2025年5月5日月曜日

祈りのハイド(1/5)、フランシス・A・マッゴー著

祈りのハイド
PRAYING HYDE

フランシス・A・マッゴー著
FRANCIS A. McGAW
瀬尾要造訳
いのちのことば社

1.家庭内のキリスト

「きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」(ルカ一九・五)とイエスは言われました。その日はザアカイにとって、何という恵みの時であったことでしょう。キリストが家に来られたのですから。

人々がしばしば「祈りの使徒」と呼ぶジョン・ハイドは、イエスが常に臨在され、たえず祈りがささげられる家庭に育ちました。私は、ジョンの父である神学博士スミス・ハリス・ハイド氏とは、彼がイリノイ州カルセージの長老教会で牧会していた十七年間、親しくしていました。シカゴのヘリック・ジョンソン博士は永眠する少し前に、ハイド氏についてこう書いています。

「ハイドの父は、まれに見る均衡のとれた人で、いのちにあふれ、親切で剛健で、確信に満ち、しかも教養豊かで、あふれる喜びを持ち、神のご用のためには全力を注ぐ人であった。」

私は個人的に、彼が家庭において礼儀正しい愛すべき夫であったことを知っています。また、彼が「家族に命じて主の道を守らせる」、堅固な、しかし思いやりのある父であることも知っています。ハイド夫人は、明朗、温和、音楽好きで、キリストの品性を身につけた人でした。その家庭で育った三人の息子と三人の娘たちのことも私はよく知っています。

私はたびたび、この家族と食卓を囲みました。また、この家族に不幸があったとき、見舞ったことが二度あります。一度は、ハイド夫人が永眠したとき、さらには、親愛なるジョンのなきがらが家に運ばれ、いとしくもモスリッジ墓地に横たわるときでした。

彼らと共にひざまずく機会もたびたびありました。家拝(家庭礼拝)の際、ハイド博士が神の御前に心を注ぎ出して祈るとき、若い牧師であった私は、不思議な感動を覚えたものです。

また、その牧する教会や長老派の諸集会におけるハイド博士をも知っています。彼は高潔な神の人でした。神の御手に導かれて、その集会は恵まれました。彼は牧師の間でも指導的立場にありました。私は彼が、収穫の主に収穫のために働き人を送り出してくださるよう祈るのを何度も聞きました。彼は家拝においても、また講壇からもこの祈りをささげたのです。神が彼の息子のふたりを福音の使者として、またその娘のひとりを、しばらくの間でしたが、活発な主の働き人として召されたのも不思議ではありません。

ある牧師が、「私の息子は、決して私の跡を継いで教職につくことはないでしょう。彼は教職に対して世間が行う仕打ちをよく知っているからです」と言うのを聞いたことがあります。これに反してハイド博士は、自分の職務を尊重し、その子供たちを喜んで困難と試練の多い生涯にささげました。今日、私たちの国に、牧師のいない教会が数多くあるのはなぜでしょうか。最近、ある卓越した牧師が私に言いました。「私たちの教団は、牧師が非常に不足している」と。外国の宣教地に、今なお、神の御子の永遠の福音を宣べ伝えてくれる人を待っている無数の人々がいるのはなぜでしょうか。

私はきょう、インドへの宣教師であったW・B・アンダーソン博士の書いた「インドの極北」と題した論文を読みました。それによると、今日インドでは、一億の人々がイエス・キリストの福音を聞いたことがありません。しかも、イエス・キリストについて聞くわずかな機会さえない状況にあるとのことです。アフリカやその他の国々においても同様に、キリストを知らない数多くの人々がいるのです。なぜそうなのでしょう。それは、祈りの密室がさびれ、家拝の壇はくずれ、講壇の祈りは形式的でいのちがないからです!

