2023年8月11日金曜日

T・A-S『わたしたちが一つであるように・・・』第36回会合

T・オースティン・スパークス
『わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるために』
That They May All Be One, Even As We Are One.

会合36 - 『光であるイエス様は、悪魔のわざを明るみに出して、それを滅ぼす』
Meeting 36 - Jesus, as the Light, Brings to Light the Works of the Devil in Order to Destroy Them

第36回会合
(1964年3月5日午後)

昨夜、話し終えたところから続けたいと思います。ヨハネの第一の手紙の最初の5節をもう一度、お読みします。

『初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、――このいのちが現われ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのちです。――私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。』

さて、昨夜の会合は、この言葉について全てお話しする前に終了してしまったので、少し振り返って、何を話していたか思い出してみましょう。憶えておられると思いますが、ヨハネが、福音書、三通の手紙、そして黙示録を書いたのは、すべてが混乱していた時代であり、中でも信者との関係が混乱しきっていたことをお話ししました。信者たちは、キリストとは違うもの、あるいは、キリストよりも劣るものに目を向けるようになっていました。彼らは、キリスト教の真理の偏った解釈を信じ込むようになり、そのため、真理のある特定の面だけに焦点を当てた信者の集団が乱立する状態になりました。そして、このような真理のさまざまな側面が主の民を分裂させ、確信がほとんど失われてしまいました。主の民の多くは、自分がどこにいるのかすら分からなくなっていました。彼らの心は、疑いと疑問でいっぱいになっており、イエス様の証しは、この分裂のために力を失っていました。

ヨハネは、そのような状況だからこそ書いたのであり、彼の福音書と手紙は、この状況に対する彼の答えです。ヨハネの最大の目的は、主の民の確信を取り戻すことでした。そのため、ヨハネは第一の手紙でさまざまな疑問に答える中で、十三回も、「私たちは知っています(We know)」と書いて、主の民には揺るぎない土台があることを示しました。そして、昨夜もお話したように、十回、『これが~です(This is)』と言っています。彼は十のことがらについて、『これが』土台ですと言いました。これが確信の根拠となるものです。

さて、今晩は、このことを取り上げて、ヨハネが言ったことのすべてをひとつにまとめてみます。主の民は、教えをめぐって、全くバラバラの方向に進んでしまいました。彼らは教えの違いによって分裂していました。この深刻な問題に対して、ヨハネがある解決策を採り、そして、それだけが確実で間違いのない解決策であるとヨハネが述べたことをお話しします。皆さんも薬の広告を見かけることがあると思いますが、広告主は必ず、この薬はどんな痛みも癒すとうたっています。どんなにつらい病気を患っていても、この薬を飲めば治りますよ。もちろん、そのまま信じる人はいないし、私たちはその種の広告をいつも疑いを持ってみています。しかし、ヨハネは間違っていません。彼は、あなたのすべての悩みを癒す方法があると述べ、そのことを繰り返し語っています。彼は言います、「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、また手でさわったもの、それが、キリスト者の全ての悩みに対する癒しである。」ヨハネが、このことに疑いを持たなかったのは、彼自身がそのことを証明していたからです。ヨハネは長い人生を生きてきました。これを書いたとき、彼は今夜、この会合に集っている誰よりも年上でした。彼は最後まで残った使徒でした。パウロは、自分のことを「年老いているパウロ」(ピレモン9節)と書きました。しかし、ヨハネはパウロよりもずっと年上でした。彼は長い人生を生きてきました。彼は多くの苦しみを経験してきました。彼は、主の民のあいだに起こされた数多くの困難を見てきました。ヨハネは、自分で黙示録の第一章、第二章、第三章に書いた状況をすべて知っていました。彼自身、キリストのために大きな迫害を受けてきました。しかし、結局のところ、ヨハネは、『私たちは知っている』と言っています――これこそ、私たちのすべての苦しみを解決する道です。

