2023年11月3日金曜日

オースティン・スパークス、『わたしたちが一つであるように・・・』第38回会合

セオドア・オースティン・スパークス
『わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるために』
That They May All Be One, Even As We Are One.

会合38、『主のいのちが全ての基である』
Meeting 38 - Life is the Basis of Everything

第38回会合
(1964年3月7日午後)

ヨハネの手紙第一に目を向けます。この手紙についてお話しするのは今夜が最後になるので、最後の章に入りたいと思います。第5章の9節から13節です。

『もし、私たちが人間のあかしを受け入れるなら、神のあかしはそれにまさるものです。御子についてあかしされたことが神のあかしだからです。神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています。神を信じない者は、神を偽り者とするのです。神が御子についてあかしされたことを信じないからです。そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。』

これがあかしであり、あるいは、昨夜も言ったように、これが証拠です。この最後の章で、この使徒は、この手紙に書いてきたことをまとめています。これまで述べてきたように、ヨハネがこの手紙を書いたのは、多くのキリスト教たちの信仰が揺らいでいたからです。神に対する彼らの信仰が揺るがされていました。そして、神の子としてのイエス・キリストに対する信仰も揺らいでいました。そこでヨハネは、信者たちの信仰を確かなものにするためにこの手紙を書きました。だからこそ彼は、これこそが証拠であると書いています。これが、まず神について、そして、神の御子イエス・キリストについてのあかしです。そして、このあかし、または、証拠は信者の内側になければならないと、彼は言っています。そして、ここに二つの要素があると彼は書いています、『そのあかしをあなたがたはわかることができます。』これが、今、私たちが読んだところです。これが神が御子についてあかしされたことであり、私がこれらのことを書いたのは、あなたがたによくわからせるためです。あかしとは何でしょうか。私たちがわからなければならないこととは何でしょうか?その答えはひとつのことばにあり、その言葉とは、『いのち』です。『神が御子についてあかしされたそのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。私があなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。』つまり、その証拠は、永遠のいのちと呼ばれるものを私たちが持っていることにあります。今晩は、時間をかけて、この『いのち』という言葉をじっくり考えてみたいと思います。

信者である皆さんのほとんどは、自分には永遠のいのちがあると信じていることでしょう。主イエス様を自分の人生に受け入れるようになったとき、永遠のいのちと呼ばれるものが与えられたと、あなたがたは信じています。

さて、主イエス様の真の信者たちは皆、自分が永遠のいのちを持っていると信じています。しかし、私があなたがた信者の一人一人のところに行って、『あなたが受けたそのいのちとは何ですか?』と質問したら、何とお答えになりますか?私が今、あなたには永遠のいのちがあると信じているのだから、永遠のいのちとは何なのか説明してくださいと言ったらどうでしょう。そう、簡単には答えられないでしょう。その問いに答えるのは、なかなか難しいかもしれません。あなたは言うでしょう、『永遠のいのちあると信じているのは、主イエスを信じれば永遠のいのちが与えられると、聖書に書いてあるからです。でも、そのいのちとは何なのか説明しろと言われたら、残念ながら、それには答えられません。』あるいは、『永遠の』という言葉に下線を引いて終わりかもしれません。その上であなたは言うでしょう、『まあ、永遠のいのちとは、いのちが永遠に続くということかな。』もちろん、そのいのちは永遠に続きますがが、永遠のいのちの意味とは、死の後も続いてゆくというだけではありません。そこには、ずっと大きな意味があります。それは、生命がどこまで続くかという問題にとどまらず、いのちの性質という問題でもあります。これは特別な種類のいのちです。

土曜日の夜は、若者たちの夜で、ここにも大勢の若者が集まっています。皆さんに話しているあいだも、私は若い人たちのことを強く心に意識しています。ですので、この問題もできる限り単純に説明してみます。私たちは、こう問い続けています、『神が御子イエス・キリストの中に与えてくださったこのいのちとは何か?』この問いに答えるために、まずはある言葉に注目してみます。ヨハネは言っています、『私がこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。』この『わかる』という言葉から始めましょう。あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたがよくわかるため。永遠のいのちを持っていると、あなたがたが信じるだけでなく、あなたがたは永遠のいのちを持っていると聖書に書かれていると言うだけではなく、説教者が永遠のいのちについて説くだけでもなく、『あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたがわかるため』です。そして、このいのちはあなたの内にあり、あなたはそれが内にあることを知っています。

