2025年3月7日金曜日

オースティン・スパークス、『キリストの学校』、第七章 油注ぎのもとで学ぶ

キリストの学校
T. オースティン スパークス著
The School of Christ by T. Austin-Sparks

第七章 油注ぎのもとで学ぶ

わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。(マタイ11:29

そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」ヨハネ1:51

こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。マタイ3:16

この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。ヨハネ1:4

なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。ローマ8:2

しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。第二コリント3:16~18

キリストの学校、つまり、キリストが大きな習得課目であり、聖霊が偉大な教師である学校、客観的ではなく主観的な授業が行われる学校、物事を教えるのではなく、経験によってキリストを内面的に私たちの一部にする学校――それがこの学校の性質です。

油注ぎの意味

『天が開けるのを、あなたはいまに見ます。』『天が開け、神の御霊が下って、自分の上に来られるのをご覧になった。』聖霊の油注ぎの意味とは何でしょうか。それは、聖霊が絶対的な主という地位に就くことに他ならず、それ以上でもそれ以下でもありません。油注ぎは、そこに聖霊、主としての聖霊の絶対的な支配が伴います。これが意味するのは、他のすべての権威が退けられ、脇に追いやられたということです。私たち自身の生活の権威、私たち自身の思い、私たち自身の意志、私たち自身の願望という権威、他者からくる権威のことです。他のどのような関心、影響力も、完全で制約のない聖霊の権威にとって代わられることにあり、このことが起こらない限り、油注ぎを知ることも、享受することもできません。主イエス様がヨルダン川へと降りていかれ、死と埋葬に臨まれたのはそのためでした。すなわち、型として、人間を象徴する立場を取られるためであり、その瞬間から、神の御心を行う際には、いかなる点においても、自分自身のいのちに支配されることなく、あらゆる細部に至るまで、完全、かつ、徹底的に神の聖霊に従うことにされたのです。ヨルダン川の墓は、神から離れたすべての権威、他のすべての権威、他のあらゆる影響力が取り除けられたことを明らかに示したのであり、福音書に記録されたキリストの霊的な生活を読めば、キリストがどのようなときも守っていたのは、この立場であったことが、わかります。主の心をくじけさせて、その行動を支配しようと、主の上に及ぼされた影響力は多彩で強力なものでした。時にそれは、サタンが全力で加える露骨な攻撃であり、その攻撃に打ち勝つために、あるいは、肉体的に生き続けるために、主が全力で対処しなければならないこともありました。時には、サタンは愛する仲間からの議論や説得という衣を身にまとって、主をある行動から引き離そうとしたり、主が苦しみから逃れて生き延びることを選ばせようと試みました。さまざまなかたちで、主に対する働きかけが、あらゆる方向から及ぼされ、主に与えられた助言の多くは、一見すると非常に賢明で良いものでした。例えば、祭りに上って行かれることに対して、次のような意味合いのことばで、主をそそのかそうとしました、これは誰もがやっていることですよ、上って行かなければ、あなたの主張されている立場を損なうことになります。その大義を本当に推し進めたいのであれば、あなたは宗教的に受け入れられている考え方に従って行動しなければなりませんし、そうしなければ、立場を失いますよ。あなたの影響力は大きく損なわれて、あなたが役に立つ場面はほとんどなくなります!あなたが心に何かとても大きなものを抱いているなら、例えば、神のための大きな目的を心に抱いていて、その目的を果たすことが何よりも大切であるとしたら、このようなささやきは、実に強く心を揺さぶることでしょう!当時、主に降りかかっていた影響力はこのようなものでした。しかし、サタンがその狡猾さ、利口さ、ほのめかしを全開にして直接、仕掛けてくる攻撃であれ、あるいは、もっとも親しい弟子たちや愛する仲間たちを通して試みられる攻撃であれ、どのような議論であれ、それによって、このお方が、神の原則から、ほんのわずかでも逸らされることなどありえません。「わたしは油注ぎを受けている。わたしは聖霊の絶対的な主権に身を委ねている、そして、何を失ったとしても、わたしは動かせることはない。わたしのいのちを失っても、わたしの影響力を失っても、人にどれだけ避難されても、わたしが大切にしているすべてのものを失ったとしても、それが御父の願いであって他の誰の願いでもないこと、御父の意志であって他の誰の意志でもないこと、そのことが御父から来ていることを聖霊から明らかにしてもらうまでは、わたしは動くことはできない。」このように、主は、神の霊に命じられたことが自分の霊の中で明らかになるまで、どんなことでも自分からは動くことはされませんでした。主は、油注ぎの絶対的な権威、支配、主権というこの法、この原則に従って生きておられたのであり、そして、油注ぎが行われたのは、まさしくそのためでした。

