2024年12月30日月曜日

オースティン・スパークス、『キリストの学校』、第六章 開かれた天

キリストの学校
T・オースティン-スパークス著
The School of Christ by T. Austin-Sparks 

第六章 開かれた天

私たちは、これまでの瞑想の中で、キリストの学校にいることの意味を考えるように導かれてきました。この学校では、すべての学び、すべての指導、すべての訓練が、キリストを知ること、キリストを学ぶこと、キリストについて学ぶのではなく、キリストを学ぶことに向けられています。ものごとを平易、かつ、明確にしようとするときに、これはもっとも難しい点です。私たちは、キリストに関する多くのことがらを教義、教えとして取り上げることはできますが、それは私たちが求めていることではありません。それは、主が求めているものとは全く違います。求められているのはキリストご自身です。キリストご自身が、すべての真理、すべてのいのちの生きた個人的な具現化、人格化であって、主の私たちに対する目的と願いは、さまざまな側面から見た真理を知るようになることではなく、ある一人のお方、そのお方の生きた人格を、生きたかたちで知ることであり、また、その人格が私たちに伝えられ、私たちがその人格へと組み込まれることによって、すべての真理が、単なる理論的、方法論的な真理ではなく、生きた真理となることにあります。

ここでまた、繰り返します。このことが、どれほどの力をもって私の心に迫ってきたか、その意味がどれほど重くのしかかっていたか、とても言葉では言い表せません。ご自身の豊かで完全な考えから、何かが離れる危険が起こったとき、神はいつも、御子の新たな啓示を取り戻そうとされます。神は真理の全体像を理解し直すように導くことはされません。神は、御子を新たに啓示し、御子の完全な姿を明らかに提示することによって、必要なものすべてを取り戻します。このことに関連して、私たちがこの瞑想の中で、繰り返し述べてきたのは、ヨハネによって書かれた福音書と書簡、そして、黙示録が新約聖書の摂理を究極的に示すものであるということです。これらの書は、新約聖書の教会がその初期のきよらかな栄光、純粋さ、真実、神聖さ、霊性から離れ、地上のキリスト教組織になりつつあった時期に書かれて、世に表されました。主は、ヨハネによる書物を通して、この状況に対処する方法を示されたのであり、これらの書物によって、御子の天的で神聖で霊的な完全さを、あらためて世に提示されました。それはキリストへの回帰であり、聖霊は常にそのようにされます。聖霊は、私たちをこのただひとりのお方の人格へと連れ戻し、その人格が何を表わすのかを、霊的、かつ、天的なかたちで私たちに示してくださいます。福音書を読み終えて書簡へと移行する際、無意識のうちに、自分が基本的な事柄を学び終えて、その先のもっと高度なところまで進んできたと考えてしまわないよう、私たちは細心の注意を払わなければなりません。これは、書簡は福音書よりずっと先に進んだものだという考え方です。はっきり言いますが、これは誤った考え方です。書簡は福音書の始まりにすぎません。書簡にあることはすべて福音書の中にありますが、書簡はキリストの解釈に過ぎず、そして、主は、私たちがその解釈ばかりに没頭するあまり、このお方の人格への関心を失ってしまうことを、決して望んでいません。

すべてはキリストの中に

さて、教会を建て上げるという責任を負った人たちに、私から言いたいことがあるとすれば、それは、ほんのしばらくの時間を費やすくらいなら非常に有益な働きではありますが、私たちにとっては、その程度の意味しかありません。私たちは使徒行伝と書簡を手に取って、主の教会と諸教会を運営する手法を定めた書物と考え、それを実践、秩序、形式、教えを定めて磨き上げた制度として取り上げはしますが、しかし、このような立場を取ることの弱点はまさにここにあります。すなわち、このような考え方は、それ自体で完結してしまっていて、そこから主イエス様は見落とされ、失われてしまっています。私が何を言おうとしているか分かってもらえるでしょうか?聖霊が取られる方法は、キリストを取り上げて、キリストを心へと開き、キリストが天の秩序であることを示すことです。書簡が天の秩序を学ぶ指南書として定められているわけではなく、キリストこそがその秩序であり、そして、この秩序に関わることは全てが、この生けるただ一人の人格と直接につながっていなければなりません。それがこの世界の何かとつながると、それは地上の制度になってしまいます。そして、人間は、書簡集を材料にして、書簡集の上に築かれた何百もの異なる地上の制度を生み出すこともできます。こう言ったものが作られることによって、異なった制度、異なった解釈を持ったいくつものキリスト教団がこの地上に生み出されるのであり、このようになる理由は、それらがこのただ一人のお方の人格から切り離されてしまっているからです。

