2024年11月1日金曜日

『神への渇き』、第十章―生活の聖礼典(サクラメント)終章

神への渇き
A・W・トウザー著
柳生直行訳、1958年、いのちのことば社
The Pursuit of God, A. W. Tozer

第十章―生活の聖礼典(サクラメント)

だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである。――第一コリント一〇・三一

心の平和に到達しようとするキリスト者が出会う最大の邪魔ものの一つは、われわれの生活を聖と俗との二面に分ける、あの広く行われている習慣である。この二つの面は別々に存在し、道徳的にも霊的にも両立出来ないものと考えられている。そして、われわれは生活の必要上その一方から他方へ常に行ったり来たりしているので、私たちの生活は破綻してしまい、統一した生活が出来なくなって、分裂した生活を営むようになりやすい。

キリストに従うわれわれが同時に二つの世界に住んでいることから、問題は起ってくる。つまり、私たちは霊の世界と自然の世界に同時に住んでいる。われわれはアダムの子として肉体による制限や、人間性につきものの弱さや罪悪による制限を受けながら地上の生活を営んでいる。人々に立ち交って生活するだけでも、それには長年にわたる苦労が必要だし、またこの世の事に多くの関心を払わなければならない。これと鋭く対比されるのが私たちの霊的生活である。そこでは、私たちは神の子供として、もっと高い別の生活を楽しんでいる。天国の国籍を与えられ、キリストとの親しい交わりを楽しんでいる。

このためにわれわれの全生活は二つの区域に分裂する傾向がある。無意識の中に二種類の行為を認めることになる。その第一種の行為は満足感と、神によろこばれているという確信をもって行われる。それは聖い行為であって、祈禱、聖書を読むこと、讃美歌を歌うこと、教会に行くこと、そのほか信仰から直接に出る行為がこれであると普通考えられている。これらの行為はこの世と直接の関係を持っていないところが特徴である。それは信仰がこの世ならぬもう一つの世界、つまり、「天にある、人の手によらない永遠の家」をわれわれに示してくれるのでなければ、全く意味のない行為である。

このような聖なる行為に対して世俗的な行為がある。それはわれわれがアダムの息子や娘たちといっしょにやっている日常の行動の一切を含んでいる。食べること、眠ること、働くこと、身体の必要を満たすこと、地上での単調で平凡な義務を果すことなどはみなその中に含まれる。こういうことを私たちはしばしばいやいやながら、また疑惑を感じながらやっている。時には、時間と精力の浪費としか思われないことをやっているといって、神にお詫びすることもある。その結果、われわれはいつも不安を感ずるようになる。深い挫折感を抱きながら毎日仕事をするようになる。そして、やがてこの地上の殻をぬぎすてて、もうこの世のことに悩まされることのないすばらしい日がやってくるのだと悲しげにわれとわが身に言いきかせて、わずかに自ら慰める。

これが、聖と俗とは反対のものだという昔からある考え方である。たいていのキリスト者はこの罠にひっかかっている。彼らはこの二つの世界の要求をうまく調整することができない。彼らは二つの国の間にぴんと張られた綱の上を歩こうとする。そしてそのどちらの国にも平和を見出すことができない。そのために、彼らの力は減少し、人生観は混乱し、喜びは奪われてしまう。

このような事態は全く不要なものだと私は信じている。たしかにわれわれは板挟みになっているけれども、その板挟みは現実には存在しないのだ。それは誤解が生んだものなのだ。聖俗の対立は新約聖書には全然基礎を持っていない。キリスト教の真理をもっと完全に理解すれば、われわれは必ずこの板挟みから救われるだろう。

主イエス・キリスト御自身が私たちの最も完全な模範である。分裂した生活は彼のあずかり知らぬところであった。彼は幼年時代から十字架の死に至るまでの地上の生活を、彼の御父の臨在の中に緊張を感ずることなく送られた。神はイエスがその全生活を献げられたのを受け入れられ、行為と行為の間に差別をつけられなかった。「わたしは、いつも神のみこころにかなうことをしている」この言葉は、御父との関係におけるイエスの生活を簡単に要約したものであった。人々の間を歩まれるときも彼は安らかに落着いておられた。彼が忍ばれた圧迫や苦難は、世の罪を負う者としての彼の立場から生じたものであって、道徳的不安とか霊的不調和の結果から起ったものでは決してない。

