PRAYING HYDE
フランシス・A・マッゴー著
FRANCIS A. McGAW
瀬尾要造訳
いのちのことば社
17.変えられた人々
ひとりの婦人宣教師の生涯と奉仕にどのような影響を与えたかを見ましょう。彼女は長年その教区で熱心に働きましたが、これという結果を見ることができませんでした。ある日、彼女はハイドの祈りの生活についての記事を読み、神のことばと御旨を学ぶため、祈りと神を待ち望むことに自分の最良の時間をささげる決心をしました。彼女は祈りを第一とし、それまでしてきたように第二にすることはありませんでした。彼女は神の力によって祈りの生活を始めました。神は彼女に語られました。「わたしを呼び求めよ。そうすれば、わたしは、あなたの理解を越えた大いなることをあなたに示そう。あなたはわたしに呼び求めなかったから、これらのことをあなたの働きの中に見ることがないのだ。」彼女はしるしています。「私はどのような犠牲を払っても、主を知り、この祈りの生活を実現しなければならないと感じました。そしてついに心中の戦いはやみ、勝利を得たのでした。」彼女が祈った一つのことは、神が彼女を隠しておかれるようにということでした。彼女が小羊に従う者であろうとするなら、誤解されることがあっても、黙して、自己弁護のために口を開いてはならないのです。
一年足らずして彼女が書いた手紙を見ると、ああ、何という変化でしょう!至る所に新しいいのちが――。荒野は花園と変わりつつありました。最初の年に十五名が、そして翌年の前半には百二十五名の大人がバプテスマを受けたのです!
「その年のほとんどは、決意を持続させるために戦いました。私はそれまで、非常に活動的な生活をし、一日中、決められた仕事を着実にこなすことを習慣づけてきました。けれども私の新しい生活は、祈りと聖書研究にその日の最良の時間の多くを要求しました。それが、その当時、また時には今でも、どんなに困難であるか想像できるでしょうか。ほかの人たちが奉仕のために懸命に奔走していることを聞きながら、私は何もしない人のように、自分の部屋で静まっていたのです。たびたび私は、多忙な生活を送っている人々の間で懸命に働きたくて、もう一度外に出たいと切望しました。しかし、神様はそれをお許しになりませんでした。神様の御手が、人の手でするように現実に私をとらえていましたから、私は出て行くことができないとわかっていました。先日も私は、再びこのことを感じました。そして神様が私に、『あなたは、今では恥じていることの中で、どんな実を結んだというのか』と言っておられるように思えました。そうです、私は、ほとんど祈らなかった長年の宣教師生活を恥じているのです。
働きの各部門は今や、これまで見てきたよりも好況を呈しています。重圧と緊張感は私の生活から取り除かれました。一方には交わり、他方には働きと、うまく生活のバランスがとれていると感じる喜びは、絶えることのない安息と平安をもたらします。もう以前の生活に戻ることはできません。また神様はそのようなことを決してお許しになりません。」
年を越してから、彼女は再びしるしています。
「熱心な求道の精神が村々で高まっており、かつて経験したよりも大きな変化が将来に起こる十分な見込みがあります。今やクリスチャンの数は二年前(彼女が祈りの生活を始め、それに専心する前)に比べ、六倍の六百名です。私は、まもなくインドに大きなことを見るにちがいないと信じています。絶えることのないご臨在と交わりのゆえに、主をほめたたえます!」
イリノイ州にある教会の牧師はこうしるしています。
「私たちは、ひとりの強く高潔な兄弟を失いました。彼は主の働きを遠方の地でなしただけでなく、私たちにも同様の霊感を与える人でした。少なくとも、この教会からひとりの姉妹が外国伝道への関心を与えられ、今では中国で奉仕しています。」
インド、英国、アメリカにおけるジョン・ハイドの影響力ははかり知れません。