ご存知のように、数多くの考え、数多くの主題、思想、教えがあります。『神の御国』なるものがあり、『聖化』があり、『永遠のいのち』があり、「勝利の生活」、「勝利者」、また、「勝利するいのち」といったものがあり、「キリストの再臨」などもあります。こういったものは、もっともらしい名前の付いた何かの主題、思想とか事象に過ぎず、聖書の中から拾い上げられ、広げられて、人間たちが過剰に熱中し、強い興味を持つようになったものに過ぎません。このようなかたちで、たとえば、聖化という教えの周りに群がる人たちがおり、彼らは「聖化主義者」と呼ばれていて、それは「主義」になってゆきます。別の教えに群がる人たちもいて、彼らは、再臨説、主の再臨、預言などなどといった世界の中に住んでいます。このようにして諸派が生まれるのです。主イエス様のご人格が支配していれば、そのようなことはまったく起こり得ないと、私は言いたいです。神の御国とは何でしょうか。それはキリストです。福音書の中身をきちんと読めば、神の王国はイエス・キリストであることが分かるはずです。キリストの中に生きているなら、あなたはその御国にいますし、そして、聖霊があなたにキリストを教えてくださるので、その御国がどのようなものであるか、細部に至るまで知ることができます。この御国とは、そもそも何かのものではありません。この御国が普遍的なものになるとき、それはただキリストの現れとなり、キリストの表現となります。それが全てです。あなたはキリストにあって、キリストを通してこの御国に入るのであり、他のすべてのことについても同じことが言えます。

聖化とは何でしょうか。それは教義ではありません。「それ」と呼ばれるようなものではないのです。聖化とはキリストです。キリストは、私たちにとって、聖めになられました(第一コリント1:30)。あなたがキリストにあり、そして、聖霊があなたにキリストを教えているなら、あなたは聖化についてすべてを知りつつあります。そして、もし聖霊が教えるのでなければ、聖化の理論や教義を学ぶことはできても、あなたは他のキリスト者たちから引き離されることになり、そして、それは多くのキリスト者たちを困難に陥れるでしょう。おそらく、聖化をものごととして教えることが、他のどのような教義よりも多くのキリスト者たちを困難に陥らせてきたのであり、それは、聖化をものとしてしまって、キリストご自身を私たちの聖化としなったためです。

このような言い方をするのは、私が伝えたいことを説明するためです。すなわち、私たちがいるのはこのキリストの学校の内側であり、そこでは聖霊は私たちにものごとを教えているのではなく、教会の教義や聖化や再臨主義など、なにかしら、たくさんのことを教えているのでもなく、私たちにキリストを教えているのです。再臨主義とは何でしょうか?主の来臨とは何でしょうか?そう、それは主が来られることです。では、主の来臨とはどういうことでしょうか?そうですね、次のような言葉が鍵を与えてくれます、『主イエスは来られて、ご自分の聖徒たちによって栄光を受け、信じたすべての者の感嘆の的となられます』(第二テサロニケ1・10)。これは、今までは、心の内側だけで起こって来た何ごとかの完成なのです。では、主の来臨が近づいていることを、はっきりと知るにはどうすればよいでしょうか?もっともよいのは預言的なしるしによって知るのではなく、主の民の心の中で起こっていることによってです。これこそがその時を知るもっともよい兆候であり、すなわち、神の霊が神の民の中にいることこそがそのしるしです。しかし、あなたはそんなことには関心がないかもしれません。あなたは、ドイツとロシアのあいだで何が起こるのか、この二か国が最終的に大同盟国になるのかと言ったことの方を、もっと早く知りたいと思うでしょう!そのことは、私たちをどこへ導くでしょうか?ローマ帝国の復活について、いろいろと語ってきたことは、私たちをどこへ導いたのでしょうか?これこそ、ものとしての再臨主義というものです。私たちがただ、すべての真理の総和である主の近くにいて、主とともに進み、主を学ぶなら、物事が進む道がわかるでしょう。差し迫っているものが何か、わかるようになるはずです。心の内側で、準備のささやきが聞こえるようになります。再臨に対する最善の準備は主を知ることです。私は、預言には何の意味もないと言っているのではありません。誤解しないでください。しかし、私はよく知っていますが、ものとしての預言だけに心を奪われていて、霊的な生活を大切にしない人たち、主との深い内なる歩みを全く持っていない人たちが大勢います。私たちはそれを何度も見てきました。