聖書学校や神学校は、必要な働き人を供給することは決してできません。私の亡き母は娘時代に、異教の国々に福音の門が開かれるよう祈りました。その後、十人の子の母となったとき(そのうち八人が成人しました)、母はこれらの開かれた門に進み入るべき働き人のために祈りました。神は息子のひとりをインドに遣わし、ふたりの娘を中国に遣わされました。

異邦人への大使徒は世を去るとき、その子テモテに手を置き、「みことばを宣べ伝えなさい」との任命を与えましたが、その背後には祖母ロイスと母ユニケの祈りがありました。

ジョン・ハイドは、祈りの答えとして起こされたのです。そして、彼がインド人の中で数年の間祈ったとき、神はその祈りに答えて、多くの現地の働き人を起こされました。教会のかしらなる主は、働き人を得るために一つの方法を備えられました。主は言われます。「目を上げて畑を見なさい。色づいている。・・・・・・働き手が少ない・・・・・・祈りなさい!」と。


2.聖なる地

モーセの幕屋には非常に聖なる一室があり、多くのイスラエルの民のうち、ただひとりだけがそこに入ることを許されました。しかも一年のうち、ただ一日だけでした。そこは至聖所と言われました。ジョン・ハイドが神に会った場所は聖なる地でした。彼の生涯の舞台は、普通の人の目にはあまりにも神聖でした。私はそれらを公表するのをはばかります。

しかし、ヤボクの渡しにおけるヤコブ、カルメル山上のエリヤ、イスラエルのために苦闘したパウロ、そして特にゲッセマネの愛するお方を忍ぶとき、私はこの神の人の経験を多くの人々に、神の教えと戒めのために発表すべきであると、神の御霊に促されたのです。そこで、私たちはジョン・ハイドの祈りの密室の近くに立ち、嘆きとうめきとを聞き、そのほおに流れる涙を見、また、彼がもだえつつ、食を断ち、夜を徹して、やせ衰えながらも、「おお神よ、たましいを与えたまえ。でなければ、私を取りたまえ」と嘆願する日々を見ることにしましょう。


3.決定

ハイドが外国伝道をしようと決心するまでには、次のような経過がありました。彼の一番上の兄エドモンドは説教者になるために神学校で学んでおり、同時に外国伝道を志していました。ある夏の休暇中、彼はモンタナ州の日曜学校協会の働きに従事していました。そこで彼は高山熱にやられました。医者は、イリノイ州にある実家に至急帰るよう勧めました。そこで、鉄道の切符と、車掌への注意書きとをコートのえりにピンで留めてもらい、出発しました。彼は途中で人事不省になりましたが、家まで無事に運ばれました。数日ののち、彼は世を去りました。すでに説教者になろうとしていたハイドは、兄の死によって、強く心を動かされたのです。外国伝道のために欠員が生じることになる、自分がそこに踏み入ることが御旨ではないかと。

決定は、次の年、神学校の最終学年までのばされました。ある土曜の夜遅く、彼は級友の部屋に行き、外国伝道の問題について考えていることをみな話してくれるよう頼みました。級友は、ハイドに必要なのは議論ではなく、自分の部屋に入って神の前にひざまずき、問題が解決するまで待ち望むことだと言いました。翌朝、彼はチャペルで級友に、「決まったよ」と言いました。その輝いた顔は、どの道に決定したかを告げるに十分でした。


4.出帆の日、そして航海

底知れぬ深さ、大きな波のうねり、来る日も来る日も水また水。足はなつかしい国土を離れましたが、まだ未知の国を踏むことはできません。これらはみな、深い黙想の好機となりました。ジョンにとって、一八九二年の秋のこの航海は、内省と祈りの時でした。彼はそこで一通の手紙を受け取りました。のちに、そのことをインドのある出版物の中にこうしるしています。

「私の父には、宣教師になりたいとの大きな願いを持ちながら、行くことを許されなかった友人がありました。この人は、船気付で私に一通の手紙をくれました。私はニューヨーク港を出て数時間後にそれを入手しました。彼はその手紙の中で、宣教の働きのために欠けてはならない資格として、聖霊のバプテスマを求めるようにとしきりに勧めました。手紙を読み終えると、私は腹を立てて手紙をもみくちゃにし、甲板に投げ捨てました。