これが油注ぎの意味です。あなたは、この聖霊の油注ぎを求めようと思いますか?なぜ、あなたは聖霊の油注ぎを求めるのですか?油注ぎは、あなたが切望するものですか?その目的は?あなたが用いられるように、力を持てるように、人に影響を与えられるように、たくさんのすばらしいことを行えるようになりたいからですか?油注ぎが意味する第一のこと、そして、もっとも重要なことは、私たちには、油注ぎが教えること、油注ぎが導くこと以外は何もできなくなるということです。油注ぎは私たちの手からすべてを奪います。油注ぎがあなたの評価を決めるものになります。油注ぎは神のまことの目的を主導します。油注ぎがすべてのことを完全に支配するようになり、その瞬間から、すべては聖霊の手の中にあります。私たちが覚えておかなければいけないのは、キリストを学ぼうとするなら、そのキリストの学びは、聖霊が私たちを変えようとすることによって行われるということであり、それが意味するのは、私たちが原則と法を守るということにおいて、キリストが歩んだ道と完全に同じ道を歩まなければならないということです。

ですから、キリストの霊的な学校で用いる特別な福音書であるヨハネの福音書を読み始めるとすぐに、主の次のような言葉が聞こえてきます、『子は、自分からは何事も行なうことができません。』『わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。』わたしが行うわざはわたしのものではなく、『わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。』

『子は、自分からは何事も行なうことができません。』これを読むと、油注ぎには否定的な側面があることがわかりますね。一方、肯定的な側面は一言でまとめられます――ただ御父のみ。おそらく、これは私たちがこれまで持っていた油注ぎについての考え方と少し違っていますね。ああ、聖霊の油注ぎを受けることができる!その後は、どんなにすばらしいことが待っているでしょう。人生はなんとすばらしいものになるでしょう!実際には、油注ぎの後ですぐに始まり、そして、いつまでも続くことは、私たちが神の霊の支配に捕らわれることであり、それによって、主がされることでなければ、何も起こり得ないようになります。何ひとつです!生まれながらのいのちが強く、何らかのかたちで、いつも表に出てきている人にとっては、これは楽しい経験ではないでしょう。したがって、油注ぎが行われるためには、まず、ヨルダン川がなければなりません。自分の生まれながらの強さと自我のいのちを捨て去ることが、絶対に必要不可欠であります。なぜかと言えば、油注ぎは、本質的に聖霊の絶対的な支配を伴うものだからです。

第二コリント3章16節で、あなたもこのことに気付くでしょう。『人が主に向くなら』、主ご自身が目標となるなら、『そのおおいは取り除かれるのです。そして、私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、・・・・主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主』、あるいは、『主なる御霊の働きによるのです。』この学校にいるあなたは、キリストを知り、キリストを学ぶことができますが、これは、聖霊の支配のもとでキリストの似姿に変えられていくということです。『人が主に向くとき』とは、主ご自身が私たちが目指す目標となるときです!しかし、私たちにとって、私たちキリスト者にとって、非常に献身的で熱心なキリスト者である私たちにとって、主だけがただひとつの目的となるまでに、なんと長い時間がかかることでしょう。これはひどい言い方でしょうか?私たちは確かに、主を愛していると言います。しかし私たちは、いつも自分の思った通りにしたがるし、自分の考えを妨げられることは好きではありません。私たちの中に、主といっしょにいて、一度もつらいと感じたことなどないと言い切れるほど霊的に成熟しきった人がいるでしょうか?いません。私たちは、自分の心がある方向を向くことを主はよろこばれるはずだと信じ込むのですが、主はそれを許してくださらず、そのためにつらい思いをして、そのつらさによって、それまで信じてきたものが完全に裏切られと感じる、そんなことが今もよくあります。私たちの心はそれを信じていました。私たちにとって、こんなふうに言うことは、簡単ではなく、決して容易で単純なことではなかったのです、すなわち、よく分かりました、主よ、あなたが直接、命じてくださったかのように、私はよろこんでいます、あなたの御心を行うことはいつも大きなよろこびです!主がそうさせてくださらないと、私たちはがっかりします。また、主がそれを遅らせると、非常に苦しい時間を過ごすことになります。ああ、何とかその働きを始めて、活動することを認めてくれないだろうか!時とともに、私たちの本当の姿が明らかにされます。私たちのほとんどが、そうではないでしょうか?その通りです。こんな状態になったところで、初めて見えてくるのは、結局、私たちが思っていたほど、主が真の目標にはなってはいないということです。私たちは、主の近くにいて、主とつながっていながら、主とは別の目標を持っています、それは、自分がなりたいもの、自分がしたいこと、自分が行きたいどこか、自分が持ちたい何かです。このような目標があって、聖霊もよく知っています。このキリストの学校では、神の目的はキリスト、キリストだけ、完全にキリストであり、油注ぎが意味するのは、その目的は聖霊による主としてのキリストでなければならないということです。これが、油注ぎの立場です。さて、油注ぎの意味については、これくらいにしましょう。これは、主にとって真実であったし、私たちにとっても真実でなければなりません。