ある国を訪問し、その国の大都市で一週間ほどお話をすることになったときのことを、私は忘れられません。すべてがうまく整えられていて、私の最初の説教は、私の前に一週間に渡って滞在していたある方の最後の説教に続けて行われるという段取りになっていたのですが、その方はそれまでの一週間に渡って、ずっと預言について話しをしていたのです。私が最後の集会に参加すると、そこで彼は時代の兆しについて、最後の説教をしていました。皆が、帳面が取り出し、興味津々で話の内容を書き留めていました。そこで語られたのは、外面的で客観的なことばかりで、ローマ帝国が復活し、パレスチナが復興するといった話しでした。その類いのことはあなたがたも、よくご存じでしょう。彼が説教を終えても、聴衆はもっと多くのことを聞きたがっており、帳面に書き込む用意をして待っていました。主が私の心に真っすぐに語りかけられ、最初の言葉として、この聖句で始めるように示されました、すなわち、『キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。』(第一ヨハネ3・3)、これは、霊的な希望の霊的な効果について語るためです。聴衆はそこには全く関心を示しませんでした。帳面は閉じられ、鉛筆もしまいこんで、私ができる限り主に忠実であろうと努めながら、こう言った多くのことが内面的に、自分を主の姿に合わせるために、どのような意味を持つのかと言った話をしても、関心を持つ人は一人もいませんでした。彼らは集会が終わるのを待ちわびていました。私の話しが終わると――ほとんどの人は話し終えるまで待てませんでした――彼らは、立ち上がって出て行きました。

ああ、これは違う。大切なのは主であって、聖霊が私たちを主のもとに連れ戻してくれるのであり、重要なのは、結局のところ、不必要で初歩的な教えに戻ることではなく、キリストに立ち戻ることです。大切なのは、聖霊が神の全ての意志と目的とを実現できるただひとつの土台の上に立つことであり、聖霊が私たちにキリストを教えてくれるキリストの学校にいることであって、そして、聖霊によるキリストの教え方は実地に基づいたものです。

新しい一組の能力が求められる

さて、ここで私たちは一見、初歩的な話に戻ることにします。おわかりのように、この学校の本質は、私たち自身の中にきわめて劇的な変化を要求します。私たちの中に非常に大きな変化が起こされてはじめて、聖霊が偉大な教師を務めるキリストの学校に入ることができます。私たちは、初めから完全に作り直されなければならず、そうでなければ、この学校は無意味なものになります。まったく新しい一組の能力が私たちに与えられるまで、キリストを学ぶという望みを持ってここに来ることは、絶対にできないのです。私たちには、生まれたままの人間には備わっていない能力を与えられなければなりません。『人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません』(ヨハネ3・3)そして、これこそ、主がおどろくべき事実を述べ伝えるやり方です。

その御国には、私には全く対処する力がないもの、生まれたままの私には意思疎通する能力が全くないものが存在しています。庭を散歩してみてください。ジャガイモや野菜が植えられているそばを歩いて、何でも好きなことを話してみてください。ジャガイモはあなたについてどう思うでしょう?キャベツはあなたについて何と言うでしょうか?あなたが何を話しているのであれ、彼らはあなたが話していることを、聞きもしないし、理解もしません。彼らが生きる生活は、あなたが生きる生活とは異なる種類のものです。彼らは、あなたの国を構成するものではありません。彼らとあなたとの間に、対応する要素は全くありません。彼らはあなたが話したいと思うもっとも基本的な事柄についてすら、それを理解する能力も才能も資格もありません。あなたが、服装とか日常にありふれた愚かなものごとについて語ったとしても、彼らには理解できません。そのような感じです。私たちと神の御国のあいだには、これと同じように大きな隔たりがあります。『生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。・・・・』(第一コリント2・14)。その隔たりはあまりにも大きいので、もし、あなたや私が、生まれたままの状態で神の霊が語っている場所に連れてこられたとしても、神の霊が私たちの中に奇蹟を起こしてくれなければ、そのすべてはまったく別世界の話になってしまうでしょう。そうではないでしょうか?信者の皆さん、世に出て行って主のことを話してみたら、人々はあなたたちをどんな目で見るでしょうか!それは彼らにとって全く異質なものです。そういうことなんです。『人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。』この学校に入るためには、私たちに何かが起こらなければならないのであり、それは、私たちが神に関することに対して、これまでは持っていなかった資格と能力を与えられて、新たに作り直されなければならないことを意味します。それがこの学校の性質です。これは神の霊の学校なのです。