この人は私が聖霊のバプテスマを受けていないと思っているのか。私がこの資格なしにインドへ向かおうとしていると思っているのか。私は腹を立てました。しかし、そのうちに考えを改めるようになり、手紙を拾い上げてもう一度読みました。そして、うすうす、私がまだ受けなければならないものがあることに気づき始めました。そのことがあってから、その残りの航海は、真に御霊に満たされるために、多くの時間を祈りに費やしました。また、『聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります』(使徒一・八)とイエスが言われたとき、どのようなことを意味されたのかを実際の経験によって知るために祈りました。船上におけるこれらの祈りは、結局、驚くばかりに答えられました。」


5.インドでの第一年

最初のうち、ジョン・ハイドはあまり人目を引かない宣教師でした。彼は話すのが遅く、質問や意見が彼に向けられても聞こえないように見えたり、聞いても返事をするまでには時間がかかるように思われました。聴力が少し弱かったため、語学の習得に支障を来さないかと懸念されました。彼は柔和で穏やかな人でしたが、若い宣教師が持っているはずの熱心さに欠けているようにも見えました。しかし、その美しい青い目は、相手の心の深いところまで探るようであり、また、預言者のたましいから輝き出たようにも見えました。

インドに到着すると、彼は当然のごとく、ことばの勉強に取りかからなければなりませんでした。学び始めたものの、やがて、聖書の学びのためにこれを怠るようになりました。委員に叱責されたとき、彼は「第一のものを第一に」と答えました。自分はインドに聖書を教えるために遣わされたのであって、教えるためにはまず自らが教えられる必要がある、というのが彼の持論でした。神は御霊により、彼に驚くほど聖書を開かれました。同時に彼は、ことばの学習も続けるようになりました。

「彼はウルドゥー語、パンジャブ語、そして英語を、正確に、すらすらと話すようになりました。しかしそれ以上に、天国のことばを習得しました。そのため、彼が神のみことばの真理を打ち開くとき、何百人ものインド人が魅せられたように聞き入るのでした。」


6.パンジャブ祈禱同盟

すべてのリバイバルには神の側と人の側があります。ウェールズのリバイバルにおいては、神の側の要素が顕著です。神に導かれてリーダーとなったエバン・ロバーツは、ある意味で、神に働きかけられて動いた受け身の人であったように思われます。彼は真夜中に、聖霊によって大きな促しを受けました。そこには何の組織もなく、説教もほとんどありませんでした。人間的な要素は比較的希薄でした。シャルコットのリバイバルは疑いもなく神からのものでしたが、それほど自然発生的でないように思われます。そこには、神の導きのもとに組織が作られ、一定の明確な計画と、長い継続的な祈りがありました。

人間の働きがどのように役立つかを示すために、パンジャブ祈禱同盟のことをお話ししましょう。これは、最初のシャルコット聖会が行われた一九〇四年から始まりました。この同盟の主旨は質問の形式で書かれ、会員になる人々はそれに署名しました。

一、「あなたは自らの生活、同労者の生活、また教会に復興が起こるために祈っていますか。」

二、「あなたは自らの生活および働きのうちに、聖霊のより大きな力が与えられるよう切望していますか。また、この力がなければ進むことができないと自覚していますか。」

三、「あなたは、イエスを恥じることがないよう祈りますか。」

四、「あなたは、祈りがこの霊的覚醒を得るための偉大な手段であることを信じますか。」

五、「あなたは、毎日昼過ぎのできるだけ早い時間を三十分間、覚醒を求めて祈るために聖別しますか。そして覚醒があるまで祈りますか。」

ジョン・ハイドは最初からこの祈禱同盟にかかわり、シャルコット聖会で一部の働きを担っていました。祈禱同盟の会員はキリストに命じられたとおり、目を上げて、色づいている畑を見ました。彼らは聖書に神の不変の約束を見、この霊的覚醒を得る唯一の手段は、ほかならぬ祈りであることを知りました。そして、その結果を得るまでは、慎重に、確実に、また必死にこの手段を用いました。シャルコットのリバイバルは、偶然でもなく、思いがけない天からの風でもありませんでした。「リバイバルは、小麦の収穫以上の奇蹟ではない」とチャールズ・G・フィニーは言っています。どのような団体においても、リバイバルは雄々しいたましいが、勝利を得るか死ぬかの戦い――必要であれば、勝利を得て死ぬような戦い――に足を踏み入れるときに、天よりもたらされうるものです。「天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています」(マタイ一一・一二)。


