2023年6月8日木曜日

T・A-S『わたしたちが一つであるように・・・』第35回会合

T・オースティン・スパークス
『わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるために』
That They May All Be One, Even As We Are One.

会合35 - 『ヨハネは困難な時代に信者たちの信仰を確かなものにするために立ち上がった』
Meeting 35 - John Set Out to Confirm the Faith of Believers in a Difficult Day

第35回会合
(1964年3月4日午後)

これから、ヨハネの第一の手紙に集中したいと思います。第一章の最初の5節をお読みします。

『初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、――このいのちが現われ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのちです。――私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。』

ヨハネがこの手紙を書いたときは、主イエス様が地上での働きを完了さてから、かなり長い時間が経過していました。ヨハネがこの手紙を書いたのは、他のすべての使徒たちが主のもとへ召された後でした。主イエス様が御父のもとに帰ってから、ヨハネが手紙を書いたときまでのこの長い時間に、いろいろなことが起こっていました。キリスト教にはさまざまなものが侵入してきて、信者たちの確信を破壊しようとしていました。非常に多くの異なる教えが入り込み、イエス様の教えについて、互いと相反する多くの解釈が生まれていました。数多くの分派や党派が生じていました。キリスト教徒のあいだの分裂や離反も起こりました。

これらのことに加えて、世が主の教会に侵入してきました。地上の世界が教会に入り込んでいました。黙示録の2章と3章を見ると、アジアの教会に世が入り込んでいたことが分かります。世が教会に入り込むと、そこでは必ず信徒の証しが弱められます。ヨハネがこの手紙を書いたときも、そのような状態でした。この状況を理解すれば、ヨハネがこの手紙を書いた理由が分かりますし、非常に困難な背景があったことが、ヨハネのこの手紙を非常に良く説明しています。キリスト教徒たちが、この状況にいかに苦しんでいたかは、容易に理解できます。さまざまな異なった教えや解釈がある中で、どれを信じればいいのか、彼らには分からなかったし、どれが正しく真実なものなのかも判別できなかったのです。キリスト教徒たちがいたるところで分裂している中で、正しいのは誰なのか、彼らには分かりませんでした。そして、世はこのような混乱と弱さをもたらし、信者たちは非常に困難な状況の中に置かれました。

このような状況だったがゆえに、ヨハネはこの手紙を書きました。この手紙を書いただけではなく、他にも非常に短い手紙、二通を書き、ほとんど同じ時期に福音書と黙示録を書きました。ヨハネが書くにあたって、非常に明確な目的を持っていたことは確かです。まず第一に、彼の目的は、困難な状況に置かれている信者たちを助け、彼らをキリスト者としての生活の基本に立ち返らせ、この大きな混乱の中で何が真実なのかを伝えることでした。それが、広い意味での彼の目的でした。この手紙をより詳しく見ていくと、この目的を果たすための行動を、ヨハネどのように始めたかが分かってきます。

ヨハネは、困難な時代にある信者たちの信仰を確かなものにするために立ち上がりました。ヨハネ自身は、この状況にまったく影響されていなかったことを心に留めておいてください。彼の心に、真理はどこにあるのかという疑問はありません。何が正しいことなのか、疑いは全く持っていません。そして、この短い手紙の中で、彼はある短い表現を十三回も使っています。いつか鉛筆を取り上げて、この手紙に出て来るこの二つの単語に下線を引いてみてください。中国語でも、二つの単語なのかはわかりません。英語では二つの単語であり、この非常に短い手紙の中で、この言い方をヨハネは十三回も繰り返しています。その表現とは、『私たちはわかっています(We know)』というものです。彼は十三回も、『私たちはわかっている』と言っています。彼の心には何の疑いもないことを表しています。彼は、この状況にあって全く迷いを持っていません。彼は自分の立ち位置を知っています。だから、彼は『私たちはわかっている』と繰り返して言っています。

もう一つ、別の表現があります。この表現を、彼は十回も使うのですが、その表現とは、『これが・・・・です(This is)。』そして、この『This is』を、彼は、十の事柄と結びつけています。ひとつ目は5節で読みました、『これが知らせです。』次は、『それが約束であって。』三番目は、『これが神の命令です。』第四番目は、『これがあかしだからです。』五番目は、『これが神の愛です。』第六番目は、『これこそ、勝利です。』第七番目は、『これこそ確信です。』第八番目は、『それは反キリストです。』第九番目は、『この方が、世に勝つ者ではありませんか。』そして、第十番目は、『この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。』『私たちは知っています』、『これがそれ』なのであって、あらゆる疑問、あらゆる疑いは排除されます。このようにして、この使徒は、キリストを信じる者たちの心を強めようとしているのです。