「J・N・ハイドはその父親に似ていました。職分が命じるとき、それはのっぴきならぬものでした。彼は大々的に宣伝したり、また騒ぎ立てたりしてそれをするのではなく、それをするか、あるいは死か、という不変の決意をもって行動しました。神のご計画には、それをすることも、また死さえも含まれているように思われました。神学校時代の級友にあてた最後の手紙の中で、彼はしるしています。『丸三年間、私たちが教区に出て行くとき、神は毎日、決心者や受洗者を与えてくださいました。過去二年間に千人以上も・・・・。もし私たちが神と正しい関係にあるなら、たましいが得られない日はありません』と。「多くの者を義とした者は、世々限りなく星のようになる。』この古き世界に、失われた者を捜して救うことよりほかに、やりがいのあることはあるでしょうか」(ヘリック・ジョンソン)。
「アメリカの一少女の苦闘と降伏」を書いた、インドにいる一宣教師がしるした以下の体験談を読んでください。
「インドにある私の部屋の壁に一枚の標語カードがかかっています。それは、あちこちに草の生えた、石の多い丘の絵です。丘の頂に一本の木があります。片側は風のため、枝がすっかり吹き折られ、反対側は、やせこけた大枝がわずかに残っているにすぎません。このカードには、「忍ぶことができないように見えるときにも忍びなさい』ということばと、『彼は、目に見えない方を見るようにして、忍び通した』というみことばが印刷されています。
年若い親友がこのカードを見て私に言いました。「奥さん、この標語カードは、奥さんの写真のように思えます。神様は奥さんの生涯から、次から次へと枝を切り取り、地上の支柱を何度も取り去られました』と。」
彼女とその夫は、インドに来て最初の一年間は大変幸福でした。しかし、行く手には暗い影がさしていました。翌年、神はかわいい子供をお与えになってまもなく、お取り上げになりました。最初から彼女の夫は、どんな犠牲を払うことがあっても御霊に満たされることを神に求めました。しかし、最初のうち、彼女にはこの祈りができませんでした。赤ん坊が召されてから、彼女は夫と共にこの祈りをしましたが、祈りが終わると、「でも、ああ、これからどうなるのかしら」と言うのでした。次に、夫が熱病にかかりました。彼女はどんなに神に請願い、祈り、また神に命じるようなことさえしたでしょう。しかし、彼は召されてしまいました。数か月の間、彼女はぼうぜんとした状態で、言いようのない損失だけを思い続け、それ以外のことは何もかも忘れてしまったようでした。それは彼女にとって最も暗い年でした。
しかし、春になって神はひとりの使者を遣わされました(それは、ジョン・ハイドが多くを学んだレジナルド・スタッドでした)。彼を通して神は、神の子供たちひとりひとりにとって、ご自身がすべてのすべてとなられ、第一のお方となり、彼らの心の友となることを望んでおられることをお示しになりました。
キリストがこの人の生涯を占有しておられました。キリストは彼にとってすべてであり、最愛の友、いいえ、はるかにそれ以上のお方でした。彼のいのちはキリストのうちに置かれていただけでなく、キリストこそ彼のいのちそのものでした。彼は友と交わるように、主と何時間も親しく交わったので、彼の内なるものはキリストの絶え間ないご臨在によって輝き、彼が行く所どこにおいても「キリストが表されました」。
このキリストの使者と出会ってまもなく、彼女はさらに語っています。
「献身の思いを書き表して、私は、私自身、私の子供(夫の死後まもなく生まれた)、私の持っている、また持とうとするすべてを、永遠に主のものとするべくおささげしました。それは無条件の降伏でした。こうして聖霊は十分に臨まれ、私を愛と喜びと平安とに導かれたのです。それは、私が長い間切望していた愛と喜びと平和にまさるものでした。私の心には深い静けさが臨みました。神様のみことばは驚くべきほど豊かに開かれ、たましいの糧となったのです。