つまり、このいのち、この永遠のいのちは、まず何よりも、新しい意識ということになります。あなたは、自分の中で、永遠のいのちを得たことを自覚しています。あなたにとって、これは理論ではなく、教えでもなく、経験です。まず第一に、あなたは、『私は永遠のいのちを持っていることを知っている』と言うことができます。そのいのちとは何であるかという説明は、後からついてくるもので、私たちがそれを理解していないから、それを説明できないからと言って、私たちがそれを受けていないということにはなりません。

生まれたばかりの赤ん坊を見てみましょう。健康な赤ちゃんであれば、それがはっきりと生きているということは、誰の目にも明らかです。生きていることは、赤ちゃんが立てる音でわかります。腕や足をあちこち振り回す様子で、自分が生きていることを知らせます。とにかく赤ん坊は、自分が生きていることを知っており、赤ん坊が生きていることは、あなたにも分かります。生きていることを示す証拠はたくさんあります。

これこそが証拠です――『いのち。』さて、この永遠のいのちをいただくとき、生まれたての赤ちゃんと同じように、私たちは自分が何を受け取ったのか理解していません。それを言葉で説明することはできなくても、それを受けたことはわかります。私たちは、それまではなかった何かが、中に入ったことに気づいています。何か新しい強いエネルギーが私たちの中に入ってきました。それが私たちの意識を支配しています。誰かに尋ねられたら、私たちが言えることは、『説明はできないが、自分がそれを受けたことは知っている』というだけです。これがキリスト者としての人生の始まりです。以前にはなかったものが入ってきたという新しい意識、新しい知覚です。その証拠や証しは、私たちの中にあります。ヨハネは言っています、『あなたがたにわからせるため。』そして、真の信仰者であれば、『私は自分が永遠のいのちを持っていることがわかる』と言えるはずです。

それから、次の段階で、このいのちは私たちに新しい方向を与えてくれます。まず、新しい意識が与えられ、次に新しい方向が与えられます。このいのちにおいて私たちの中に入ってきた力が、私たちをある新しい方向に向かわせます。新約聖書でも、一般的な会話でも、私たちは、よく『改宗者』という言葉を使います。私たちは、救われた人のことを話すとき、「改宗した」と言います。イエス様も改宗者について話されました。では、改宗したとはどういう意味でしょう?改宗とは、簡単に言えば、向きを変えて、それまで進んでいた方向とは反対の方向に歩み始めることです。これまで、あちらの方角に進んでいたあなたが、今度は向きを変えて、こちらの方角に進むことです。それをなしてくれたのが、この主にあるいのちです。このいのちはこれまで歩いてきた向きを変えて、新しい方向を示してくれます。あなたがたどってきた古い道は、もはや過去のものとなりました。そして、あなたの前に伸びる道は、全く新しい道です。これが永遠のいのちに関する第二の事実です。もしそのようになっていなければ、私たちの改宗には何か問題があるということです。それは改宗ではありません。それは、言葉で宣言しただけです。

私は、救われたばかりの若者だったころを思い出します。若者のための大きなキリスト教団体がありました。今でもイングランドやアメリカで続いています。それは、『キリスト教徒献身協会(The Society of Christian Endeavor)』と呼ばれていました。そして、キリスト献身会に入会した若者には、外套やドレスにつけるバッジが与えられました。それは英語二文字でできた小さなバッジでした。クリスチャンを表すCと、献身を表すEの二文字でした。この二文字が銀色のバッジに組み合わされていました。若者たちは皆、そのバッジを付けていました。

ある日、そのバッジをつけた若者がいました。彼は道を通って、ある劇場にやって来たのですが、そこは非常に世俗的で良くないものを見せる劇場でした。彼はしばらく立ち止まり、それから劇場に入ろうと扉に向かって歩き始めました。扉の前に制服を着た大男が立っていました。そして、彼はこの若者を見下ろし、そのバッジを指差して言いました、『若いの、ここはお前が来るところじゃない。中に入りたければ、そのバッジを外した方がいいな。』この男の仕事を考えるとおかしなことですね。しかし、世に属するこの人は何がいけないのか、知っていました。世の人である彼は、キリスト者とは、この劇場に入るような人たちとは違うということを知っていました。この若者は自分の証しを否定していました。彼の外套には、金属でできた証しが付けられていました。外套に付けられた証しが許さないことを、彼はしようとしていました。そして、ご存知のように、世はこのようなことについて非常に賢明です。キリスト者とは人とは違っているべきであること、キリスト者は世とは違う道を歩むべきであることを、世は知っています。これは非常に単純な例ですが、神がキリストにおいて与えてくださるこのいのちは、私たちをある特別な方向へと導くものです。