これがとても初歩的であることは、私も承知していますが、結局のところ、それこそが私たちに常に押し付けられていることではないでしょうか?多くの言葉を聞いても、それが何の意味を持たないことも有り得るという事実を、私たちは思い知らされています。霊的理解のための能力を、ますます広げていくことが必要です。私たちは、この問題全体において、生まれつき不利な立場に立たされているのです。

自分のいのちを断つこと

私には忘れることのできない一節があります。それは長いあいだ、私の中にありました。この一節は、私たちの瞑想の基盤としてここにありました。その節とは、ヨハネ一章五十一節で、この言葉は主イエス様がナタナエルに語った言葉であり、これこそ、私たちをキリストの学校へと導く言葉であると私は思います。四十七節から始まる部分を全部、読むと理解しやすくなると思います。

『イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは言われた。「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」ナタナエルは答えた。「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」イエスは答えて言われた。「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったので、あなたは信じるのですか。あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。」そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」』

ここで私たちはキリストの学校に近づいています。ここには、必要不可欠なことが一つあって、それがなければ、この学校の入り口にたどり着くことさえできないのですが、それが、次のことばに表れています、『これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない!』この言葉は、最後の言葉――『神の御使いたちが人の子の上を上り下りする』――と相まって、霊的な意味で背後に置かれているものが何か、その全体像を私たちに示してくれます。

ヤコブが偽りを行って――彼の偽りの物語をあなたがたも覚えているでしょう――長子の権利を盗み、命からがら逃げなければならなかったとき、彼は実に偉大な真理を見たのであります。ぼんやりとした型とか象徴なようなものに過ぎなかったとしても、それ以上に、それは、その時の彼には理解することができなかった真理でした。その時のヤコブは、自分が見たもの、すなわち、神の家、ベテルの意味を決して理解できなかったでしょう。そこは、天と地が出会う場所、神と人が出会う場所であり、栄光――天と地、神と人を一つに結びつけるもの――こそが大いなる絆である場所であり、神が語られてご自身を知らしめる場所、神の目的が明らかにされる場所です。なぜ、ヤコブには、理解できなかったのでしょうか?彼には偽りがあったからです。では、ヤコブに、そのままの生活を続けさせて、二十年間にわたって訓練を受けさせてみましょう。その二十年間の訓練が終わったときに、彼の地上での生活、彼の地上での性質に加えられた天の影響、彼の肉に対して加えられた聖霊の影響、ヤボクで彼自身が神と格闘した時に受けた影響がどれほどのものかを考えてみましょう。また、彼の生来の肉的ないのちが打たれ、傷つき、そして、徹底的に砕かれて、ヤコブが神の禁令のもとに置かれたというしるしを、残りの生涯に渡って負い続けるようになったことも考えてみなさい。こうして、神に裁かれ、打たれ、傷つけられ、肉的に弱められた状態ではじめて、彼はベテルに戻って、注ぎのぶどう酒を注ぎ、そこに留まることができるのです。ヤコブが犯したはじめの偽りは取り除かれています。彼はもはや、ヤコブではなくイスラエルであり、型としても象徴としても、その中に、偽りはありません。働きは完了してはいませんが、そこに転機が訪れたのです。