その後も、私は何度も分かれ道に立たされました。一方は、普通のクリスチャンの道、他方は、救い主の足跡の血痕が見えるように思われる道でした。そして主は、ほふられた小羊である主に従うよう私を招かれたのです。それは十字架の道でした。しかし同時に、キリストとの交わりをも意味しました。」
彼女はさらに、全くキリストのものとされた生涯を示してくれた、神がパンジャブに遣わされたあの「使者」についてしるしています。
「彼が祈りについて語ったかどうか覚えていませんが、とにかく彼は祈りました。時には一日に四、五回話し、そうすると祈りのためには、時にはひとりで、時には他の人と共に、半夜を費やすのでした。とにかく彼は祈ったのです。」
彼女は、神が彼女を通してどれほど大きく働かれたかを、謙遜にほのめかしています。時には回教徒の間で、時にはその地のヒンズー教徒の間で、時には外国宣教師の間で、神は彼女を通して働かれました。彼女はパンジャブ祈禱同盟、およびシャルコット聖会にかかわっていました。
彼女は言っています。「自我が神様をさえぎるとき、多くの失敗がありました。私の失敗にもかかわらず、神様があのように不思議な方法で働かれ、みわざを拝する喜びを与えてくださったことは、もっともっと驚くべきことです。」
さらに続けています。「神様は、望む者すべてを、幕の内側のひそかな所、最もうるわしい隠れ家に導かれます。そこは『すべてが平安に満たされ、静けさが宿る所』です。」
幕の内側。愛する者よ、これこそあなたの受ける分
あなたの主のひそかな所にとどまり、彼を見つめよ
あなたの顔が彼の栄光を
あなたの生活が彼の愛を
あなたの口が彼のほまれを告げるまで
幕の内側にとどまろう
彼のたぐいなき美しさを見つめるときのみ
その偉大な愛の御旨をあかしし
かつて聞いたことのない恵みを示す
生ける啓示となるのだから
幕の内側にとどまるならば
彼のかぐわしい香りが注がれて
幕の外に出ていくならば
その香りは人々に散らされる
幕の内側で彼の手は妙なる音楽を奏で
地に主への賛美を響かせる
私が少年のころ、家の近くに池がありました。私はよくその池のほとりに立ち、石を投げては、波紋が中心からだんだん広がり、池の全面が揺らぐのをながめたものです。波紋は私の足もとにまで達し、どの入江や小さな水路も、この波紋によって波立ちました。
シャルコットは円を描き始め、祝福の波は今もなお、多くの人々の心の奥底の隠れた所や入江にまで打ち寄せています。そして私は、その池の水の原子や分子のすべてが、石の衝撃を感じたと信じるようになりました。ただ神と記録係の御使いだけが、シャルコットの祈禱室で聖霊によって生み出された驚くべき祈りの力によって、どのようにキリストのからだ全体が動かされ、益を受けたかを正確に知ることができるでしょう。
インドの牧師、教師、また伝道師たちは、イエス・キリストのための新たな熱意を持ってこれらの聖会から帰任し、その多くの働き場で、数千の人々に感化を与えました。
宣教師たちは、神からの幻を見て、その生活が深められました。手紙や印刷物は、ちょうどパウロが身に着けていた手ぬぐいや前掛けのように、気落ちした心にいやしを与え、祈りの生活に入りたいと願っている人々に導きと励ましを与えるため、おそらく世界各国に送られました。私は、あのシャルコットにおける、たましいのための生みの苦しみによって、数万の人々が新しく生まれて神の国に入ったことを確信しています。いつの日か、無数の人々が立ち上がって、北インドで二、三の人々が主の御名によって「シャルコットで聖会を開こう!」と言ったことを神に感謝するでしょう。
18.再び英国へ
ハイドが集会のためにカルカッタを訪れたのは、一九一〇年のシャルコット聖会に続く秋か冬のことでした。翌年の春、すなわち一九一一年三月、彼は医者に言わせるなら「瀕死の人」になって帰国の途につきました。彼がインドに来たのは、二十年足らず前の、一八九二年の秋でした。しかし、それは、見事な十九年間でした!