7.三人

聖書には、ダビデの勇士たちの名がしるされています。その中には最初の三勇士、次に第二の三勇士、最後は三十人の勇士が出てきます。イエスには多くの無名の弟子たちがあり、また十二弟子がありました。しかし、主の最も近くには、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子がいました。

数百の人々がシャルコットに来て、祈りと賛美によって大いに助けました。しかし神は、数人をリーダーとして尊ばれました。彼らの名前をあげるのは、決してへつらいやお世辞によるのではありません。神のみことばには、「敬わなければならない人を敬いなさい」とあります。神は、ジョン・N・ハイド、R・マッケーン・パターソン、およびジョージ・ターナーのうちに、このすばらしい聖会のために大きな祈りの重荷を負わせられました。

内外の働き人、すなわち牧師、教師、伝道師の霊的生活が深められるために、聖書研究と祈りのための年会が開かれる必要がありました。パンジャブ(実際は全インドと言いたい)における教会の状態は、聖書の標準からはるかに低いところにありました。聖霊はこれらの教職者たちからほとんど重んじられていなかったので、キリストを知らない数百万の人々の中からわずかな人が救われただけでした。シャルコットはこの集会のために選ばれた場所で、一九〇四年は第一回目の聖会が開かれた年として記憶すべき年です。

最初の諸集会の一つが開かれる前、ハイドとパターソンは丸一か月の間、待望の時を持ちました。三十日の間、昼夜、この敬虔な人々は祈りのうちに神を待ち望みました。聖会が力に満ちていたのも不思議ではありません。ターナーは、九日遅れて彼らに加わりました。ですから、二十一日間、この三人は神の御力が豊かに注がれることを求めて祈り、神を賛美したのです!三人は一つ心になり、キリストの心を心として、インドの教会および無数の失われたたましいのためにあえぎ、訴え、叫び、もだえるのでした。新しくされた三人の意志は、信仰によって、神の全能の御旨に、鋼鉄のかぎでつながれるように強く結びつけられました。こうして、信仰を通して火が触れた三人のくちびるは、「必ず成る!」と叫ぶのでした。

これを読まれる方々は、長く続いたこれらの断食と祈禱の日々、見張りととりなしの夜々を見て、「何と大きな犠牲か!」と思われるでしょうか。それならば、多くの働き人が奮い立たされてキリストのご用にふさわしい者とされたことを考えてみてください。また、文字どおり数千の人々が祈りによって神の国に入れられたことを。私は「ご覧なさい、このような犠牲によって得られたものを!」と申し上げたいのです。

確かに、カルバリは恐ろしい犠牲を表しています。しかし、あなたや私や、そして無数のたましいがすでに贖われ、さらに、これからも無数のたましいが贖われ、この難破した世界が完全にエデンに回復され、この世の王国が強奪者の手から奪回され、正当な王の支配へと救い出されるとしたら!それを見るとき、私たちは喜びをもってこう言うのではないでしょうか。「ご覧なさい、犠牲によって得られたものを!」と。


8.一九〇四年――第一回シャルコット聖会

インドにいるハイドの最も親しい友人のひとりは、一九〇四年のこの聖会においてジョン・ハイドの霊的生活に起こった一大変化についてしるしています。彼によれば、ジョンは宣教師であり、神によって生まれた神の子であったとはいえ、なおキリストにある乳飲み子でした。彼はまだ、上からの力を着せられるまで、やむにやまれず彼のエルサレムにとどまったことがありませんでした。しかし神は、愛をもって彼に語り、彼の大きな必要を示されました。

この聖会において、彼が同労の宣教師たちに聖霊の働きについて語っていたとき、神は彼自身のたましいに語り、信仰によって受ける聖潔についての神の方法を明らかにされたのです。このように神が触れ、このような上からの光が臨んだため、彼は聖会の終わりに、「私はこの啓示を失ってはならない」と語りました。彼は決してそれを失うことなく、かえって恵みに恵みを加えられ、従いつつ前進するにつれ、この啓示はいよいよ明らかになりました。