主イエス様はここで、要約すれば、次のように言われています。開かれた天のところ、つまり、神があなたがとの交わりのために降りて来られる場所、神の栄光がとどまる場所、そして、ベテルが象徴するものをあなたが享受する場所に入ることは、主であるわたしの中に入ることに他なりません。わたしの中に入って、ベテル、神の家としてのわたしの中にとどまること、そして、天と神のすべての善が伝えられるということは、今、あなたの生まれたままのいのちが弱められ、砕かれ、枯れるところに達したことを意味します。そのことが起こるまで、あなたは主の学校に入ることはできませんし、また、私たちがその扉の入り口の前に立ったとき、主がキリストにおいて、私たちにこう言う必要があります、見なさい。これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちにはヤコブがいない。天が開けるのを、あなたはいまに見ます!ヤコブのいのちについて語ることは、結局、かたちを変えて、自我のいのちについて、語っていることに他なりません。なぜなら、自我こそが生まれたままのいのちの本質そのものだからです。自我とは、もっとも悪質なかたちでの自己本位の生き方だけではなく、自分を中心にした生き方全体のことです。ヤコブは選ばれた血筋のものでした。彼は、先祖の時代までさかのぼる神の知識をもってはいましたが、訓練と人生の転機を経て、生まれたままの性質から霊的な性質へと変わってゆきました。

この話を続けさせてください。ここに主イエス様がいます。キリストご自身のいのちが、私たちの自我のいのちのように、汚れ、腐敗し、罪深いものだなどと言う人はどこにもいないでしょう。全く違います!そして、それでも、主は自我のいのち、罪のない自我のいのちを持っていました。主にとって、この自我のいのちとは、ただ、主が自分自身から行動し、語り、考え、判断し、動くことができることを意味していました。それが全てです。そこに悪い思いはなく、罪あるもの、腐敗したものに動かされたり影響を受けたりすることもなく、ただ自分の意志で行うということです。主は、たくさんの良いことを、ご自身の意志だけで行い、語ることができました。しかし、主が取られた態度、立場とは、自分の中には罪はなくとも、どんな時も、御父から離れて働くことも、語ることもできないし、絶対にしないというものでした。それをすれば、自主的な働きということになり、敵が狙う付け入る隙を与えることになります。しかし、この話しは、ここまでにしておきましょう。

私が言いたいのは、あなたも私も、自我のいのちは必ず腐敗したものであると考えてはならないということです。神のために、完全に純粋な動機からなされる行為の中にも、私たち自身の中から行われることは数多くあります。崇高で美しい思いや考え方、判断は数多くありますが、それは私たちのものであり、私たちが真実を知れば、それは全て、神のものとはまったく異なることが分かります。

そして、主はまさにそのご自身の学校の入り口において、あることをはっきりと示されます。それはヤボクです。ヤボクはヨルダン川の支流であり、ヨルダン川が意味するものが、キリストの学校のまさしく入り口におかれています。主は、三年半のあいだ、この聖霊の学校に入学するために、ヨルダン川を受け入れました。あなたも私も、他の方法では、その油注ぎの学校に入ることはできません。この入り方の他にはありません。あなたも私も、キリストを学ぶことができるのは、ヤコブの性質が打ち砕かれたときに限られます。私は、単なる教義や技法について話しているのではありません。信じてください、私は自分が話していることをよく分かっています。

これは、私の生涯の中でもっとも偉大な現実であることは確かです。私は、神のために全力を尽くして働いてきたこと、何年も自分自身の中から福音を宣べ伝えてきたことがどのようなことかを分かっています。ああ、私も理解しています。教会の丸天井の下で働くことが、どんなに大変な労働であるか、私も知っています。私は説教壇に立ったとき、心の中で、何度こう言ったか分かりません、この頭の上を覆う丸天井が裂けて、今まで私が多くの本からかき集めて帳面に書き写し、勉強しなければならなかったことを説教する代わりに、そのすべてを投げ捨てて、開かれた天を持って、神が私の心に語っておられることを語ることができたら!こんなふうに、何年にも渡って憧れてきました。私はこのようなものがあることは、うすうす感じてはいましたが、ローマ書第6章にある大きな転機が訪れて、そこで天が開かれるまで、そのことに気づきませんでした。その時から、状況は違うもの、あらゆる意味で違うものになりました。『天が開けるのを、あなたはいまに見ます』、そして、それ以来、どのような緊張もなくなり、どのような束縛もなくなり、制限はなくなり、丸天井は消えてなくなりました。それが今日の私の栄光です。ここで、自分について語ることをお許しください。私がこう言わざるを得ないのは、私たちは演説をするためにここにいるのではないからです。私たちは、この事実、すなわち、聖霊が、キリストを直接的に、即座に、また、ますます深く啓示してくださるという現実の核心に迫っているのです。そして、これは私たちが自分のヤボクに来るまで、ヤコブの生き方がその転機を通して取り除かれるまで、そして、その上で、主が、「これこそ、ほんとうのイスラエル人、彼のうちにはヤコブがいない、天が開けるのを、あなたがたは見る!」と言ってくださるまではあり得ないことです。私たちの頭上は、生まれたときからあの丸天井で覆われており、天は閉じていますが、神に祝福あれ!十字架がその天を切り裂き、垂れ幕が上から下まで引き裂かれ、そして、キリストがその肉体という引き裂かれた幕を通して現されるのです。主はもはや、人間イエスとして見られることはありません。主は、私たちの心の中に、人間に対する神の完全な考えのすべてをもって現れます。主イエス様を見ることは実にすばらしいことであり、そして、主をますます大きく見続けることもまた、まことにすばらしいことです。それが始まるのは、まさにここです――見よ、まことにイスラエル人、その内に偽りがのない、ヤコブはない!天が開けるのを、あなたがたはいまに見ます!