彼は英国に到着すると、のちにケズィック聖会に出席するつもりで、まずウェールズの何人かの友人を訪ねました。ウェールズ滞在中、彼は、世界巡回伝道の途上にあるJ・ウィルバー・チャップマン博士とチャールズ・M・アレクサンダー氏がシュリューズベリーで集会を持っていることを耳にしました。ハイドはふたりの友人と共に、この伝道会の初日に訪れました。三日間の滞在中のことを、ひとりの友人がしるしています。
「私たちはその集会で非常に恵まれましたが、そこに何か大きな障害があること、特に教職者の会合においてそれを感じました。
その伝道会ののち、私たちはハイドが非常な重荷を持っていることを知りました。翌日、出発しようとしたとき、彼はもう一週間ホテルの部屋を借りられるかどうかを尋ねました。彼は聖日はほかの所で説教していましたが、月曜の朝早く戻って、シュリューズベリーのために重荷を持って祈ろうと考えていました。彼を知っている者たちは、大きな重荷が彼にかかっていることがわかりました。遠くを見つめた目、心からの憂いに苦しみ悩む顔、食欲の喪失、不眠の日々。これらはみな、そのことを証明していました。」
以下はチャップマン博士の手紙です。
「世界を巡る長い伝道旅行中、神は恵み深くも私たちと近くいてくださいました。その中でいくつかのことを学び、信仰を強められました。まず、今まで以上に、信頼すべき神のことばとして聖書を信じること。
次に、かつてなかったほど祈りを信じることです。私は祈りについて、いくつかの大きなことを学びました。私はすべての大リバイバルが祈りの産物であることを知っています。英国におけるある伝道会は聴衆がきわめて少なく、結果を期待することは不可能に見えました。が、アメリカの一宣教師がこの町に来て、神の祝福が私たちの働きの上にくだるよう祈ろうとしている、との手紙を受け取りました。彼は『祈りのハイド』として知られていました。ただちに、と言ってよいほど形勢は一変しました。会場はいっぱいになり、私の最初の招きに応じて五十名がイエス・キリストを受け入れました。
私たちがその地を去るとき、私は『ハイド先生、どうぞ私のために祈ってください』と彼に言いました。彼は私の部屋に入り、ドアに鍵をかけ、ひざまずき、ひとことも言わず、五分の間、待ち望むのでした。自分の心臓の激しく打つ音、そして彼の心臓の鼓動までもが聞こえるようでした。私は熱い涙がほおを伝うのを覚えました。そして、神と共にあることを知りました。それから彼は、涙が流れ落ちる顔を上に向けて、『ああ、神様!』と祈りました。そして少なくとも五分間、再び静まりました。こうして、自分が神と語っているということを知ると、彼は腕を私の肩に回し、私がこれまでに聞いたことがないような、心の奥底からの、人々のための嘆願がなされるのでした。私は真の祈りとはどのようなものであるかを知って、祈りの座から立ち上がりました。私たちは、祈りには力があることを信じ、また、かつてないほど祈りを信じるものです。」
チャールズ・M・アレクサンダー氏は、ハイドの姉妹メリーに、この集会についてさらに詳しく話しました。それによると、チャップマン博士がジョン・ハイドと会っただけでなく、アレクサンダー氏もその場に居合わせました。この三人は、その集会のために、丸一日使って相談しました。それから、他の奉仕者たちも呼ばれ、長時間、祈りがささげられました。その後、御霊が非常な力をもってその集会に臨まれたので、いっさいの障壁はくずされ、罪人たちはあわれみを呼び求め、そしてことごとく救われるに至ったのです。
ハイドは、ポケット聖書同盟のデービス氏という、とりなしの祈りにおける同労者を得ました。ふたりは意気投合し、大変親しくなりました。
ハイドはそこに丸一週間滞在し、その後、ウェールズの友人たちのもとへ帰りました。翌日、彼の容態はひどく悪化し、ものを言うのも困難になりましたが、彼はほほえみながらささやきました。「シュリューズベリーの重荷は非常に重いものでした。けれども、私の救い主の重荷は、主を墓にまで連れて行ったのです」と。
さきの引用の中にもあったハイドの祈りの態度嘆願を言い表す合間に沈黙することについては、他の人もしるしています。