私たちは、この男の話に耳を傾けようと思わなければなりません。そして、こう尋ねるべきです、「では、ヨハネよ、その解決策とは何ですか?私たちは多くの問題を抱えています。主の民は分裂しています。主の民は多くの派に分かれて、互いに争ってさえいます。互いに矛盾するたくさんの教えがあります。ヨハネよ、あなたは解決策があると言っていますが、それは何なのですか?」この手紙に戻ると、そこに答えがあります。言葉としては、とても単純です。実際に行うことはそれほど簡単ではないかもしれません。しかし、ヨハネが実質的に言っていることは、ただひとつです。すなわち、主イエス様ご自身のところに戻りなさい。主とつながっていないもの、今のあなたが多くの時間と精力を費やしているもの、あなたに多くの問題を引き起こしているもの、自分たちは正しいのか、それとも、間違っているのかという疑念を抱かせるものは、すべて捨ててしまいなさい。私たちが正しいのか、それとも、あの人たちが正しいのだろうか?私たちが間違っているのか、それとも、彼らが間違っているのか?そのような疑問はすべて捨てて、キリストご自身のところに戻りなさい。ヨハネは、主の民を主イエス様ご自身のもとにまっすぐに連れ戻そうとしています。つまり、ヨハネは、主イエス様と一緒にもたらされたものを、彼らに示そうとしています。

地上に来られた時、人間となった主イエス様の人格と結び付けられていたものとは何だったのでしょうか?主イエス様が行くところに、必ずもたらされたものとは何でしょう?どのような人、また、状況にも、イエス様がふれることで起こる変化とはどのようなものでしょう?主イエス様ご自身との個人的なふれあいがあって、主イエス様が臨在されるところでは、必ず主がもたらす変化が起こります。主イエス様の臨在は、必ず何らかの影響を及ぼします。主イエス様が行かれるところでは、どこでも、何ごとかが起こります。ここが、主の臨在そのものと、主についての教えが違うところです。キリストに関するたくさんの教えがあり、キリストについての特別な教えがあっても、それが何の影響も及ぼさないこともあり得ます。何の変化も起こらないかもしれません。それは教えのひとつに過ぎません。それは、教会に関する教えかもしれません。地方教会についての教えかもしれません。聖さについての教えかもしれません。ああ!キリストに結びつけられた何千という異なった教えがあります。あなたが知っているのは、そのうちのひとつだけかもしれないし、あるいは、千もの教えを知っているかもしれませんが、どちらであれ、あなたの人生に何の影響も及ぼさないものもあるし、主の民としてのあなたがたの交わりにも、何の変化も起こさないこともあります。

その教えによって起こることと言えば、あなたがたをうんざりさえるくらいのことです。遅かれ早かれ、こう言うことになります、「ああ、これは全部、前にも聞いたことがある。ここには、新しい話しは何もない。全部、知っている。」そして、その後は聞きたいという気持ちもなくなってしまいます。おそらく、「次は何か新しいことを教えてくださいよ」と言いたくなるでしょう。新しかったものも、古くなってしまいます。あなたは、『他に何か新しい話はないんですか』と言うようになります。あなたは、これでもうたくさん、これ以上はいらないというところまで来てしまいます。これが、そんな教えによって起こされることです。それによって、人生の方向を変えられたりしません。状況を少しも変えることはできません。つまり、キリストについての教えが、キリストご自身の臨在から、かけ離れたものになってしまったのです。真の主の臨在があれば、必ず何かが変わるからです。

昨夜は、イエス様が行くところ、どこでも何かが起こったことを学びました。ところで、ヨハネの福音書とヨハネの手紙の違いがお分かりですか?ヨハネの福音書の最後で、ヨハネはその福音の全体をひとつの文章にまとめています。ヨハネは言っています、「イエスが行なわれたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う。しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」(ヨハネ21:25)つまり、ヨハネの福音書全体が、あなたがたが信じるためという目的に集約されています。