『主権』と『服従』

私たちが、この学校を卒業し、栄光、キリストの究極で完全な栄光を獲得して、神の御国を統治するための有用な道具となろうとするなら、聖徒たちに神が求める霊的で神聖な天の統治を学ぶただひとつの道は、聖霊に対する服従です。この「服従」という言葉は、新約聖書では非常に興味深い言葉です。私は、この言葉はむしろ誤って扱われてきたし、間違った好ましくない意味を与えられてきたと思います。服従という考え方は、通常、下に押しつぶされること、いつも下に置かれること、抑圧されることを意味します。『妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。』これは現在では、自分を下に置かなければならないというふうに解釈されていますが、この言葉はそのような意味ではまったくありません。服従(subjection)、または、承服(submission)にあたるギリシャ語の単語に実際に含まれる意味をどう伝えればいいでしょうか。そうですね、1という数字を書いてみましょう。そして、それから、服従、または、服従と書いてみます。どのように書かれるでしょうか?下にもう一つ、別の1を置くことはしません。このことばは、「その横、または、その後ろに置く」ことを意味します。1というのは主要な数字で、後に続くすべてのものの前に立ち、残りすべてを支配し、その価値を決めます。服従とは、すべてのことにおいて、主が優位にあることを意味します。私たちは、主の後を追い、主に価値を与えられます。服従とは、押しつぶされることではなく、すべてを、第一のものである主から得ることです。そして、キリストへの服従を知るまで、あなたは決して益を受けることはありません。すなわち、あなたは後を追い、二番目の場所につき、その位置を占めることによって、すべての益を受ける、すなわち、ある特定の場所を占めることによって価値を得るということです。教会はキリストに従いはしますが、それはこのような抑圧的な意味ではなく、キリストのかかとや親指の下で完全に支配されているわけではなく、ただ後に続き、並んで歩んでいるだけです。主が優位な立ち位置におられて、教会、主の花嫁は、主が優位な立ち位置についていること、主が第一の立場をとられていることから、たくさんの益を引き出しています。教会は、いわば、二番目の位置を取っています。しかし、二番目の地位に就くことによって、第一の地位が持つ価値をすべて得ることになるなら、二番目であることを誰が気にするでしょうか?これが服従です。教会に対する主の考え方とは、教会がすべてを持つべきであるということです。しかし、教会はどうやってそれを得るのでしょうか?第一の地位を取ることによってではなく、主のかたわらに来て、すべてにおいて主に主導的な立場を持たせることによってです。それが、服従であり、従順です。聖霊による支配は、私たちを裸にし、私たちからすべてを取り去り、私たちを常に下に抑えつけて、私たちが動こうとする気持ちを起こさないようにするような、そんな厳しいものではありません。聖霊による支配とは、私たちをその統治の豊かさへと導くくことです。しかし、その豊かさの中に入るためには、まず、その支配とは何かを学ばなければなりません。私たちが受けるものは、主の豊かさから生まれてきます。