実を言うと、今晩、方位磁石をひとつ持ってくるつもりだったのですが、忘れてしまいました。方位磁石とは何か、皆さんもご存じでしょうが、方位磁石は小さな時計のようなかたちをしていて、磁針がついています。どっちが北かを知りたければ、方位磁石を地面に置けば、この磁針は常に磁北の方向に動きます。こうして、方位磁石から方角を知ることができます。外からの干渉がなければ、方位磁石は極めて正確です。さて、若い皆さん、二つのことに注目してください。もし今晩、私が方位磁石を持って来て、この机の上に置けば、あとはその針を見ていれば、どっちが北の方角か分かります。方位磁石がなくても、どっちが北か、だいたいは分かると思います。私には、ここから見てどっちが北か、はっきりとは分かりませんが、どちらが北の方角かを知りたければ、方位磁石を見るでしょう。しかし、今、この状況では、方位磁石は嘘をつき、真実を語ってくれません。なぜでしょう?方位磁石をこの金属片の前に置いたせいで、この金属が針を北から遠ざけてしまうからです。方位磁石の針は、外部からの干渉を受けないようにしなければいけません。この金属の物体から針を離したら、針は真実を示すはずです。

この磁石のはなしは、私たちの内にある永遠のいのちを表現しています。私たちがキリストから受けたこのいのちは、常に一定の方向を向いています。それは、磁石の針のように、常に同じ方向へと動きます。そして、その方向とは、キリストです。その方向とは天国です。その針は、キリストでない全てのもの、この世に属するすべてのものから遠ざかります。このいのちを持っている人であれば、心の中で、主が何をよろこび、何をよろこばないかを知っているはずです。彼らの中にあるこのいのちこそが、何が正しくて、何が間違っているかを教えてくれます。もちろん、皆さんもご存じでしょう。あなたが真のキリスト者であり、このいのちが本当にあなたの中にありながら、ある日、何かで短気を起こして、いらだってしまうとします。そして、不親切な言葉を言ってしまいます。誰かに腹を立ててしまいます。その後で、あなたはどう感じるでしょう?幸せだと感じますか?これで、よかったと感じますか?あなたは自分が、内心ではとても嫌な気分であることに気づきます。そして、あなたの中の針はイエスを指さして、『自分が言ってしまったこと、自分がやってしまったことを主に告白しなさい』と語ります。そして、私たちが主イエス様のもとに行って、主の赦しを乞うまで、内なるいのちは沈んだままです。私たちの内にはいのちの証しがあり、このいのちの証しとは、ある方向のことであり、それは常に主に向かう方向です。それは、世から離れ、主へと向かっていくいのちです。それは上に向かういのちであって、下に向かういのちではありません。このいのちに関する第二の事実は、このように、私たちに新しい方向を示してくれるということです。

そして、このいのちについて、第三の事実があります。このいのちは、私たちの中に新しい力をもたらしてくれます。それは、前にはなかった力であり、それまでの私たちには、自分の力では止められないことがありました。それまでの私たちには、正しいことをする力がなかった。私たちはいつも間違ったことをしていました。いつも、間違ったことを言っていました。そして、誰かが、『そんなことをしてはいけない』と言っても、私たちには、『まあ、仕方がない、私はそういうふうに造られたのだ』としか言えませんでした。しかし、このいのちが入って来ると、それまではできなかったことができるようになります。使徒パウロは言いました、『私は、私を強くしてくださるキリストによって、どんなことでもできるのです。』このいのちは、私たちがそれまではできなかったことを可能にする新しい力です。それは勝利の力です。きよい生活をする力です。私たちの内で働く強い力です。このいのちは理論ではなく、現実の力なのです。

キノコというものを、皆さんもご存知だろうと思います。実は、数ヶ月前、イングランドでこんなことがありました。政府が新しい高速道路を作ることを決定しました。彼らは、何カ月もかけてこの新しい道路を通すために土地を切り開き、それから、専門家たちが仕事に取りかかって、この道路にコンクリートを敷き詰め、どれだけ自動車が通っても持ちこたえられるだけの強度をもつ道を作りました。道路は完成して開通し、自動車が通り始めました。それから間もなく、あることが起こりました。道路が膨らみ始め、路面に亀裂が入ったのです。これまでの建設作業がすべて無駄になったかのようでした。このがんじょうなコンクリートの道路を壊す何かがあったのです。彼らは調査を行いました。彼らが何を見つけたと思いますか?その下には、キノコがびっしりと生えていたのです。あなたも言われるでしょう、『キノコがコンクリートの道路を持ち上げるって?』私が冗談話をしていると思うかもしれません。あれだけの仕事、あれだけのコンクリート、そしてそれを台無しにするキノコ。