そでは、ヨハネは、手紙の方はどう要約しているでしょうか。手紙は、違う言葉でまとめています、『あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。』(第一ヨハネ 5:13)福音の方は、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、いのちを得るためです。手紙は、『あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。』そして、ヨハネは言います、福音書の中で主に対して真であることは、手紙の中では、あなたがたに対しても真実となる。福音書で主イエス様について述べたことは、あなたにとっても真実となる――主において真実であり、あなたがたにも真実であると彼は言っています。

さて、福音書の中でヨハネは、聖霊が来る日を語ったイエス様の言葉を伝えています。主は言われました、『もしわたしが去るなら、慰め主を遣わします。この慰め主は、あなたがたとともに永遠にとどまり、あながたがたのうちに住まいます。』ヨハネが手紙を送った人たちは、それが成就した日も、この世にいました。聖霊が実際に来られて、ヨハネ十四章は成就しました。聖霊が来ました。あなたがたは、御霊の日に生きています。そして、あなたがたの中にも御霊が住んでいるはずです。キリストにとって真実であったことは、あなたがたにも真実であるはずで、あなたがたの真実であり得ます。真理は、イエス様の中で真理であるのと同じように、私たちの中でも真理であるはずです。

私たちは、今、自分たちが生きている時代をあらためて理解する必要があると思います。バプテスマのヨハネが来て、『天の御国が近づいた』と説きました。イエス様も来て、『天の御国が近づいた』と説かれました。そして、誰もが御国が来る日を待ち望んでいました。彼らは御国が来る日を待ち続けてきました。あなたがたは、御国が来る時を待っていると言えますか?あなたがたは今も、御国が来る日を待ち望んでいますか?御国は来ました。御国は今、ここにあります。新しく生まれ変わっていれば、あなたは御国にいます。私たちは、御国が目の前にある時代に生きています。五旬節の日に、それは成就しました。私たちが待ち望んでいるのは、御国が来る日ではありません。私たちが望んでいるのは、御国が完成する時です。しかし、御国は今ここにあり、それは私たちにとって大きな意味があるはずです。

すべての預言者が、私たちが生きているこの時代を預言しており、旧約聖書の最後の預言者であるバプテスマのヨハネもまた、この日を預言しました。イエス様は、その日がすぐに来ると言われました。しかし、主は、ここに立っている人たちの中には、神の国を見るまでは、決して死を味わわない者たちがいますと言われ、それは成就しました。五旬節の日、御国が到来したのであり、その御国はまだ取り去られていません。私たちは、すべての預言者たちが、その日は必ず来ると預言した時に生きています。私たちは、なんとすばらしい日に生きているのでしょうか。御国は、イエス・キリストとともに到来しました。王がいなければ、御国を持つことはできません。イエス様が王であるなら、あなたがたには御国があるということです。

では、イエス・キリストと一緒に入ってきたものとは何でしょう、すなわち、この御国の性質はどのようなものでしょうか?ここで、昨夜、話していたことに戻ります。イエス・キリストとともにもたらされたもののひとつ目は、光であることを学びました。主は、この光を天から運んでこられました。主は、言われました、『わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがありません。』これを受けて、ヨハネは言っています、ここにあるように、神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。ヨハネはそのまま、イエス・キリストについて語り始めます。そして、福音書と手紙を通して、ヨハネはこう述べています。これは、人となった神の子イエス・キリストの中にもたらされた神の光である。

私たちは、光がもたらす三つの変化について考えました。光は、人にこう言わせます、『私は盲目であったが、今は見える』(ヨハネ9:25)。私は盲目だった。こう言った男を憶えていますか?彼は生まれつきの盲人でした。彼は見たことがなかったのです。彼は、見えるとはどういうことか、自分の経験として知ってはいませんでした。彼が持っていた知識はどれも、他の人から得たものでした。彼には、『私は見える』と言えたことはありません。生まれたときから盲目だったからです。何も見ることはできませんでした。イエス様が彼に触れて、視覚を与えたとき、彼は、『私は盲目であったのに、今は見える』と言えるようになりました。