「『祈りのハイド』はぴったりと地面に伏して祈りました。これこそ彼の好む祈りの姿勢です。聞いてごらんなさい。彼は祈っています。声を出して嘆願し、待ち望みます。しばらくしてそれを繰り返し、また待ち望みます。こうして、その願いが私たちの性質の隅々にまで浸透し、神がそれを聞いて必ず答えてくださると確信するまで、このことを何度も繰り返すのです。神に満たしていただくために、私たちの口を大きくあけるよう(詩篇八一・一〇)、彼はいくたび祈ったことでしょう。私は彼が、『大きく」ということばを、長い休止の間に何度も何度も繰り返したのを思い出します。『大きく、主よ、大きく、大き返したのを思い出します。『大きく、主よ、大きく、大きくあけたまえ、大きく。』彼が『おお、父よ、父よ』と神に祈るとき、それは何と力強く響いたことでしょう。」
数年の間、インドで宣教師として働いていたある婦人は、「思い出の人物」について次のようにしるしています。
「忘れもしません。ジャブルポアー聖会中の正午祈禱会で、私は彼の近くにひざまずいていました。彼が『イエス様――イエス様――イエス様!』と祈りのうちに嘆願するとき、私は形容しがたい感動に包まれたことを決して忘れないでしょう。それは、まるで愛と力のバプテスマを受けたようでした。私のたましいは、主の御前でちりに伏させられたのです。私はハイド氏と英国でもう一度お目にかかることを許されましたが、それは彼がアメリカに向かう途中のことでした。彼から受けたものは、今なお私の中に生きています。」
19.ついにわが家へ
目的の地に着くとき
途上の労苦はみな忘れ去られよう
ジョン・ハイドは一九一一年八月八日、ニューヨークに到着すると、すぐにニューヨーク州のクリフトン・スプリングスへ行きました。それは、インドを立つだいぶ前から非常に苦しめられていた激しい頭痛を取り除くためでした。腫瘍はすでに広がり、手術したときは悪性になっており、今の医学ではまだ治療の道がない肉腫であると医者は宣告しました。彼は手術を受けたあと持ち直し、十二月十九日に姉妹(マサチューセッツ州ノーサンプトンのE・H・メンセル教授夫人)のもとに行きました。
しかし新年早々、彼は背中とわき腹に痛みを覚え出しました。彼はそれをリューマチだと思いましたが、医者にはそれが恐ろしい肉腫の再発であることがわかりました。
ハイドは一九一二年二月十七日に世を去りました。彼のなきがらは、彼の兄弟ウィル・ハイドと彼の姉妹メリーによって、イリノイ州カルセージのなつかしい家に引き取られ、彼の父が十七年間牧会した教会で葬式が行われました。ジョンの葬式の説教者は、彼の級友で母教会の牧師でもあるJ・F・ヤング師でした。幸いにも私はその式を助け、講壇に立ち、棺の中のあのなつかしいなつかしい顔を見おろしました。彼は非常にやつれてはいましたが、それは私が一九〇一年に最後に彼に会ったときと同じようにやさしい、平和に満ちた、温和の中にも強さのある、りりしい顔でした。
二月二十日、モスリッジ墓地に私たちが彼を、その父、母、兄弟エドモンドのかたわらに静かに横たえた日は、曇った、冷たい、陰うつな日でした。しかし、私は知っています。やがて雲も影も消えうせ、墓の冷たさと陰うつさとは追いやられ、あの祈りと賛美の人は、よみがえられた神の御子にかたどられて現れ来ることを。
20.主に対して聖なる者
注意深く、また祈り深く、親愛なる私の友の生涯にあったさまざまな事実、出来事、経験に目を通したとき、私はジョン・ハイドの一つの偉大な特徴は聖潔であるとの印象を受けました。ここでは、彼が祈りに満ちていたことを取り上げようとは思いません。それは、祈りは彼の一生の仕事だったからです。また、ことさら彼の救霊の働きに注意を促そうとも思いません。彼の救霊者としての力は、彼がそれにあずかったキリストのご性質に帰すべきものですから。「聖くなければ、だれも主を見ることができません」(ヘブル一二・一四)と神は言われます。ですから私たちは聖書にそって、きよくなければだれも大救霊者となることはできない、と言うことができるでしょう。ハイド自ら次のようなことを言いました。「自我はただ死ぬだけでなく、見えないところに葬られなければならない。なぜなら、葬られない自我のいのちの悪臭は、人々をおびやかしてイエスから追い払うだろうから。」