ある宣教師は、ジョンがこの聖会に来てどのように聖書講義をしたかを語っています。聖会中、彼は神の愛の長さ、広さ、高さ、深さについて語りました。神の大きな愛は彼を通してあふれ、人々の心をとらえ、いっそう神に近づけるようでした。この兄弟はしるしています。

「ある晩、九時半ごろでしたか、彼は私の書斎に来て、公の場でのあかしの価値について話し始めました。私たちは真夜中過ぎまで、たぶん一時過ぎまで熱心に話し合いました。それは実に興味深い話し合いだったと記憶しています。

明くる晩、ちょうど聖会出席中の婦人たちのための集会が宣教師のバンガローで持たれる間、構内の天幕で開かれる男性のための集会の指導をしてくれるよう、彼に依頼しました。

集会の時間になり、人々は天幕内のむしろに座りましたが、その集会を導くはずのハイド氏はまだ見えません。賛美し始め、何曲か歌い終わったころ、だいぶ遅れて彼はやって来ました。

私は、彼が私たちの前のむしろに座り、歌が終わってからもしばらくの間、黙って座っていた姿を忘れることができません。それから彼は立ち上がり、大変静かな口調で言いました。『みなさん、昨夜私は少しも眠らず、きょうは何も口にしておりません。私は神様と激しい論争をしてまいりました。神様がここでみなさんに、主が私になさったある事柄についてあかしするよう望んでおられることを覚えますのに、私はそれをすべきでないと言って、主と争ったのです。今夕、少し前に、私はその事柄について平安を得ました。そして従うことを承知しました。それで、今こうして、主が私になしてくださったことをお話ししようとして、ここに来ているのです。』

このように短い前置きをしてから、彼は罪との必死の闘争、および神がどのようにしてそれに勝たせてくださったかを非常に穏やかに、そして率直に語りました。十五分か二十分くらいしか話さなかったと思います。それから彼は、腰をおろし、数分間頭を垂れたあとで言いました。『祈りの時をもちましょう』と。少数の人々でしたが、東洋風にむしろの上にひれ伏した光景を私は覚えています。そして実に長い間、次から次へと祈るために起立した光景を。大部分の者が、いまだかつて聞いたこともないような罪の告白をなし、あわれみと助けを求めて神に呼ばわったのです。

小さな集会が終わったのは、夜もかなりふけてからでした。ある人たちは、この集会によって、数名の人々の生涯が全く変えられたことを認めています。」

明らかに、その一つのメッセージが、インドの教会に大リバイバルをもたらすために、人々の心の扉を開いたのです。


目次

1.家庭内のキリスト
2.聖なる地
3.決定
4.出帆の日、そして航海
5.インドでの第一年
6.パンジャブ祈禱同盟
7.三人
8.一九〇四年――第一回シャルコット聖会
9.一九〇五年の聖会――「罪のための嘆き」
10.一九〇六年――御座の小羊
11.一九〇七年――聖なる笑い
12.一九〇八年夏
13.一九〇八年の聖会――一日にひとり
14.一九〇九年の聖会――一日にふたり
15.一九一〇年の聖会――一日に四人
16.カルカッタと医者
17.変えられた人々
18.再び英国へ
19.ついにわが家へ
20.主に対して聖なる者
21.詩篇二二篇
22.勝利
訳者あとがき


ジョン・ハイドの年譜

1865.11.9―― 米国イリノイ州カーロルトンに生まれる。
1882 ――家族と共にイリノイ州カルセージに移る。
1887 ――カルセージ大学卒業。
1892 ――マコーミック神学校卒業。長老派外国伝道局からインドに遣わされる。
1901 ――最初の休暇で帰国。
1904 ――第1回シャルコット聖会。パンジャブ祈祷同盟組織のため尽力する。
1910 ――フェオスゼポア・トレーニング・ スクールを設立。
1911.3 ――帰国のためインドを発つ。これが最後の旅行となる。
1912.2.17 ――マサチューセッツ州ノーサンプトンにて召天。
1912.2.20 ――イリノイ州カルセージのモスリッジ墓地に埋葬される。




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