さて、ここにある原理に注目してください。ここに来られた方の中に、本当に盲目の方は、おそらくいないと思いますし、いないことを願います。今夜ここにいる皆さんは、生来の視力をお持ちでしょう。私があなたがたの誰かに、『どうですか、あなたは盲目です。あなたには何も見えません』と言ったらどうでしょう。あなたはどう応えるでしょうか?『いや、そんなことはない。私は確かに目が見えている。あなたの顔も見える。他の人たちも見える。ここにあるものすべてがよく見えている。』それは、本来の意味では確かに事実ですね。

しかし、実際には、イエス様があなたや私に触れてくださるまで、私たちは本当に見ることはできないのです。私たちの生活に主イエス様が個人的に触れてくださって初めて、私たちは盲目であったことに気づきます。主イエス様に触れられて初めて、私たちはこう言えるようになります、「私は盲目だった、自分では見えると思っていたし、自分では見えるつもりだったし、自分には見えると信じていたが、今、自分が完全に盲目であったことが分かった。今、私が見ているようには、これまでの私には見えていなかった。』これが、主イエス様との生きたふれ合いがもたらす効果です。他の人たちに、彼らは盲目だと言っても、誰も信じないでしょう。頭がおかしいと思われるだけです。しかし、彼らに主イエス様がふれてくださると、最初に彼らが言うことは、『今、見えるようになったということは、これまでの私は盲目だったのだ。』

これは、イエス様がもたらす変化であって、イエス様の教えではありません。教えは、必ずしも人の目を開かせるものではありませんね。教えは非常に有益で重要なものかもしれませんが、イエス様の霊が霊的な目に触れてくれなければ、私たちはまだ盲目なままです。

ここで、昨夜お話したところに戻ります。イエス様がこの状態の世界に入ってこられたときに明らかになったことが三つありました。まず第一に、イエス様の臨在は、人間の心の本性を明らかにしました。イエス様がこの世界に入ってこられるとすぐに、人々の本来の性質を現れるようになりました。そして、非常に興味深く、注目すべきこととして、この変化は、もっとも高いところから始まりました。すなわち、ニコデモです。イエス様はニコデモに、『あなたがイスラエルの教師ですか?』と言われました。『あなたもイスラエルの教師(a teacher)ですか』ではなく、『あなたがイスラエルの教師(the teacher)なのですか?』と言われたのです。これは、ニコデモを非常に高いところに置くことばでした。ニコデモは高度の教養があり、生まれながらの知性を受けていた人です。宗教に関わることなら、ニコデモは何でも語ることができました。彼はパリサイ人でした。つまり、イスラエルの最上位の人たちを代表していました。

イエス様に出会うの前のニコデモと語り合えたら、彼は率直に、自分は何でも知っていると言ったでしょう。彼は大学を出ていました。ニコデモは最高の教師たちから学んできました。ニコデモは立派な教育を受けた人であり、彼自身も学問の世界で非常に高い地位にありました。もし、この時のニコデモにこう言ったらどうでしょう、『ニコデモ、あなは、あと少ししたら、自分には何もわかっていなかったことに気づくんですよ。』ニコデモはこう言い返していたでしょう、『そんなことは絶対にない。私は多くを理解している。自分が何も知らないと言う日など来るはずがない。』では、どうなるか見てみましょう。

ニコデモは夜を待って、イエス様に会いに来ました。ニコデモは、光そのものである方の臨在の中に入りました――そして、イエス様は彼に語り始めました。その後、すぐに、ニコデモがこう問いかけます、『どうして、そのようなことがあり得ましょうか?私には、あなたが話していることが理解できません。あなたが何を言いたいのか、私には分かりません。』ニコデモは、『ああ、どうしてですか?』と問い続けています。実に大きな問いかけです!イエス様は彼に言っています、『あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか?』この偉大な学者は、小さく哀れな愚か者でした。彼は、神の光の臨在の中に入ってきて、自分の中にあった暗闇に気づきました。