しかし、お分かりですか、非常に弱々しいものの中にある生命の力がそれを行ったのです。キノコを指でつまめば、簡単に押しつぶすことができます。そこには、何の力も感じられません。しかし、地面に植えてみると、中に生命が宿っていれば、同じ種類の仲間たちと協力し合って、どんなものでも持ち上げる力が生まれます。生命の力はおどろくべきものです。私は、大きな岩が、一粒の種から育った木によって、二つに割れるのを見たことがあります。キリスト・イエスにあるこのいのちは、死の力を滅ぼし、墓をこじ開けました。死も墓も、主を止めることができなかったのは、主が永遠のいのちを持っていたからです。ですから、このいのちを受けているとき、私たちは実に驚くべきものを持っています。どのような敵対者をも押しのけて進む力です。それは新しい力です。

ヨハネはこのいのちについてもう一つ、別のことを言っています。この手紙を見ると、ヨハネが交わりについても、多くを語っていることがわかります。彼は言っています、『もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ちます。』そして、私たちの交わりは、御父と御子との交わりです。続いて、彼は、私たちの互いとの交わりについて語ります。しかし、その交わりを行わせるものとは何でしょうか?それこそ、この永遠のいのちです。交わりについての理論や教えではありません。私たちが、多くの教えを受けていてもなお、交わりは壊れてしまうこともあります。しかし、主にあるいのちは、それを持つ者すべてを互いに引き寄せてくれます。私たちが他のキリスト者に出会えば、紹介されなくても、それを見分けることができるはずです。誰であれ、こんなふうに言ってもらう必要はありません、『この人はキリスト者なんですよ。キリスト者として、この方をあなたにご紹介します。』そんなことは、全く必要なくなるはずです。私たちが他のキリスト者に会うときは、そう紹介してもらわなくても、すぐにそのことが分かるはずです。キリスト者には、言葉なしで語られる何かがあります。そして、主にあるいのちは、言葉なしに語りかけるものです。

この国では、私たちの国ほど季節の違いがはっきりしていないのではないかと思います。つまり、春と夏のあいだにあまり大きな違いを感じないでしょう。今が春なのか夏なのか、私には分かりません。しかし、欧州に行くと、その違いをはっきり実感できるでしょう。私たちがイングランドを発ったときは、寒風吹きすさび、氷と雪に覆われていました。最近、来た手紙を読むと、春が近づいています。そして今日、向こうへ行ったら、たくさんの新しい花が地面から咲き始めているところが見られるでしょう。木々には新しいつぼみが見られ、生命がさまざまな新しい姿を見せており、よみがえりのいのちが力強く現れています。その様子をほとんど毎日、見ることができますが、聞くことはできません。木の近くまで行って、耳を近づけても何も聞こえないし、地面に耳を近づけても、やはり何も聞こえません。それでも、生命はいたるところからあなたに向かって叫んでいます。言葉なしに語りかけてきます。

私たちキリスト者が、生命について話すべきではないと言うことではありません。私たちには、言葉で証しをする必要がないと言うことでもありません。それは、確かに必要なことです。キリスト者としての生活の中で、私が完全に解放されたのは、野外集会で壇上に立って、初めて証しをした夜のことでした。私は証しをするまで、キリストにある自由が何を意味するのか知りませんでした。ですから、私は、あなたがたにも、キリストについて語る必要がないなどと言うつもりはありません。私が言いたいのは、あなたがたが黙っているときも、キリストは現されなければならないということです。私たちの内にある主のいのちは、おのずから語るものです。だから、ヨハネは言います、これが証言です、これがあかしです、これが証拠であり、永遠のいのちです。それが、交わりのことです。

