2025年5月3日土曜日

オースティン・スパークス、『キリストの学校』、第八章 神の愛を支配する法

キリストの学校
T. オースティン スパークス著
The School of Christ by T. Austin-Sparks 

第八章 神の愛を支配する法

ヨハネ1章4節、2章3節、3章3節、4章13~14節、5章5~9節、6章33~35節、9章1~7節、11章1~6節、17節、21節、23節、25~26節。

この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。(ヨハネ1章4節)

ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません。」と言った。(ヨハネ2章3節)

イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3章3節)

イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4章13~14節)

そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。(ヨハネ5章5~9節)

というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。」そこで彼らはイエスに言った。「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください。」イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。(ヨハネ6章33~35節)

またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。(ヨハネ9章1~7節)

さて、ある人が病気にかかっていた。ラザロといって、マリヤとその姉妹マルタとの村の出で、ベタニヤの人であった。このマリヤは、主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリヤであって、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。(ヨハネ11章1~6節)

それで、イエスがおいでになってみると、ラザロは墓の中に入れられて四日もたっていた。(ヨハネ11章17節)

マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。(ヨハネ11章21節)

イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。(ヨハネ11章23節)

イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。(ヨハネ11章25~26節)

ゼロになる点

上で読んできた聖書箇所は、実際には、ひとつにつながっています。他の引用箇所は、最初の節から流れ出てきます。『この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。』そして、これらはすべてがゼロになる点を代表していることにお気づきでしょうか。イエス様の母は主に言いました。「ぶどう酒がありません。頼れるものが何もありません!」次の章では同じことを、少し言い方を変えて言っています。ニコデモがイエス様のもとに来たとき、彼は主イエス様との対話を始める良いきっかけになると自分で考えた話題から話し始めようとしました。でも、それは主イエス様が受け入れられることがらよりも、はるかに先にあるものでした。そのために、主は彼を原点まで戻して言われました、「あなたは新しく生まれなければならない。それより先の点から始めることはできない。あなたとわたしが何らかの生きた関係に入ろうとするなら、そこに戻らなければならない。何もないところに立って、何もないところから始めなければならない。『あなたがたは新しく生まれなければならない。』なぜなら、人は生まれ変わらなければ、見ることができないからです。私たちが視力を失ってしまっている状態から始めても、結局は、何の意味もありません。第四章も、同じ真実を、違うかたちで述べているだけです。この女性は、結局、自分が全てを失ったゼロの状態にいることに気づきました。イエス様は彼女の心を少しずつほぐされ、最後に彼女の顔に浮かんだ表情には、こんな気持ちが表れていました、確かに私はそれについて何も知りませんし、そこから生まれたものは何も持っていません。私は一年中、来る日も来る日も、ここに来ていますが、あなたが話していることについては何も知りません!彼女はゼロまで落ちていました。そして、主は言われます、ここが私たちの出発点です。わたしが与える水は、あなたが持っているものの中から取り出して与えるものではないし、あなたの井戸から汲み上げる何かでもありません、また、あなたが自分で作り出した後、わたしが手をかけて使えるようにするものでもありません。そうではなく、それは、ただわたしだけが与えられるものです。それは、今までのあなた自身とは完全に離れた新しい行いです。それが、わたしが与える水です。ここで、わたしたちは最初からやり直します。

次に、第五章で、聖霊が注意深く、完全に明らかにしているのですが、この哀れな男性は絶望的な状態にあり、あらゆる努力が失敗に終わり、全ての希望が失望に変わってきました。三十八年間、全生涯に渡って、この男はそのような状態にあり、この男の内側には絶望の兆しがあります。主イエス様は彼にこんなふうには言われたでしょうか、見なさい、あなたは哀れな障害者だ。わたしがあなたの世話をし、ひと通りの治療をした後で、あなたが立てるようにしてあげよう、その古びた手足を新しくして、あなたの状態を良くしてあげよう。全く、違います。その場で直ちに、全てが新しいものに変わります。主がされることの結果を見ると、その男が生まれ変わったかのようです。古い人を癒すことではなく、原則としては、新しい人を作るということです。これは、以前にはなかったもの、そして、以前には生み出すことができなかったもの、拠り所がどこにもなかった何かが、新しく生じたのであり、ただひとりキリストだけが実現できるものです。それまでは無だったのであり、主はゼロから、何もないところから始められました。