アダムの時代から私たちの時代まで、問題となる点は常に同じでした。その問題とは、人が望むのは他の誰かの豊かさではなく、自分自身の豊かさであり、その豊かさを他の人の中ではなく、自分自身の中に持ちたいと欲していることです。聖霊は私たちの足の下にあるこのような思いを切り崩して、こう言います、大切なのは主の豊かさであり、主の中に豊かさである。聖霊が絶対的な主権も持つ位置に立たなければ、私たちは主の豊かさを知ることはできません。今の時点では、油注ぎの意味については、これで十分だと思います。おわかりになりましたか?主は私たちにヨルダン川の意味を受け入れる恵みを与えてくだいます。それは、私たちが開かれた天を持ち、その開かれた天によって、天の豊かさを与えてくれる油注ぎを受けるためです。しかし、これが意味するのは聖霊の絶対的な主権です。この学校での第一の課目――ああ、それは最初に受ける授業ではありません。この学校に入るための準備そのものであり、予備試験です。聖霊の主権を受け入れるまでは、私たちは、この学校に入ることはできません。多くの人が、主の知識という面で、あまり進歩できないのはこのためです。この人たちは、油注ぎが真に意味するものを受け入れたことがなく、本当の意味でヨルダン川に降りてこなかった人たちです。彼らの進歩、彼らの学びは非常に遅く、非常に貧しいものです。聖霊による支配への道を切り開く中で、主の十字架の意味、ヨルダン川の意味を本当に知っている人を見つけてください。そうすれば、あなたがたも、急速な成長をとげ、他の誰よりもずっと先んじて霊的な発達を見ることになります。それはまさに真実です。これが、予備試験、入学試験なのです。

キリストの学校で学ぶ最初の課目

しかし、あなたが入学すると、第一の課目はここから始まります。この課目は、これまでの瞑想で、力強く語られてきたことの繰り返しにすぎません。キリストの学校で、聖霊が私たちに教えるために取り上げる最初の授業課目は、キリストと私たちのあいだの「完全な違い(other-ness)」と、これまで呼んできたものです。これは最初の課目であるばかりでなく、生涯を通じて続く学習課目なのかもしれません。しかし、これこそ、聖霊がすべてを始めるところであり、そこで習うのは、キリストが私たちの存在とはまったく「違うお方である」という真実です。この考えを心にとめながら、ヨハネの福音書を取り上げて、静かに、落ち着いて読み直してもらえますか。キリストは、他の人々、弟子たちとさえも、なんと違うのでしょう。この考え方は、ヨハネの福音書から、すべての福音書まで広げることができます。福音書を読むとき、聖霊がともにいれば、あなたも教わることができます。主は、あらゆる面でなんと私たちと違うお方なんでしょう!その違いは何度も繰り返して、明らかにされています。『あなたがたが来たのは下からであり、わたしが来たのは上からです(ヨハネ8・23)。』これが違いであり、この違いが、その後もずっと続けて、衝突を引き起こします、判断の衝突、考え方の衝突、心の衝突、考えの衝突、価値観の衝突、すべてのことにおいて主と他の人々のあいだには衝突が起こり、この学校で主とともにいる弟子たちとのあいだにさえ、衝突があります。主の性質は、完全に異なったものです。主は天の性質、神の性質を持っています。他の誰もその性質を持っていません。主は天の心、天の考え方を持っています。人間たちは、地上の考え方を持っており、このふたつはいかなる点でも、ひとつになることができません。最後の言葉が発せられたときから、このふたつのあいだには、大きな大きな隔たりがあります。主は、それほど完全に別の存在です。