新しい人のための新しい希望

『天が開けるのを、あなたがたはいまに見ます』というこの言葉は、新しい人間に対する新しい希望を示しています。新しい人間、新しい希望!欽定訳聖書には、改訂版聖書で省略されたある言葉が追加されています。私がそう解釈するのは、その単語自体が現れていなくても、原文には暗示されているという単純な理由からです。欽定訳聖書では、『天が開けるのを、あなたがたはいまに(Hereafter)見ます』と書かれています。改訂版聖書では、最初の『Hereafter』が省略され、ただ、『あなたは見ることになります』と書かれています。しかし、『見ることになる(shall)』という言い方は、ある程度、将来のことを語っており、後に来る日のことを示す未来形の表現です。『あなたは見ている』ではなく、『あなたは見ることになる』です。これは新しい人間に示される新しい希望であり、そこには、新しい時代があります。それが聖霊の時代であると言えるのは、聖霊の到来によって開かれた天が現実のものとなるからです。主の十字架は私たちのために天を開く働きを行いますが、それを私たちの中でよいものにするのは聖霊です。それは、ヨルダン川での主イエス様の典型的、象徴的な死と埋葬と復活の際、天が主に開かれたときとまったく同じです。新しい復活という土台に立ったとき、天が主に対して開かれました。それから聖霊が降り立って、主の上にとどまり、聖霊が、いわば、交わりの経路となることによって、開かれた天を、交流、交わり、親しいやり取りの場として、本来あるべき姿に変えました。今は聖霊の時代であり、キリストのすべての価値が私たちの中で現実となっています。『あなたがたは見ることになる』、そして、神に感謝します、ナタナエルにとっては未来であったものが、私たちのあいだに今、存在しています。

その時代が来ました。私たちは聖霊の時代、開かれた天の時代に生きています。

聖霊によって油注がれた人生に現れるしるし

それでは、聖霊によって油を注がれた人生に現れるしるしとは何でしょうか?パウロがエペソに行ったとき、弟子たちと会うとすぐに、質問する理由を説明もせずに、『信じたとき、聖霊を受けましたか?』と尋ねたことを覚えているでしょう。彼らの答えは、『聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした。』それを受けて、パウロの次の質問は、大きな意味を持っており、私たちをヨルダン川に引き戻すものです、『では、だれの名によってバプテスマを受けたのですか。』「バプテスマはこの重要な現実と結びつけられています。聖霊を知らないなら、あなたのバプテスマには意味を持っているでしょうか?」ああ、私たちはヨハネのバプテスマというバプテスマを受けました。ああ、わかりました。そうですか、『ヨハネは、自分のあとに来られるイエスを信じるように人々に告げて、悔い改めのバプテスマを授けたのです。』このことを聞いたのち、彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受け、キリストに結ばれるためのバプテスマを受けて、そこで、聖霊が彼らに臨みました。このようにして、彼らはキリストの学校に入ってきたのです。そして、聖霊によって油注がれた人生に現れるしるしとは、あなたが、このように生きたかたちでキリストを知っており、その啓示が、豊かになり続けるということです。

