたち、御使いたちの前でさえ恥じいることはありません。神の次に来るのは人間であって、そのあいだには、大天使でさえ入ることはできないからです。

[38] God incarnate, the end of fear - Sermon delivered 23rd December 1866

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