さて、他にも非常に特徴的なしるしがいくつかあります。はっきり言いますが、私はあなたがたの聖書の勉強を肩代わりするつもりはありません。そうして欲しいかもしれませんが、それでは、あなたがたが怠け者になってしまいます。私はあなたがたの代わりに聖書の勉強をするつもりはありません。先ほど言った表現が出てくるところを全部、挙げなかったのはそのためです。この書簡を読んで、この言葉が現れるすべての箇所に、自分で印を付けてください、『私たちは知っています。』十三回、この言い方が出てきます。そして、書簡を読み、今度は、『これが・・・・です』が出てくる箇所、全部にしるしをつけてください。これは、とても有効な学び方です。私がその箇所を教えるのではなく、あなたがたに探してもらうと言ったのは、このためです。

この手紙には、他にも特徴的なしるしがあると言いましたが、そのしるしとは、この信仰を確かなものにするという目的に関係しています。言うまでもないことですが、ヨハネが対処していた状況とは、現代に生きる私たちが対処すべき状況と同じものです。私たちは、さまざまな種類の教えや、聖書のさまざまな解釈と出会うことになります。私たちは、神の民のあいだに多くの分派があることをよく知っていますし、世がいかにキリスト教に侵入し、世がいかに教会から純粋な証しを奪ってきたかということもよく知っています。私たちも、このような状況に直面することになるのです。主の民の多く、とくに若い人たちは問いかけます、「いろいろあるけど、どれが正しいのだろう?たくさんある異なる教えのうち、どれが正しいのだろうか?主の民がこんなに分裂している中で、正しいのはどれなんだろう?」現代は、大きな戸惑いにあふれた時代であり、とくに若いキリスト者にとってはそうですが、だからこそ私たちはこのヨハネの手紙に目を向けています。ヨハネが同時代の信者たちを助けたように、私たちもヨハネに助けを借りようと思います。

そのために、この手紙にある三つの大切な言葉を取り上げたいと思います。この三つは、私たちの多くの問題を解決してくれる言葉だからです。実際、ヨハネは、これらが当時のキリスト者たちの問題を解決すると述べています。その三つの言葉とは、『光』、『いのち』、そして、『愛』です。ヨハネがこれらの言葉をよく使っていたことを、皆さんも憶えていることでしょう。どれも、キリスト教の偉大な言葉です。光、いのち、愛。そして、ヨハネは、最後の『愛』という言葉を『交わり』という言葉に結び付けています。この手紙で、彼は交わりについて多くを語っています。

では、この三つの大切な言葉のひとつ目から始めることにします。第1章の5節に戻ります。神は光であって、神のうちには暗いところが少しもないとこの節は伝えています。『神は光である。』これが、伝えられている事実です。ここで忘れてならないのは、ヨハネには旧約聖書しかなかったということです。ヨハネの心の背景には、いつも旧約聖書がありました。ここで、皆さんに非常に難しい宿題を出してみたいと思います。ヨハネによって書かれた黙示録を手に取ってみると、この書の中に旧約聖書から引っ張ってきた箇所が四百ほどあることがわかります。四百の箇所を引用していると言うのではなく、旧約聖書から取られた考え方が、四百ほどこの書に入っているということです。それがどこかということは、あなたがたにお任せすることにしようと思います。私たちは、旧約聖書にふれている四百の箇所を、ここで紹介するつもりはありません。

しかし、このたくさんの引用が、私たちをある事実へと導くことになります。それは、神は光であるという事実です。ヨハネが私たちを始まりへと引き戻していることが分かりますか?ヨハネは、『初めに』と言っています。彼はこの言葉で福音書を始めています。そして、この手紙でも、ヨハネは私たちを始まりへと引き戻しています。ヨハネの心には何があるのでしょう?彼は、天地創造のことを考えています。彼は、最初に造られたものは光であったことに言及しています。神は光である。始まりは、もちろん神です。それが創造の始まりです。すべては神から始まります。しかし、神とは何でしょう?神がいると、何が変わるのでしょうか?神が現れると、何が起こるのでしょう?神が登場して初めに起こったことは何でしょう?ヨハネは、創造のときと同じように、それは光であったと言います。だからこそ、この困難な状況にあっても、第一に来るべきものは、神と光なのです。