しかし、他のパリサイ人たちを見ると、ニコデモと同じように、立派な教育を受け、自信に満ちた宗教家たちでしたが、イエス様が現れたとき、彼らの中ではイエス様に対する憎悪がかき立てられ、敵たちが協力してイエス様を亡き者にしようとたくらむことになります。なぜでしょうか?それは、イエス様が彼らの本性に光を当てたからです。イエス様は、彼らがどれだけひどく宗教に毒されているかということに気づかせています。そして、イエス様は言われます、『そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。』すなわち、光の第一の働きとは、私たち自身の心の中にある悪を明るみに出し、私たちがあまりに惨めな生き物であると感じさせることです。神の光は、罪を確信させるものです。罪の確信をもたらす光なくして、救いの希望はありません。

救いの始まりに起こることは、救いの全行程で同じように起こり続けます。主イエス様が本当に私たちと共におられるなら、私たちは常に自分自身がいかに罪深いものであるかを自覚し続けるはずです。別の言い方をしましょう。もし、主イエス様が私たちと共におられるなら、私たちにとって本当に大切なこと――ああ、私たちに何よりも必要なものとは、神の恵みです。それが私たちの知る中でもっとも大きな言葉になります。恵み、恵み、すばらしい恵み!自分の心を知らなければ、神の恵みの意義を理解することはできません。キリスト者の礼拝に響く、もっとも深い音は、神の恵みに対する感謝の音です。それが、イエス様が、光として私たちに触れてくださったときに起こる最初の変化です。

次に、イエス様が国中を巡られた時の働きを思い出してみてください。イエス様が行くところ、どこでも、苦しみを抱えた人たちと出会いました。そこには、あらゆる類いの病人がいました――盲人、ろう者、おし、らい病人、足なえといった人たちとどこにでも待っていました。しかし、イエス様はこの病の原因を明らかに示されました。ある日、律法学者やパリサイ人たちが集まっていたところに、手がなえた病人が入ってきて、聖書にあるように、『彼らは、イエスが安息日にその人を直すかどうか、じっと見て』いました。イエス様は、この哀れな人をごらんになりました。主はこの方を深く哀れんで言われました、『子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。』律法学者やパリサイ人たちは言いました、『罪を赦したりするこの人は、いったい何者だ。神のほかに、だれが罪を赦すことができよう。』イエス様は彼らに言われました、『中風の人に、「あなたの罪は赦された」と言うのと、「起きて、寝床をたたんで歩け」と言うのと、どちらがやさしいか。』もちろん、彼らにはこの問いに答えられませんでした。そこで、イエス様は、『人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。』(こう言ってから、中風の人に、)『あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい』と言われたのです。すると彼は起き上がり、自分の家に帰って行きました。

どこが大切なところか、わかりますか?この男はひとつの例です。この人は、すべての病人を代表しています。そして、イエス様は、すべての病気について、そのすべての状況の背後にあって、それを引き起こしているものは罪であると言われます。もし罪がこの世界に入らなかったら、これらのものも、ひとつも入らなかったでしょう。この世界のすべての苦しみや不幸の原因は、罪までさかのぼることができます。アダムが人類に罪をもたらし、罪によって人類のすべての苦しみが始まりました。終わりの時がきて、信者たちからすべての罪が取り除かれると、苦しみはなくなります。黙示録に書かれているように、もはや悲しみも涙も痛みもない時が近づいています。神は、目の涙をすっかりぬぐい取ってくださいます。必ず、このようになります。ある女の子が、神は目の涙をすっかりぬぐい取ってくださると聞いて、お母さんの方を向いて、「神様はとても大きなハンカチを持っているんだね」と言ったそうです。小さな子どもなら、そんなふうに考えるでしょうね。神は、どうやって涙をすっかりぬぐい取るのでしょう?本当にハンカチを取り出すのではなく、涙の原因を取り除くことによってです。そして、すべての涙の原因は罪です。