ああ、ここをよく聞いてください。一見すると初歩的でどうでもいいことに見えるかもしれませんが、そうではありません。私たちの中には、もちろん、とても学ぶことが下手で、学ぶのに非常に長い時間がかかる人もいます。私の場合、このことに本当に気づくまでに何十年もかかりました。私たちは多くのことを知ってはいても、キリストについての真に個人的な知識は貧弱なものであることに気づきます。私たちは、何度も繰り返して、この事実と向かい合うことになります。遅かれ早かれ、あなたも私もいつか、「ああ、私が知らなければならないのは、教義や真理や題目や主題や聖書と言った事柄ではないのだ!」と叫ぶ境地に達します。あなたがそれに没頭しているあいだは、全てが実にすばらしいものと思えます。しかし、人が炎の中へ、深い試練の中へ、困難や困惑の中に入ってきたら、あなたがそれまで行ってきたたくさんの教義や題材、聖書研究はどうなるでしょうか?その価値はどこにありますか?そういったものは、あなたの問題を本当に解決できませんし、困難を乗り切る助けにもなりません。これは悲劇です。これは、特定の教義を知っている私たち、聖書の教義を調べてそれを実行してきた私たち、再生、贖い、贖罪、信仰による義、聖化などについての聖書の記述を熟知している私たちの多くに当てはまります。しかし、このようなことをすべて経験し、そのすべてを十分に解決した後で、おそろしい霊的体験に陥ることもまた事実です。これらすべてのことが意味のないものになり、そして、主がいなかったら、このすべてを投げ出して、「このキリスト教では役に立たない!」と言うしかないような状態に達してしまいます。そう、主を何年も前から知っている人にとって、それまで蓄積してきた真理の意味を考えると、その知識はもっとも深い霊的な苦悩にある時にこそ、その価値があるかということになります。そのような苦悩の中で、あなたを助けることができるものはただひとつしかなく、それは、教義をびっしり書き込んだ帳面ではなく、私は自分の心の中で個人的に生き生きと主について知っているか?ということ、聖霊は私の中に、私に対して何を啓示して、キリストを私の一部にしてくれたか?ということです。遅かれ早かれ、私たちはそこに行き着くことになります。私たちは主についての生きた霊的な知識に引き戻されることになります。なぜなら、聖霊によって私たちの存在自体の中に啓示された主だけが、もっとも深い苦悩の時間に私たちを救うことができるからです。いつか、私たちからすべてが剝ぎ取られ、霊的、内面的にキリストについて知っている事実だけが残される日が来て、その時、私たちの精神的知識、頭の知識のすべては剥ぎ取られます。教えと教義の巨人と言われた人々の多くは、その生涯の終わり近くに非常に暗い時期を過ごしています。それはまことに暗い暗い時間です。彼らがどのようにしてその時間を切り抜けたかというと、そのとき、彼らは、単なる頭の知識ではなく、主についてのはるかに大きな内なる知識により頼みました。ここで、私が言おうとしていることを、どう説明すれば分かってもらえるでしょうか?

たとえば、食物という分野で、あなたが本当に役に立つものを見つけたとしましょう。あなたは、何かの病気、または虚弱な体質を治すために、他の人たちが提供してくれたさまざまな食べ物を試してきましたが、どれ一つとして役に立ちませんでした。そんな中、あなたは突然、本当に役立つものを発見します。その後で、同じ問題に直面したときに、あなたはその新しい食べ物を少し試してみて、それによって問題を乗り越えられることに気づきます。それはあなたの中にあり、試練を乗り越えさせてくれるものです。これが、キリストが私たちにとってどのような存在であるか、キリストとは何であるべきかという問いに対する私なりの答えです。主は私たちの中にいて、私たちが自信と確信をもって頼れる存在であり、そうすることで、主は私たちに困難を乗り切らせてくれます。私たちはこのようなかたちでキリストを捉えるべきです。それがキリストを学ぶ唯一の方法であり、それは、経験によるものです。『天が開けるのを、あなたがたは見ます。』聖霊は、私たちのために全く新しい秩序を作るために来られたのであり、それによって、キリストが私たちのいのちそのものとして、私たちの中に明らかにされるようになります。聖霊が来るとき、あなたがたにも分かります。それが、油注がれたいのちに現れるしるしです。あなたがたは、見えるようになります!そして、私たちが本当に見えるようになるのは、すばらしい瞬間です。私たちの中には、何かとの関りの中で、このすばらしい瞬間を経験した人もいれば、他の誰かが、何かとの関りの中でこのすばらしい瞬間を経験したところを見た人もいます。それでも、私たちは知っています。つまり、彼らはこのことをよく知っていて、そのことを教えられ、何年にも渡って頭に叩き込まれてきたのですが、それから、何年も経った後で突然、この瞬間が彼らを訪れ、そのとき、彼らはこう言ったのです、そら、これまでずっと言われてきたことが、今になって見えるようになった!