ここで、旧約聖書の冒頭に戻らなければなりません。聖書は、ご存じのように、『初めに、神が・・・・』で始まっています。そして次に、『地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあった』とあります。恐ろしいほどの混沌という状態であり、すべてが崩壊し、無秩序で不毛な状況でした。『地は形がなく、何もなかった。』そこに美しさはなく、やみが大いなる水の上にありました。

さて、この状況は、過去に行われた裁きの結果であると信じている人がたくさんいます。それは世界が存在する始まりではなかったというのです。世界は既に存在していましたが、このようなひどい状態にありました。今のこの状態は、もっと前の時代に世界に対して行われた裁きの結果だったと信じられています。文字通り、世界は滅ぼされました。そして、新約聖書は、この世界にも再び同じことが起こると教えていると信じられています。この地上にあるすべてのものは、神の裁きの中で滅ぼされることになる。主がご自分の民を取り去られたとき、ペテロが言うように、『地は滅ぼされ、焼き尽くされ』ます。そして、ヨハネは言います、『新しい天と新しい地が現れる。』

さて、現代に生きる私たちは、当時の人たちよりも、それが簡単に起こりうることを、よく理解できます。この地球全体を破壊するのに十分な力が水素爆弾というかたちで存在することが知られています。この破壊は、非常に短時間ですべて終わってしまうことが明らかになっています。ペテロは手紙の中で、そのようなことが起こると預言しています。新しい天と新しい地が現れるとしたら、その前に、古いものは破壊されなければなりません。

しかし、ここでヨハネが心配しているのは、物質としての地が滅びることではありません。彼が関心を向けているのは、創世記の第二の節の状況に対応する霊的な状態です。創世記の冒頭で、地には形がなく、何もなく、やみが大いなる水の上にあったように、そして、すべてが始まったときの物質的な創造がこの状態であったように、自分の時代には、これと同じような霊的な状態が存在するとヨハネは見ています。すべてが無秩序で混乱した状態に陥っています。すべてが崩壊しています。そこには見るべき美しさはありません。この霊的状態を表すただひとつのことばとは、『混沌』です。大いなる水の上にあるやみとみなすべき状態です。

そのような状況に、神が介入されました。神は、事実上、次のような意味のことを言われました、「これは、わたしが、意図していた状況とは全く違う。この状態は、世に対するわたしの願いを反映していない。」そして、神は、世界をこの状態から救い出すために入ってこられました。創世記で、神は御子を通して介入されました。ヨハネは福音書の中で、万物が創造されたのは神の御子を通してであったと述べています。ヨハネは続けて、この霊的な混乱の中で、神は御子によって再び介入されたと言っています。物質的な創造に介入されたのと全く同じように、神は、霊的な創造にも介入されました。神は物質的な被造物の上で、『光よあれ』と言われました。そして、神は、霊的な混沌の上にも『光よあれ』と言われます。そして、その光は御子を通してもたらされます。ヨハネが福音書で言ったことを思い出されるでしょう、『この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。』この光は御子を通してこの世にもたらされたものです。

さて、ヨハネは、自分の時代のこの状況を霊的に見た上で、この状況を救済する神の道とは、光をもたらすこと、光として、御子という人間のかたちをとって、ご自身が入ってくることであると言っています。神は、御子によって、光というかたちで、この状況をひっくり返そうとしています。救済の第一歩は、光です。

まず第一に、光はまわり状態を明らかにします。イエス様が世に来られたとき、その時の状況を誰の目にも明らかにされました。人間は物事のすがたをありのままに見るようになりました。イエス様が来られたところ、すべてが明らかにされたのはすばらしいことです。

曲がった人たちがいるでしょうか?イエス様が来られるまで、誰も彼らが曲がった人間であることに気づきませんでした。イエス様は、律法学者やパリサイ人に、『あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者である』と言われました。それまで、律法学者やパリサイ人について、そんなふうに思った人はいませんでした。外からは非常に敬虔な人たちに見えた彼らに向かって、イエス様は、『あなたがたは、悪魔から出た』と言われました。そして、主がこの地上を歩まれる中で、主の正しさが明らかになってゆきます。世が敬虔だと信じ込んでいたこの人たちこそ、後にイエス・キリストを十字架につけるのです。