パウロの「すべて神の栄光のためにすべきである」という奨励は敬虔な理想主義以上のものである。それは神聖な啓示の本質的部分であり、真理の言葉そのものとして受け入れられるべきものである。それは私たちの生活における一つ一つの行為が、神の栄光のためになされ得るものであることを示している。パウロは私たちが臆病にもすべての行為を含めるのを恐れるといけないので、特に「飲むにも食べるにも」と言っている。この飲むことと食べることは、われわれが滅び行く動物とともに分ち合っているつつましい特権である。そんなに卑しい動物的行為でさえ神の栄光をあらわすためになし得るものとすれば、神の栄光をあらわすためにできないような行為は一つも考えられないことになる。

昔の敬虔な人々の書いたものの中によく見られる肉体に対する修道士的な嫌悪は、神の言葉の中に全然根拠を持っていない。普通のつつましさは聖書の中に見られるが、取澄ましや誤った羞恥感は絶対に見出されない。新約聖書は、私たちの主が受肉によって本当の人間の肉体をお取りになったのを当然のこととして受け入れており、この事実から生じてくるあからさまな意味を決して避けようとはしていない。イエスはその肉体をもってこの世の人々の間で生活されたのだが、聖くない行為をただの一度もなさったことはなかった。彼が肉体を持つ人間になられたという事実は、人間の肉体の中には先天的に神の嫌われる何かがあるという間違った考えを永遠に一掃してしまう。神が私たちの肉体を造られたのだ。このように責任の所在を明かにしたからといって、神を怒らせることにはならない。神はその御手の業を恥じてはおられない。

われわれが、人間としての力を悪用し誤用し濫用することこそ恥ずべきことである。罪の中に、自然に反して行われる肉体的行為は、決して神の栄光をあらわすことはできない。人間の意志が道徳的悪をもたらすようでは、われわれはもはや神によって造られたままの無邪気で無害な力を失ってしまっている。その代りにわれわれが持っているのは濫用され歪曲された力であって、それは創造主の栄光をあらわすことなどとうてい出来るものではない。

だが、私たちは今そのような歪曲や濫用がないものと仮定してみよう。悔改めと新生という二つの不思議な業がその生活の中に行われた、一人のキリスト者について考えてみよう。彼は今、聖書を通して神のみむねを理解し、それに従って生きている。このような人の場合、彼の生活における行為はすべて、祈祷や洗礼や聖餐式と全く等しく神聖である、あるいは神聖であり得る、と言えるだろう。そう言ったからとて、すべての行為を同一レベルに引き下げることにはならない。むしろ、それはすべての行為を生ける国にまで高めることであり、また全生活を聖礼典(サクラメント)に変えることなのだ。

もしサクラメントが内なる恩寵の外に表われたものだとすれば、われわれは右に述べたことを受け入れるのをためらう必要はない。私たちの全身全霊を神に献げる献身という一つの行為によって、私たちはその後のすべての行為が、その献身を表わすようにすることができるのだ。ちょうどイエスがお乗りになってエルサレムの町にお入りになったあのろばの子を恥じられなかったように、われわれも私たちの肉体を恥じる必要はない。なぜなら、それは人生の旅路においてわれわれを運んでくれるしもべなのであるから。「主がお入り用なのです」という言葉は、私たちの死ぬべき肉体にもあてはまる。キリストが私たちの心の中に住んでおられるなら、ちょうどあのろばの子が昔イエスをその背にのせて、人々に、「いと高き所に、ホサナ」と叫ぶことを得させたように、われわれも栄光の主を運びまつることができるのだ。

この真理が分ったというだけでは足りない。われわれが聖俗の板挟みの苦しさから逃れたいと思うなら、この真理が「われわれの血管の中を流れ」われわれの思想の様相を決定するまでにならなければならない。われわれは神の栄光のために生きようと決断し、また実際にそのように生きなければならない。この真理について冥想し、祈りにおいてしばしば神とこのことについて語り、人々の間を歩みながら常にこれを思い起すとき、この真理の持つすばらしい意味をわれわれは感じ始めるようになる。以前の苦しい板挟みは、生活の安らかな統一の前に消えて行く。私たちはすべて神のものであり、神は何物をも拒否することなくすべてを受け入れて下さると知るとき、われわれの内なる生活は統一せられ、すべてが私たちにとって神聖なものとなるだろう。

しかし、それでもまだ完全ではない。長い間の習慣はなかなか簡単には死なない。この聖俗対立の心理から完全に逃れるためには、知的な思索と多くの敬虔な祈禱が必要である。たとえば、一般のキリスト者にとって、毎日の労働がキリストによって神に受け入れられる礼拝行為としてなされることができるという考えは、理解しにくいかも知れない。あの古い考え方が時々彼の頭のうしろの方にあらわれて、彼の心の平和を乱すだろう。それに、古い蛇である悪魔は寝ころんでこれを見てはいない。悪魔はタクシーの中にも机の傍にも島にもいて、キリスト者に、自分は一日の時間の大部分をこの世のことに費し、宗教的義務に対してはごく僅かの時間しかさいていない、と思い起させるだろう。このようなときには、よくよく注意しないと、頭は混乱し、心は落胆のために重くなる。