さて、生きている人間の体が、各部分の交わりの上に成り立っていることはご存じでしょう。ほとんどの方は、よくご存じだと思います。とくにここに医師の方がおられたら、そのことをよくお分かりでしょう。しかし、その交わりについて、じっくり考えたことがあるでしょうか?私たちの身体は交わりという原則の上に構成されています。すなわち、私たちの体のすべての部分、すべての器官は一緒に働いています。全体が交わりという原理に基づいて働いています。この原理を詳しく説明することもできますが、今はしません。もし私がこのマイクロフォンを手に取って、そこに座っている兄弟の頭をめがけて投げつけたら、あの方は自分の目に向かってくるマイクロフォンを見てどうするでしょうか?彼は両手を上げるでしょう。体のある部分が、別の部分を守るために協力しあったわけですが、その前にあることが起こっています。彼の目が、マイクロフォンが飛んでくるのを見て、手に対して、自分の前に出せと命じたのです。体のすべての部分について、同じように語ることができます。体の中にある何百万という細胞は、どれひとつとして独立した単位ではありません。私たちの身体のあらゆる部分は、いちばん小さな部分にいたるまで、他のすべての器官と連動しています。

ひとつの小さな器官が苦しめば、体全体がそれを感じます。あなたがたは、歯痛を経験したことがありますか?ひどい歯痛になったことがありますか?それは、歯だけの問題でしょうか?体全体がその痛みを感じていないでしょうか?その小さな歯ひとつのせいで、からだ全体が不快な気分にならないでしょうか?身体は全体でひとつであり、どの小さな部分も独立してはいません。すべては交わりという原則の上に成り立っています。交わりが途絶えてしまえば、すべての歯がおかしくなっても、身体は気づかないでしょう。腕が変になっても、足がおかしくなっても、そのことが分からずに、身体は死んでしまいます。しかし、この身体が生きていられるのは、各部分の交わりの上に生きているからです。

さて、新約聖書には、このことについていろいろと書かれています。パウロはキリスト者について言っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみます。目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うことはできません。手が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこともできません。聖書にそのように書かれていることはご存知でしょう。私たちは、キリスト者として、ただ独立した存在ではありません。私たち皆が持っている主のいのちは、私たちを互いにとって必要な存在にします。人体のどの器官も、それだけでその役割を果たすことはできません。どの器官であれ、体から切り離せば、また、手や腕、あるいは、身体の他の部分や器官でも、全体でまとまっている身体から切り離してしまえば、身体から切り離された器官は、生命と創造の目的を実現することはできません。全体をひとつにまとめる主のいのちがなければ、その機能を果たすことはできません。

さて、このことについてもっと多くの例を挙げて説明することもできますが、あと数分しか残されていないので、そろそろ終わりにしなければなりません。しかし、私から、皆さん、中でも若いキリスト者たちに言いたいことがあります。他のキリスト者との交わりは、キリストにある人生を全うするために絶対に欠かせないものです。孤立したひとつの部分として受けるいのちは限られています。いくつかの部分がひとつになれば、より多くのいのちを受けることができます。すべての部分が一つに集まれば、さらに大きなのいのちが生まれます。他の神の子たちから自分を切り離せば、内にある神のいのちを抑え込むことになります。自分の霊的ないのちを抑圧し、私たち自身の霊的な働きをも制限してしまいます。交わりは人生にとって不可欠であり、真の交わりを深めるほど、人生はより豊かになります。主イエス様が、『ふたりでも三人でも』と言われたときは、このことを語られていたのです。ふたりでも三人でも、ひとつに集まるとき、主はそこに臨在されます。では、そこに主が臨在されていることは、どうすれば分かるでしょうか?それが、私たちが『主のいのち』を持っているというあかしです。他の信者と本当の交わりを持つのはよいことです。他の信者たちから切り離されて孤立するのは、なんと恐ろしいことでしょう。交わりを持つことは、人生の問題です。ヨハネは言っています、『これが証拠です。』主にあるいのちは、すべての基本です。

この主のいのちについて、もっと多くのことを話すつもりでした。でも、これは永遠のいのちです。神ご自身のいのちであって、私たちがこれから何年もここにいて、語り続けようとも、語り尽くすことなど、とてもできないでしょう。それがこのいのちのすばらしいところです。尽きることがないのです。終わりになることはありません。その深さを測ることは不可能です。永遠のいのちはすばらしいものです。ここで、始めに戻らなければなりません。そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということであり、これらのことが書かれたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。さて、このことを、たくさんある教えのひとつと捉えないで欲しいというのは、いのちとは教えではないからです。いのちは、いのちです。それを説明することはできません。世の賢い人たちがそろっても、いのちとは何かを説明できたことはありません。私たちも、いのちを説明することはできませんが、それを経験することはできます。私たちは、それを受けたと知ることはできます!私たち皆がそのようでありますように。アーメン。


(原文)https://www.austin-sparks.net/english/books/001107.html

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