第六章――大群衆。どこからパンを手に入れて、この大群衆に十分に食べさせることができましょう?いかにも、状況はまったく絶望的なものですが、ご自身の行動によって、主はこの状況に対処されました。その後、大いなる教えの中で、この大群衆に食べさせるためにご自身がなさったことを説明されました。主は言われます、わたしは天から降って来たパンです。地上には、この必要を満たせるものはありません。このパンは天から来なければなりません。世のいのちのために天から来たパンです。このパンがなければ、世は死にます。私たちはゼロから始めます。(このパンと魚は、はじめは小さくても、大きくもなれる私たちの中のキリストの計りを表しているのかもしれません。)

第九章――生まれつきの盲人。一度、視力を失ってから、視力を取り戻しつつある人のことではありません。そのような問題ではないのです。神の栄光は、改善の中にはありません。神の栄光は、復活の中にあります。それが、ここで明らかにされていることです。私たちが何かを生み出すことができるとか、私たちが生み出す何かを神の手中に差し出して、神がそれを取り上げて用いてくださると言った考え方の中に、神の栄光はありません。神の栄光は、神ご自身からのみ生じるものであり、私たちは、そこに何も付け加えることはできません。神の栄光はゼロから生まれます。その男は生まれつき、完全に盲目でした。主イエス様が、彼に視力を与えました。彼は、それまでは何も見えませんでした。

そして、第十一章ですべてがつながります。じっくり考えながらラザロを見れば、ラザロの存在が、『ぶどう酒がない』状態を体現していることが分かります。ラザロは、『あなたがたは新しく生まれなければならない』という真実を実現しています。ラザロは、『わたしが与える水は、その人のうちで・・・・』という事実の体現です。ラザロは破産した状態を体現しています。墓の中に四日間いましたが、主がそこへ来られます。ラザロは、第六章にある『わたしは、世のいのちのために、・・・・天から下って来た生けるパンです』という真実の体現です。ラザロは第九章に出てくる、目が見えなかったが、主イエス様によって視力を与えらた男を再現した存在です。ラザロには、これらすべてがひとつに集められています。しかし、注意してみると、こうしてすべてをまとめる中で、聖霊はひとつの真理をことさらに強調し、そこに焦点を当てています。それは、主イエス様は、人間的な救済から遠く離れるまでは、その人に手をふれないということです。主が、人生の局面に現れて、手を差し伸べるのは、その相手が人間的な観点から見て全てを失った状態になったとき、ゼロになったときに限られます。これは、関心を失う、同情心を失うとか、愛がなくなるということではありません。というのは、ここで聖霊は再び、そこには愛があったことを指摘しているからです。しかし、愛は法に縛られています。

支配する法則――神の栄光

神の愛は法に縛られています。神が関わるところ、愛には法があります。神の愛は法の下にあります。神の愛は、神の栄光の法の下にあり、そして、神は、愛を示すことがご自身の栄光につながる場合のみ、愛を示すことができます。この法に、主は支配されています。神の愛が示される場合は常に、ご自身が栄光を受けることが主の目的とであり、神の栄光は復活と結びついています。『もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。』『あなたの兄弟はよみがえります。』神の栄光は復活の中にあり、したがって愛は、完全な復活だけが、その状況を満たすような境地に至ることを求めるものです。何かを手直ししたり、古い人間が修復したりするようなことではありません。

ああ、必要ならば、最初に戻ってまた始めさせてください。未だにこの世界ではたくさんの人が、人間の中に神の栄光に貢献できる何かよいものがあって、キリスト教とは人間の中から神の栄光のために何かを引き出すことに過ぎないと考えています。これは非常に長い年月にわたって信じられてきた誤った考えであり、嘘です。真実ではありません。その概念は、「内なる光」とか「生命の火花」など、さまざまな名前で呼ばれていますが、何と呼ぼうと同じことです。その考え方を、神の言葉は終始一貫して、非常に厳しく否定しています。私はゼロからスタートするのであり、私にとってのゼロとは、私からは何も貢献できるものがないことを意味します。すべては神から来なければなりません。神からの賜物が永遠のいのちであるという事実を見れば、この賜物は神から与えられなければ、自分から得ることはできないことが分かります。神が視力を与えるまで、あなたは盲目です。神がいのちを与えるまで、あなたは死んでいます。神があなたのために、そして、あなたの中で、あなたには決してできないことをしてくださるまで、あなたは絶望的に弱く無力な存在です。神がこのことをされない限り、このわざを成してくれない限り、あなたはそこに倒れたままです。霊的な意味で、あなたはそのような存在です。あなたが貢献できることは何もありません。ニコデモよ、あなたが与えられものは何もない。あなたは生まれ変わらなければならない。わたしに会いに来た状態のあなたを、わたしは受け入れることはできない!サマリアの女よ、あなたには何もないし、あなたはそのことを知っていて、自分でそう告白している。わたしはそこからすべてを始める!ベテスダの人よ、あなたには何もできないし、それはあなた自身がよくわかっている。だから、すべてはわたしに委ねられている!そこで何かが起こるとしたら、それはわたし次第なのだ!ラザロよ、あなたには今、何ができる?誰があなたに手を貸すことができる?わたしが天から出て来て、今ここで手を下さなければ、そこには破滅以外の何もない!