イエス様がこの世界に入られたとき、その状態がどこか間違っていることが示されました。すべてが間違っていることを、神の光が明らかにしました。イエス様は、その根源を取り除くために来られました。そして、主は、木にかかって私たちの罪をご自分の体に負われました。

では、神の光が明らかにした三番目のことに移ります。それは、苦しみの背後にあるもの、罪の背後にあるもののことであり、罪と苦しみの原因へとさかのぼることによって、主は、このすべてが悪魔のしわざであることを明らかにされました。ヨハネの第一の手紙で実際に使われている言葉ですが、暗闇について語り、分派について語り、あまたの混乱について語る中で、ヨハネはそれが『悪魔のしわざ』であると言っています。『神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。』つまり、混乱は悪魔のしわざなのです。主の民のあいだの分裂は、悪魔のしわざです。間違いなく、その背後には悪魔がいます。

悪魔が、いつも欲していることは何でしょうか?悪魔は、主の御名を貶めることを望んでいます。分派は、主を貶めるものであり、主の民の混乱は主を貶めるものであり、信者を分裂させる教えは、主を貶めるものです。そして、これこそがサタンが行う働きの究極の目的です――すなわち、主の御名を貶めることです。だからこそ、イエス様が来て、この状態を目の当たりにして、その背後にサタンがいること、サタンがその原因であることを知ったとき、イエス様は御父の名誉を守りたいという強い願いに駆り立てられ、この状態を変えるために働き始めました。神の光であるイエス様は、悪魔のわざを明るみに出して、それを滅ぼそうとされました。

さて、ヨハネは言っています、『もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ちます。』苦しみを癒す道は、神の光の中に入ること、神の光の中を歩むことです。愛する友人の皆さん、もし私たちが光の中を歩いているなら、私たちはサタンのあらゆる働きを憎むはずです。主の御名を貶めるものを、それが何であれ、敢然と拒絶するようになるでしょう。つまり、光は力であり、光は私たちの中で何かを変え、光は闇に対する抵抗を引き起こします。光は善であり、それゆえ、光はあらゆる曲がったもの、悪いものに対抗します。主が私たちの中におられるなら、必ずそのようになります。それは、主が光そのものだからです。

私が強調したいのは、光は抽象的なものではないということです。別の名前で呼びたければ、それを真理と呼んでもいいでしょう。真理とは、抽象的なものではありません。真理とは、単なる理論ではありません。真理は、光と同じく、力です。光には何かを変える力があります。私たちは、自分の光に対する理解を次の問いかけで試すことができます――それは何をしているか?それは、悪魔の働きにどう反応しているか?残念ながら、愛する主の民の中にも、悪魔をくじくのではなく、悪魔を助けている人がいると私は思っています。彼らは分裂を引き起こしています。悪魔はそれを見て、揉み手をしながら大喜びしています。これで神の名誉を貶められると言っているのです。悪魔の助けとなってはいけません。悪魔が何かするとき、その助けとならないようにしてください。光の中を歩き、あらゆる闇の働きに抵抗してください。まだ、この問題について語り終えていませんが、御心であれば、夜の会合はあと二回あります。

今夜、お話ししたことを、主が言葉以上のものにしてくださいますように。私たちは、たくさんの言葉を聞きました。あなたがたにとって新しい考え方でも、新しくはなくても、頭の中だけにとどまるなら、私たちが今夜、ここに来たことはむだになってしまいます。私たちは来なかった方がよかったということになります。私たちは、聞いたことを覚えているだけだからです。しかし、この言葉をあなたの心に刻み、イエス・キリストの臨在は、人生に本当の変化を起こすと、自分に言い聞かせてみてください。イエス様が臨在しながら、何も起こらないことなどあり得ません。そして、もし主が常に臨在されていれば、必ず何ごとかが起こり続けます。主がご自身の栄光のために、そのように行われますように。アーメン。

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