さて、そうなると、私たちは非常に不利な立場に置かれていることになるとあなたは言いたくなるでしょう。主と私たちは、お互いとは完全に違うものである。しかし、それがまさにこの学校の本質であり、意味なのです。この問題は、どのようにして解決されるのでしょうか?そうですね、それはこんなふうに考えれば解決できます。主が、どのようなときも語っておられるように、ご自身が彼らの中におられ、彼らが主の中にいるようになる時があり、その時が来ると、彼らの存在の中のもっとも内奥にある、もっとも深い現実において、彼らは他のすべての部分における自分自身とは、まったく異なる存在になります。すなわち、キリストであるもの、絶対的に人間と異なる主としてのキリストご自身から来るものが、彼らの中に存在するようになります。何かが起こったとき、彼らは自分がそこで取るべき最善の行動はこうであると考えますが、その内部にいる完全に違うお方がそうさせてくれません。また、ある時には、彼らは、これをしないほうが賢明であると考えますが、その内にいる完全に異なるお方が、それを続けなさい!と言い続けます。外なる人は言います、それは狂っている!破滅を招くだけだ!しかし、内なる人は言います、あなたがそれをするべきだ!このふたつは調和できません。主は内側におられ、主はまったく異なるお方であり、私たちが受ける教育とは、主に従い、主の道を行くすべを学ぶことです。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、そしてわたしについて来なさい。』自分を捨てなさい、すなわち、あなたの議論、あなたの判断、あなたの常識を、必要とあらば捨てなさい。わたしに従いなさい!――そうすれば、そのたびに、キリストが正しいお方であることが証明されます。この世的に見れば非常におろかなことをしながら、後にその正しさが証明された人が数多くいます。これは、あなたがたも愚かなことをし始めなさいと言っているのではありません。私は、内なるキリストの権威、キリストと私たちとの違いについて話しているのであり、そして、これがこのキリストの学校に入るすべての人に聖霊が教える最初の課目です。すなわち、そこには、この大きな違い、この大きな分断があるということ、主と私たちとは全く異なる別個の存在であるということ、そして、すべてを主にゆだねない限り、自分が正しい道を歩んでいると確信を持つことはできないという真実です。

神の子の生活の中で大きな、祈りが位置を占めなければならない理由はこれであり、また、主が地上におられたとき、主の生活の中で、祈りが大きな位置を占めていた理由もこれでした。主イエス様の祈りの生活は、ある領域において、またある意味で、あなたが直面しうる最大の問題です。主はキリストであり、主は神の子であり、主は聖霊の油注ぎを受けており、そして、主は、その人格において罪のないお方ですが、それでもなお、主はつらく長い一日の働きを終えられた後で、夜通し、祈りを捧げなければなりません。何度も繰り返して、あなたは、祈りの中で主と出会います。なぜ、主は祈らなければならないのでしょうか?それは、外から働きかける力があるからであり、そこにはまた、考慮、反応、従順を求めるほかの力が働いているからです。そして、主は、どんな時も、油注ぎに従わなければならず、また、ご自身がその支配下に置かれた聖霊と調和していなければなりません。なぜならば、主は、ご自分からは何も決めることができないからです。主がそうしなければならないのなら、私たちはどうでしょうか?私たちは、主のような罪のない水準にすらに達していません。私たちは、自分の本性の中に、神、神の心、神の意志に激しく反抗して働く性質を持っています。そうなると、祈りの生活を送ることは、私たちにとって、どこまでも必要なことであり、この祈りの生活によって、聖霊は、私たちを正しい道に導き、神の目的に沿って進めさせ、主の時が来たら、私たちに主の道をまっすぐに歩ませる機会を得ることになります。