真の光として、主は人々の心の本当の状態を明らかにされました。そして、イエス様が来られるところでは、必ず同じことが起こります。イエス様が近くに来られたとき、私たちが最初に感じるのは、自分はなんて悪い生き物なんだろう!ということです。ある時、イエス様がシモン・ペテロの人生に現れました。シモン・ペテロは叫びました、『主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。』キリストにある神の光の働きのひとつ目は、人の心の本当の状態を明らかにすることです。自分の本当の状態を明らかにされたくない人は、キリストを十字架につけようとするでしょう。その人は、主イエス様を迫害して、主と戦います。しかし、もし私たちに自分の本当の状態を明らかにされる覚悟があれば、ひざまずいて、「ああ主よ、私は罪深い人間です」と言うしかありません。

主の光のひとつ目の働きは、物事の状態を明らかにすることです。このような啓示の真の意味は、私たちを悔い改めに導くことにあります。自分が生来、持っている罪の恐ろしさを感じたことのない人とは、イエス・キリストに会ったことがない人です。これは、私たちが主の光のもとに来たことを計る試験となります。男でも女でも、『私は罪深い人間です』と叫ぶことなく、イエス・キリストに近づくことはできません。放蕩息子のように、『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました』と、私たちも言わなければなりません。このことに疑いをはさまないようにしましょう。イエス・キリストに触れれば、私たちも自分自身がいかに罪深い存在であるかを自覚することになります。イエス・キリストとの真の結びつくことで、自分自身に誇りを持つようになることなど、絶対にあり得ません。主イエス様との真のつながりを持ちながら、自分が正しいと感じることなどできません。

主イエス様にもっとも近いところに生きている人とは、自分がこの世でもっとも悪い人間だと感じている人のことです。彼らの心の叫びとは、『ああ主よ、私をあわれんでください。』それはだたの言葉ではなく、宗教的な言葉でもなく、主の光に当てられる中で、私たち自身の心への啓示から生まれてくる叫びです。ひとつ、覚えておいてもらいたいのですが、ある意味で、天国への道とは、私たち自身がいかに罪深い者であるかを、次第にはっきりと気付いていく道でもあります。天国にもっとも近づく人とは、自分が天国に居場所を持つような者ではないと誰よりもよく知っている人であり、「私は天国に全くふさわしくない」と言う覚悟がはっきりとできている人のことです。主の光は人間の心の状態を明らかにします。それがなければ、罪のあがないはありません。これがあがないに向けた第一歩です。物質的な創造においてもそうでしたし、キリストにおける新しい創造にあっても同じです。

しかし、地上を旅しているイエス様をもう一度、見てください。そこで何が起こっているでしょうか?そこにはつらい生活から抜け出せない貧しい人々がおり、何年も苦しんでいる哀れな女がおり、また、悪霊が入り込んだまま墓を歩き回るみじめな男がいて、誰にも彼を鎮めることができず、何度、鎖でつながれても断ち切っていました。イエス様はどこに行っても、このようなひどい状態の背後には、必ずサタンがいることを示されました。それまでは誰もそのようには考えず、ただ「かわいそうな女」だと思うだけでした。まあ、彼女は何かの病気で苦しんでいるのだろう。しかし、イエス様は、『サタンに何年も縛られている』と言われました。墓場に住んでいるこの哀れな男を、人々は、『きっと彼は正気を失って、頭が狂っているのだ』と言いました。しかし、イエス様は、『彼の中には悪魔がいる』と言われました。つまり、病気であれ、他の何かであれ、イエス様は、その背後にある別の力を見ておられます。イエス様が登場すると、悪霊たちは、『私はあなたがどなたか知っています』と叫ぶのです。

この世の混沌の背後に隠れている悪の力が、イエス様によって明るみに出たということです。この世では、神の御心にそぐわない状況になることはたくさんあります。でも、私たちは、「まあ、人間の事情だから」などと言って、それを受け入れています。私たちに主の光があれば、それを引き起こしているものは、別の力であることがわかるはずです。だから、イエス様はどこに行っても、父の御心に従っていないものを、主の光によって示されました。主が行かれる先々で、それが神が願うことではない、完全に間違っている、神ならば違うようにされるということが明らかになりました。イエス様がこの世に来られたことで、このように多くのことが明らかになりました。