これは、私たちがこのキリストの学校で学ばなければならない大きな教訓のひとつです。すなわち、神はご自身の栄光をゼロから始め、そして、神は、聖霊を通して、今の状態がゼロであることを私たちに知らしめようと努力されます。つまり、私たちがゼロであることを認めるように導き、そのすべては神の御心であったとと理解させるのです。最終目的は常に支配される神であり、目的は神の栄光ですね。この福音書を通して、もう一度、この言葉を探してみてください――キリストとつながる神の栄光。前の瞑想でお話ししたように、キリストの中にいる私たちに対する神の大いなる目的は栄光、栄光が満ちることです。しかし、そこには大切な戒めがあります――神の御前でだれをも誇ってはならない。これはどこから来るのでしょうか?――『誇る者は主にあって誇れ。』(第一コリント1・29~32)。そして、これは、どこにつながっているのでしょうか?――主は、『私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。誇る者は主にあって誇れと書かれているとおりになるためです。』それは、主が何のために臨在されているのかという問題です。それは、神の御前でだれをも誇らせないためです。『わたしはわたしの栄光を他の者には与えない』(イザヤ42・8、48・11)。したがって、主の栄光とは主だけの問題であり、主はこの栄光をご自身の手の内に置かれます。『イエスは、聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた』(ヨハネ11・6)。愛の中で、愛に支配されて、神の栄光が現されるために、主は遠くにとどまられました。

私たちは、このことを受け入れているでしょうか?私たちがこの基本的で初歩的な真実を理解するまでにとても長い時間がかかります。私たちはなおも、自分たちにも何かを生み出せるという考えを捨てきることができずにいます。私たちがみじめな生活を続けているのはただ、自分も何かのかたちで、主に何かを提供したいという望みを捨てていないからです。でも、実際に何を提供できるのか分からないまま、心はいつも沈み込んでしまい、私たちはみじめに、どこまでもみじめになります。私たちがこの真理を完全に、そして、最終的に受け入れられるまであまりに長い時間がかかるので、たとえ、この地上で誰よりも長く生きたとしても、私たちには、神に受け入れられてもらえるもの、神が私たちの救いと聖化と栄光のために受け取って使っていただけるものを、何ひとつ差しあげられないのです。神がお使いになれるのは、御子だけであり、そして、私たちの究極の栄光の計りは、私たちの中にあるキリストの計りであって、他には何もありません。ひとつのものであっても違う種類があるように、栄光にも違いがあるでしょう。太陽には太陽の栄光、月には月の栄光、星々には星々の栄光。栄光の計りには違いがあり、そして、その栄光の計りの違いは、最終的には、私たち一人一人が個別に持っているキリストの計りに応じて変わります。そしてその計りはさらには、あなたや私が、どれだけ、信仰によってキリストを実際に私たちの生活の土台、私たちの生き方の根拠、私たちの存在の土台としているか、言い換えれば、、「私が何であるかではなく、あなたがどういうお方か」というあのよく知られたみ言葉の原理が私たちの場合にどれだけ当てはまるかという、その計りによって決まります。キリストがすべての栄光であり、まさしく、「小羊こそ栄光、インマヌエルの地にては」と、歌われるとおりです。

愛する友よ、あなたがたがここで何を学んだにせよ、どうかこれだけは必ず心にとめて帰ってください。神の御前では、人生の栄光は、私たちが信仰によって、キリストをどれほど正しく認識し、受け入れ、感謝しているかという点だけに完全に依存しており、そして、今も、これから先も、この真理を土台とし、この道に沿って歩まなければ、私たちに与えられる栄光はありません。これは、実に単純で、初歩的なことがらに見えます。しかし、ああ、これが全てを支配する真理なのです。栄光――それは、私たちの中で主がお受けになる栄光です。主が私たちの中で栄光を受けることよりも大きなことなど、あり得るでしょうか?神の栄光は復活と結びついており、復活はただ神ご自身だけが持つ特権です。ですから、神が私たちのうちに栄光を現されるためには、私たちは日々、よみがえりであり、いのちである主により頼みながら生き、そして、人生を歩む中で、この主をますます深く知っていかなければならないのです。


【訳者注】原文はここにあります
https://www.austin-sparks.net/english/books/001040.html

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