愛する皆さん、神の子供が聖霊の支配のもとで学ぶことが一つあるとすれば、それはこのことです。すなわち、主が私たちとどこまでも違うお方であり、私たちは主とどこまでも違う存在であり、お互いとはあらゆる面で別の存在であるということです。しかし、神に祝福あれ、今この摂理において、私たちが本当に神の子であるなら、この完全に違う存在であるお方は、ただ客観的な存在ではなく、私たちの中におられます。これが、この「全く違っている」ということの第二の段階です。第一の段階は、違っているという事実です。あなたは、このことを受け入れられますか?あなたは、今、まさにこの場所で、この瞬間に、この違いを事実として受け止められますか?主イエスさまは、私とはあらゆる面で全く違う存在である。自分は完全に正しいと思っているときも、主はあらゆる意味で私とは完全に違っていることも有り得る。そして、私は、自分の正しさを主にゆだねるまでは、自分が感じる正しさに頼ることは、絶対できない!これは、非常に極端な話ではありますが、絶対的に必要なことです。私たちの中には、この授業課目を学んできた方も多くいます。私たちは書物をもとに話しているのではなく、自分自身の経験から話しをしています。私たちは、しばしば、自分が絶対に正しいと確信し、その判断の上に自分の正しさを追求して進み続けましたが、悲惨な結果に終わり、当惑と混乱という恐ろしい霧の中に陥りました。自分が正しいと完全に確信していたのに、私たちがたどり着いたのはどんなところ場所だったでしょう!そして、そのことを熟考したうえで、主の前に差し出すとき、私たちは自分自身に問いかけなければなりません。そのことに関して、私はどれほど主に仕え、主を待ってきただろうか。私たちは、自分の正しさの感覚に対して、少しばかり性急ではなかっただろうか?ここで、ダビデと契約の箱のはなしが繰り返されます。ダビデの動機はすべて正しかったし、ダビデが神の目的であると感じ取っていたものもすべて正しかったのです。神がエルサレムに契約の箱を置くことを望んでおられるという彼の考えは、確かに正しかったのですが、ダビデはそれをたましいの内側に生まれた自分の考え方としてとらえてしまいました。その考え自体が彼の内側で大きな情熱となって高まり、それを実現するためにダビデは荷車を作りました。この動機、この良い動機、この良い考え、この敬虔な精神のゆえに、彼は非常におそろしい問題に直面させられました。主はウザを打たれ、ウザは主の前で死に、そして、契約の箱はオベデ・エドムの家に持ち込まれて、そこに留まることになりました。このようなことが起こったのは、人間が良い正しい考えを持っていながら、主には仕えていなかったからです。その後に起こったことはご存じでしょう。後に、ダビデはレビ人の長たちに言いました、『あなたがた自身も、あなたがたの同族の者たちも、身を聖別し、イスラエルの神、主の箱を、私がそのために定めておいた所に運び上りなさい。最初の時には、あなたがたがいなかったため、私たちの神、主が、私たちに怒りを発せられたのです。私たちがこの方を定めのとおりに求めなかったからです。』主の命令は、はじめから同じだったのですが、ダビデは主に仕えていませんでした。もしダビデが、敬虔な熱意を静かに主の前に差し出していたら、主はモーセに与えたのと同じ命令をダビデに与えて、こう言われていたでしょう、『よろしい、わかった、ではこの箱の正しい運び方をよく覚えておきなさい。』そうなれば、死者も回り道もなく、すべてはうまくいっていたでしょう。

確かに、私たちは主のために非常に良いことを考えつくかもしれませんが、まずは、それを主に委ね、それが主についての自分の考えではなく、自分の中に生まれた主の思いであることを確かめなければなりません。キリストを学ぶことは非常に重要です。主は、全く違うお方です。

この事実によってキリスト者は、大きくふたつの集団に分けられますね。キリスト者たちは、主として、このふたつの集団に分けることができます。非常に大きなキリスト者の集団があり、彼らのキリスト教は客観的で、外向きなものです。そこで大切なのは、キリスト者としての生活を取り入れることで、以前はしようとしなかった多くのことを、今はするようになったということです。彼らは、会合に参加し、教会に行き、聖書を読むようになり、以前はしなかった多くのことを行うようになり、また一方で、以前はしていた非常にたくさんのことを今はしなくなりました。それが、その集団で、多かれ少なかれ、良いとされることです。すなわち、外から見て良いキリスト者であることは、何かをするか、しないか、どこかに行くか、行かないかという問題になってしまいます。これは、信仰の深さにも大きな明暗のある大きな集団、実に大きなキリスト者たちの集団です。

このキリストの学校には、これとは違う人たちもいます。その人たちにとって、キリスト者としての生活とは、程度の差こそあれ、主と共に歩み、心の中で主を知るという内面的なものです。それがキリスト者の生活の性質、すなわち、自分の心の中で、生ける主とともに、真に内なる歩みをすることです。このふたつの集団のあいだには、非常に大きな違いがあります。

聖霊の法、または、導きの道具

そろそろ終わりにしなければなりません。あらゆる面で「違っていること」、聖霊はどのような手段でこの「違っていること」を私たちに理解させるのでしょうか?――聖霊は、耳に聞こえる言語やお話しで私たちに語りかけることはありません。私たちには、これが道だ。これに歩め!という外からの声は聞こえません。では、どうすれば、それが分かるのでしょうか?その答えは、使徒パウロが、『キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理』と呼んだものの中にあります。『この方にいのちがあった、このいのちは光であった。』このことについて、私たちと主のやり方、私たちと主の考え方、私たちと主の感じ方の違いを、私たちはどのように知ることができるのでしょうか、どのようにして教えられるのでしょうか?私たちは、どのように光を得るのでしょうか。このいのちは光であった。『わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです(ヨハネ8・12)。』『キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、私を解放したからです。』ですから、私たちの教育のために御霊が用いる道具――そう呼んでもよろしければ――は、キリストにあるいのちです。何ごとに関しても、私たちが御霊の考えを知るときは、いのち、神のいのち、いのちの御霊がかき立てられ、そのいのちを感知し、識別することによって知らされます。また一方では、私たちが主に生きているなら、何かが御霊とうまく調和できていないときには、死の感覚、その方向にある死によってそのことに気づきます。