さて、ヨハネの第一の手紙を開いてみましょう。私たちは、この状態、ヨハネが目の当たりにする状況、主の民が陥ることになる状況を語ってきました――つまり、教えの混乱、主の民のあいだの分裂、その他の様々な状況についてです。ヨハネは言っています、『神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。』このような状況は、神の願いに完全に反するものです。主の光はそのことを現します。偽りの教えは神に反するものです。主の民のあいだの分裂は神に反するものです。無秩序と混乱は、すべて、神に反するものです。ですから、主の光はそれらに対して行動することを求めます。光は受動的なものではありません。お分かりですか?光は、受動的ではありません。灯りをすべて消せば、どこも闇で包まれます。電灯をつけると、何が起こるでしょう?何かが起こりますね。闇が消え去ります。主の光に耐えられないからです。光には力があります。光には働きがあります。光は何かをします。

このことが私たちにも問われています。私たちは、多くの光を持っていると言えるでしょうか?自分たちは真実を知っており、啓示を受けた人間だと思っているのでしょうか?では、私たちが受けた主の光は何をしているでしょうか?それは、受動的な光でしょうか?そんなものはありません。能動的な光でなければ、光ではありません。光は何かをすることを意図されたものです。光は、状況を変えるためにあてられるものです。想像してみてください、自分は主の光を受けていると主張する人々が、主の民の分裂のもととなることがあるでしょうか?それは光と相反することです。だからヨハネは言っています、『私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ちます。』主の光の中を歩むことがもたらす効果のひとつは、互いと交わりを持つことです。光を持つことは、分裂を起こすこと、交わりを断ち切ることにつながると考える人もいます。ヨハネは、それは嘘であって、真理ではないと言っています。光があてられたら、その中を歩まなければなりません。『しかし、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ちます。』

光は当てられたものを変えます。『光』は実践的なものです。私は、理論を教えるだけでは満足できません。私がここに来た目的は、ただ皆さんに多くのことを教えることではありません。おそらく、今週でこの特別な働きを終えて、私は間もなく去っていくでしょう。私が本当に気にかかっていることは、私があなたがたに多くの言葉を与えたかということではなく、私があなたがたに光を与えたか、あるいは、主があなたがたに光を当てられたかということです。なぜなら、真の主の光には、必ず何かの働きがあるからです。闇は主の光とともにあることができません。闇は真の主の光に打ち勝つことはできません。これこそ、ヨハネが主イエス様について語ったことです、『光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。』光は、非常に大きな力を持つべきものです。私たちは、主の光の中を歩いているのでしょうか?それとも、ただ、自分には光があると信じ込んでいるだけでしょうか?真の主の光は、そのすべてが力であることを忘れないでください。この主の光の背後には力があります。

光とは力です。光はどんな時も力です。私たちが、自分は主の光を受けていると信じ込んでいるものは、本当に力なのでしょうか?私たちが持つ真理は、すべて力でしょうか?それは何かを変えられるでしょうか?それとも、頭の中だけにあるものでしょうか?理論に過ぎないのでしょうか?イエス様が光として世に現れたとき、主が行くところ必ず何かが起こりましたね。そして、このことが実現しました。すなわち、『神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。』

これが、お伝えしたいことです。私たちが、どこへでも伝えに行きたいのはこのことです。言葉や理論で伝えるものではなく、何かを行うものです。私たちは、自分が持つ真理をすべて検証して、それが行っている働きを知らなければなりません。混沌から光へ、無秩序から秩序へ、空虚さから豊かさへ、醜悪から美へと、その真理は状況を変えているでしょうか。この全ては、光の働きです。これがイエス様がされることであり、それは、主が世の光だからです。教えではなく、すべてがこのようであるべきです。

さて、私はまだ、この話しに取り掛かったばかりです。明日の夜、神の御心であれば、この続きをもっとお話しできるかもしれません。しかし、明日の夜まで待たずに、今夜から始めてください。頭の中にある多くのことが、何かの働きをしているか、主の答えを求めてください。主の光によってどのような変化がもたらされているでしょうか。変化をもたらさない光は、真の光ではないからです。

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