このような場合に敵に勝つ唯一の方法は、積極的な信仰を働かせることである。われわれは私たちのすべての行為を神にささげ、それを神は受け入れて下さると信じなければならない。それから、毎日毎晩毎時のすべての行為が、その信仰に含まれているのだという断固たる立場に立たなければならない。独りで祈るときに「しもべの行為はすべてあなたの栄光のためにしたいと願っています」と絶えず神に申し上げ、さらにその祈りを補足するために、生活のための仕事をしながらも幾度となく心の中で祈るのである。すべての仕事を祭司の務めに変えるすばらしい術を学ぼうではないか。神が私たちの単純なすべての行為の中におられると信じ、そのような行為の中に神を見出すことを学ぼうではないか。

今までわれわれが論じてきた誤りに附随しているもう一つの誤りは、この聖俗対立論を場所に適用することである。私たちが新約聖書を読んでいながら、しかもある場所が他の場所よりも本来神聖であると信じるのも驚くにはあたらない。この誤りは非常に広く行きわたっているので、それと戦おうとするとき、孤軍奮闘の感をまぬかれないほどである。それは一種の染料のようなはたらきをして、宗教家の思想を染めたばかりでなく、彼らの目をも着色してしまったので、その誤りを発見することはほとんど不可能なのである。新約聖書のすべての教えがその反対を示しているにもかかわらず、それは幾世紀もの間言われまた歌われたばかりでなく、キリスト教の教えの一部として受け入れられた。しかし、キリスト教は絶対にそんなことを教えてはいないのだ。私の知る限りでは、ただクェイカー教徒だけがこの誤りを見抜き、大胆にそれを暴露している。

これに次のような事情があったのだと私は思う。四百年の間イスラエル人はエジプトに住み、徹底的な偶像崇拝にとり囲まれていた。モーセの手に導かれて彼らはついにエジプトの国を出、約束の地をめざして出発した。彼らには聖という観念が全く失われていた。神はこれを正すために、根底から始められた。神は御自身を限定して雲や火の中にあらわれ、その後、幕屋が建てられると神は火のごとき御姿で至聖所に住まわれた。神は無数の区別立てによって聖なるものと聖ならざるものとの相異をイスラエルに教えられた。聖なる日、聖なる器、聖なる衣服などがあった。洗うこと、犠牲および各種の供えものがあった。これらの方法によって、イスラエルは神聖であることを知った。神が教えようとされたのはこのことであった。物や場所の聖さではなく、エホバの聖なることこそ彼らが学ぶべき教えであったのだ。

それから、キリストが現われなさる大いなる日が来た。彼は直ちに言い始められた、「昔の人々に・・・・・・・・と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う」旧約聖書の教育はもうすんだのだ。キリストが十字架上になくなられたとき、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。至聖所は信仰によって入ろうとするすべての人のために開かれた。人々はキリストの言葉を思い出した。「あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。・・・・・・・・まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」

その後ほどなくして、パウロはこの自由の叫びを受けつぎ、すべての食物は潔く、すべての日は聖なる日であり、すべての場所は神聖であり、すべての行為は神に受け入れられるものであると宣言した。時や処を聖なるものとすることはイスラエル民族を教育するのに必要な薄明りであったが、霊をもってする礼拝という光耀赫々(かくかく)たる太陽の前にそれは消え去ったのである。

礼拝の本質は霊であるという真理はしばらく教会に属していたが、やがて年月の経過と共に次第に失われて行った。すると、堕落した人間の心の中に自然にある律法主義が、昔のいろんな区別をまた持ち出して来た。教会は再び日や月や季節をまもるようになった。特定の場所が選ばれて、特別な意味で聖いものとされるようになった。ある日と他の日、またある場所と他の場所、またある人と他の人、との間にそれぞれ区別が設けられるようになった。「秘蹟」ははじめ二つであったが三つになり、次に四つになり、ローマ・カトリック教の勝利とともに七つに決められた。

どんなに間違った道を歩いているキリスト者であってもその人を傷つけるようなことを言うのは私の望むところではないから、愛をこめて言うのだが、ローマ・カトリック教会は今日、その論理的帰結にまで到達したあの聖俗対立の異端説を代表している。その致命的な結果はそのために宗教と生活が完全に分裂してしまうことである。その教師たちはたくさんの註釈やおびただしい説明によって、この罠を避けようと試みているが、論理に対する心の本能の方がはるかに強い。実際の生活において、この分裂は事実となってあらわれている。