これは、誰からも、言葉によって、また、授業によっては、教えてもらえないことです。それでも、これは、私たちが知ることができるものです。あなたは、心の反応、多くの場合は非常に激しい反応によって、それを知ることができます。あなたはすでにある道に進もうとして、悪い反応を受けたことがあります。あなたは、ある特定の方向に向けて努力をして、何かを実現しようとしていますが、少しだけ、立ち止まって考えてみると、あなたは自分の力でそれを引き起こそうとしてていることに気づきます。それが、自然に生まれたものではないこと、主のしるしである内から生まれたという性質が欠けていることを、あなたは自分でもよく分かっています。主はその道を通っては来られないことを、あなたはご存じです。そこに内から生じたという感覚も平安もないことを、あなたは気づいています。無理やり自分を引き立たせ、気持ちを駆り立てて、引き起こしています。神の真の子供であるあなた方一人一人は、多かれ少なかれ、、私が言っていることがお分かりだと思います。しかし、これはキリストを教えるこの学校における聖霊の道具――いのちであることを思い出してください。聖霊に支配され、聖霊に油を注がれた男や女に現れるしるしとは、彼らがいのちの中で動くこと、自分のいのちを捧げること、彼らから出てくるものはいのちを意味すること、そして、このいのちの法則によって、主がどこにおられるか、主が何の中におられるか、主が何を求めているか、主が何を望んでいるかを、彼らが知っていることです。彼らはそのようにして知ります。声は聞こえず、客観的な幻は何も見えませんが、霊の奥深いところでいのちが取り仕切ります、いのちの御霊です。

キリスト・イエスにおいて神のもとに生きることが、私たちにとって、どれほど必要なことでしょうか。私たちがいつも、いのちをつかんでいることはどれほど必要なことでしょうか。サタンがその死の霊を私たちの上に降ろし、私たちの霊を死の覆いの下に引き込むことさえできたら、サタンはそこで光を遮断し、私たちを迷わせます。私たちは自分がどこにいるのか、何をすべきかも分からなくなります。サタンは、いつもそれを狙っているので、私たちの生活は生きるための絶え間ない戦いとなります。神の目的を実現するため行われることはすべて、この『いのち』と結びつけられています。この『いのち』は、根本においてはすべての神の目的の総和です。植物の種の中にはいのちがあり、種だけではなく、大木にも同じいのちがあって、そして、そのいのちが解き放たれさえすれば、最終的にはその大木の中に結実します。それと同じように、霊的な幼少期、つまり、新しく生まれたときに、私たちに与えられたいのちの中には、神の完全で最終的で、完璧な考えの力がすべて詰まっているのです。そして、サタンがそこに介入する目的は、私たちのいのちを断ち切ることだけではなく、神の究極の利益と関心が、私たちに与えられたいのち、すなわち、今、私たちに与えられている永遠のいのちの中に、完全に発揮されることを妨げることです。聖霊はいつも、このいのちを気にかけており、そして、私たちにこう言われます。そのいのちを守りなさい。そのいのちに干渉しようとするものは何ものも許してはいけない。御霊を悲しませ、いのちの働きを阻もうとする何かが現れたときは必ず、すべての死に対する証人として立っている尊い主の血潮、イエスの尊い血潮、朽ちることのないいのち、天におられる罪と死に対する勝利の証人に、すぐに頼るようにしなさい。そうすれば、あなたを捕えようと試みるサタンの手から解放されます。この尊い主の血潮こそが立つべき土台です。私たちはその土台の上に立って、聖霊を悲しませ、いのちの働きを妨げるあらゆるものに対抗しなければなりません。そして、この土台に立つことよって、私たちは、ますます豊かになるキリストを知り、しかも、このように生きたかたちで知るようになるのです。主よ、私たちをお助けください。


【訳者注】原文はここにあります

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