ジョン・ハイドが自分自身の聖化の経験を多く説いたとは思えません。しかし、彼はきよめられた生活を送りました。彼は生活を通して語っていたのです。彼が祈りについて多くを語らずに、ただ祈ったのと同様に。彼の生涯は、イエスの血がすべての罪からきよめる力があることのあかしでした。
いろいろなところから私のもとに届いた以下のあかしをお読みください。さらに詳しく調べれば、この愛されたキリストのしもべ、また祈りの人についてなされた、聖徒としての数々のあかしを見いだすにちがいありません。
この国の出版物には次のようにあります。
「オックスフォードの監督は個人的聖潔についてこう語っている。『この世には、個人的聖潔の力ほど抑えがたい力はない。ひとりの人の才能は、好機に恵まれぬこともあろうし、努力が誤解されたり、反抗されたりすることもあろうが、聖別された意志の霊的な力は、好機を必要とせず、閉ざされた門戸にも進み入ることができる。人の世の、この奇妙で煩雑なつとめにおいて、いっさいの利己主義を断ったひとりの人物からくる、神秘的、無意識的で、静かで慎み深い、はかり知れない影響力ほど、着実にわざをなす力はない。そして、ここにジョン・ハイドの神秘的な力と偉大な影響力とがある。御霊に満たされたときに彼がささげた祈りによって、多くの人々が神の前にひざまずかせられてきた。』」」
次の文章は、ハイドの姉妹にあてられた手紙からの引用です。
「もしこれまでに、自分を忘れて主のご用のために献身した神の人があったとすれば、あなたのご兄弟こそ、その人でした。」
あるインド人は言っています。
「時々、ハイド先生の霊性があまりにも偉大で驚くべきものでしたから、だれでも彼を見る者は驚異の念に満たされました。」
インドにいる宣教師は次のように言っています。
「彼を失ったことは、この国で、特にインドのクリスチャンの間で哀悼されるでしょう。彼は、私が出会った人たちの中で、最もきよい人のひとりでした。彼の生涯は大きな影響力を持っていました。」
彼の級友はこうしるしています。
「聖潔という点において、教会の聖徒でこれまで彼をしのぐ人はいませんでした。彼は真実、自分のいのちをキリストとインドのためにささげました。」
インドにいる別の宣教師はこうしるしました。
「彼は、キリストのものとされた祈りの生活を私たちに見せてくれました。彼は、親しい友と語り合うように、キリストと共に数時間を過ごしました。彼の内なるものはキリストの絶え間ないご臨在によって輝かされ、彼の行くところどこでもキリストが啓示されました。」
「インディアン・ウィットネス」誌は伝えています。
「彼はインドの教会に非常に顕著な感化をもたらしている。昨年の晩秋に彼がシャルコット聖会でなした説教は深い感動を与えた。彼はウルドゥー語パンジャブ語、そして英語を使いこなす説教者であった。その説教が真にメッセージとなったのは、その説教の背後に、常に聖潔と力の人がいたからである。」
また別のインド在住の宣教師はしるしています。
「彼は神の真の預言者となりました。彼は確かに神の代言者でした。彼がみことばから神の御霊によって教えられたことを、ゆっくりと、静かに、そしてはっきり語るとき、用心深い人々も、一日に数時間座して、彼の驚くべき真理の説き明かしに耳を傾けるのでた。」
彼のことばが預言者のことばであったばかりでなく、彼の生涯は真理によって聖別されていました。ある日、ひとりの宣教師が、ハイドと知り合いのインド人の青年と話していました。そのとき、この青年は言いました。「ねえ、先生、私にはハイド先生が神様のように思えるのです」と。彼のことばは当たらずとも遠からずでした。インド的理解ではわからないために、その青年にとって、ハイドは神の化身と思われたのでした。ハイドがニューヨーク州のクリフトン・スプリングスに滞在中、一九一一年九月二十七日の日付で姉妹に送ったハガキから引用しましょう。「ベッドや車椅子で心地よい安息を与えられて、多くのとりなしのご用をしています。個人的な働きの機会はいくらでもあります。何と聖潔の輝きが、主イエスのすべてのことばとわざの中から照らし出されていることでしょう!」そうです、私たちは心から、うやうやしくこう言うことができます。「何と聖潔の輝きが、ジョン・ハイドのすべてのことばとわざの中から照らし出されていることでしょうか!」と。
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