この束縛からわれわれを解放するために、改革者たちや清教徒たちや神秘家たちは努力してきた。今日、保守的な人々は再びあの束縛に帰ろうとする傾向にある。馬は燃える建物の中から助け出された後、妙な強情さから助けてくれた人を振りはなし、再び燃える建物の中にとびこんで焼け死ぬことが時々あると言われている。誤謬に対するそのような頑固な性向のために、今日の根本主義(ファンダメンタリズム)は霊的奴隷制に復帰しようとしている。日や時をまもろうとする傾向は、われわれの間でだんだん強くなってきている。「四旬節(レント)」とか「受難週」とか「聖金曜日」とかいう言葉が、福音的キリスト者の口からますます多く聞かれるようになってきた。いつになったら頭痛の種がなくなるのだろうか。

私の言っていることが正しく理解され、決して誤解さされることのないように、私が議論してきた教え、つまり、毎日の生活が聖礼典(サクラメント)であるという教えの持つ実際的な意味を、はっきりさせておきたいと思う。それの積極的な意味に対比させるために、それが意味しないものを二三挙げてみよう。

たとえば、それは、われわれがすることはみなわれわれの他の行為と同じ重要さを持つということを意味しない。善人の生活における一つの行為は他の行為と重要さにおいて甚だしく異るかも知れない。パウロが天幕を修繕したことは、彼がローマ人への手紙を書いたことと同等ではない。しかし、その二つの行為はどちらも神に受け入れられ、またどちらも本当の礼拝行為であった。むろん、魂をキリストに導くことの方が、庭に草木を植えることよりも重要である。だが、庭に草木を植えることは魂を獲得することと同じ聖い行為でありうるのだ。

また、それは、すべての人が他の人と同じに役に立つということを意味しない。キリストのからだにおける賜物はいろいろちがっている。教会および世界に対する単なる有用性という点から、ビリー・ブレイをルターやウエスレーとくらべてはならない。だが、少しの天禀(てんぴん)を持った兄弟の奉仕は、多くの天禀を与えられている兄弟の奉仕と同等に潔いものであり、神はその両方を等しくよろこんで受け入れて下さるのだ。

「平信徒」は彼の地味なはたらきが、牧師のはたらきよりも劣っていると決して考えてはならない。それぞれ神に与えられた職業に従事したままでよい。彼の仕事は牧師の仕事と同等に神聖なのだ。人がする仕事によってその仕事が神聖だとか世俗的だとか決まるのではない。何のために働くかによって決まるのである。その動機がすべてである。人がその心において主なる神を礼拝するなら、その後に彼がすることは一つとして平凡な行為ではありえない。彼のすることはみな善であり、イエス・キリストによって神に受け入れられるのだ。このような人にとっては、生きること自身が聖礼典であり、全世界が聖所である。彼の全生活が祭司の奉仕となる。彼がこの決して簡単ではない仕事を遂行するとき、彼はセラピムが「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ」と呼びかわしている声を聞くであろう。

主よ、私は完全にあなたにお委ねしたいと思います。全くあなたのものになりたいと思います。あなたを万物の上に高めたいと願っています。あなたのほかには何も所有したいという気持が起らないようになりたいと望んでいます。私を覆っておられる臨在を常に意識し、あなたの語る声をたえず聞きたいと思います。私は誠実な心をもって安らかに生きて行きたいと願っています。私のすべての思いがあなたのみもとに昇ってゆく芳しい香りとなり、私の生活のすべての行為が礼拝行為となるように、聖霊に満たされて生きたいと思います。ですから、私はあなたの昔の大いなるしもべの言葉を借りてお祈りいたします。「わたしがあなたを全き愛をもって愛し、あなたを讃えるにふさわしい者となれるように、あなたの言いつくせないめぐみの賜物によって、わたしの心の思いをきよめてください」私はあなたがあなたの御子キリスト・イエスのいさおしのゆえにこれらすべてのことをかなえて下さることを固く信じています。アーメン。


【奥付】
日本アライアンス教団の依頼により発行せられし書
Published for the Japan Alliance Church

神への渇き ©1963
昭和33年3月20日 初版 ¥ 200
昭和38年4月10日 3版

著者 A・W・トゥザー
訳者 柳生直行 
発行者 いのちのことば社
東京都杉並区永福町 346
※ 落丁・乱丁おとりかえします。

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