私は、非常に敬虔な家庭で育ったある男性のことを覚えています。私は彼の父親をいつもチャールズ・G・フィニーに例えていました。彼は、霊、魂、そして、肉体的にもチャールズ・G・フィニーに似ていました。その非常に敬虔な家庭で育った彼の息子の一人は、何年にも渡って私のすばらしい友人でした。私たちは真の交わりを持ち、いつも主のことを話していました。ある日――今もニューイントン・グリーンの角のその場所が眼に浮かびます――、私は彼に会いに行くことになり、ニューイントン・グリーンに向かって歩いていると、遠くに彼の姿が見えました。彼が微笑んでいるのが見え、私たちは会って握手しました。彼は、満面の笑みを浮かべていました。分かりますか、私はあることを発見したんですと、彼は言いました。私は尋ねました、いったい、何を発見したんですか?キリストが私の中におられることを発見したんです!『あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望み』が、私にとって現実になりました。私は言いました、実は、何年も前にあなたにそのことを伝えることができたんです。ああ、今は違います、彼は言いました。今は私も気づきました、今は私にも分かります。

私の言わんとしていることがおわかりでしょう。その通りです。ああ、世界がこのようなキリスト者でいっぱいだったら、どんなにいいでしょう!これこそ必要なことではないでしょうか?しかし、ナタナエルに言われたこのことばは、私たち全員にも語られなければなりません。これは、変容の山でペテロ、ヤコブ、ヨハネに言われたことばとは違います。それは、どこにでもいる人であるナタナエルに言われたことばです。これは、私たち全員に当てはまることです。そして、この事実がもっと強められ、証明されるために、主イエス様が言われたことに目を向けてください――『天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。』何が起こったのでしょう?わずか数行の文章のあいだに、途方もなく大きな変化が起こりました。これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。それはイスラエルのため、そう、ヤコブのため、イスラエルの父のため、ヤコブの息子たち、すなわち、地上のイスラエルのためです。ああ、そうです。とは言え、これは純粋に地上という範囲の内側、純粋にこの地上にいる諸国民という範囲の内側、そして、型という範囲の内側のことです。しかし、今、ここにあるのは途方もなく大きな変化です。主はナタナエルが言ったことを打ち消しました。『あなたはイスラエルの王です』と、彼は言いました。イスラエルの王?それは、そんなに大したことではない。あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます!それはイスラエルよりもはるかに大きなことです。人の子!それは、民族的でありながら、普遍的です。それは、生まれてくるすべての人々のためであって、イスラエルだけのためではありません。あなたは、さらに大きなことを見るようにになります!天が開きます――誰のために?イスラエルのためだけでなく、キリストにあるすべての人々のためです。人の子!

人の子というこの呼び名は、人間に関する神の考えを端的に表すものです。ああ、ここには人間に対する神の大いなる考え方と意図があります。天が開かれるのは、人間が、キリストにおいて神の考えに入るときのためです。天が開かれるのは人間のためです。神がこのお方の中で、人間にご自身を明らかにされるのです。それは私たち皆のためです。この開かれた天、この油注ぎが限られた少数の人々のものだとは考えないようにしましょう。そうではなく、すべての人のためです。神の願い、神の望みとは、あなたや私が、人間たちの中でもっとも単純で、愚かで、弱く、生まれつきもっとも力が限られており、生まれつきもっとも能力の低いあなたや私にも、生来の権利として、開かれた天があると理解することです。言い換えれば、キリストにあるあなたと私に対して、聖霊のこのすばらしい働きを知らせるキリストの内なる啓示は、ますます大きくなってゆきます。それは私たちのため、私たち一人一人のためのものです。もっとも進歩したキリスト者たちが、このことに関して主に向かう新しい動きを始め、私たち全員が本当にこの最初の転機を迎えて、この頭上を覆う天蓋が裂け、開かれた天を知り、聖霊が私たちの心にキリストを啓示して、神が栄光を受けられますように。

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