2023年5月25日木曜日

『わたしたちが一つであるように・・・』第34回会合

T・オースティン・スパークス
『わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるために』
That They May All Be One, Even As We Are One.

会合34 - 『主の臨在は力!主の臨在はいのち!主の臨在は聖さ!』
Meeting 34 - The Presence of the Lord is Power! The Presence of the Lord is Life! The Presence of the Lord is Holiness!

第34回会合
(1964年3月3日午後)

へブル人への手紙、第4章1~3節をお読みします、『こういうわけで、神の安息にはいるための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。信じた私たちは安息にはいるのです。「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。』

第6章1~3節、『ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。死んだ行ないからの回心、神に対する信仰、きよめの洗いについての教え、手を置く儀式、死者の復活、とこしえのさばきなど基礎的なことを再びやり直したりしないようにしましょう。神がお許しになるならば、私たちはそうすべきです。』

これまでに開いてきた特別集会で、私たちは、民とともにおられる主の臨在という問題に集中するように導かれました。ここにいるすべての人が同意してくれると思いますが、私たちにとって、主の臨在よりも重要なことはありません。こうしてひとつに集まるとき、私たちがまず初めに祈ることは、主の臨在ではないでしょうか。そして、あなたがたの中で、一日の初めに主の臨在を祈った人たちは、おそらく、その後も続けて祈ることでしょう。私たちの人生、また、神の民の人生において、ただひとつ本当に大切なのは、主の臨在であると誰もが知っています。私たちは、主がおられないまま、先に進むことを恐れるべきです。主の臨在のない人生を考えることはできません。主の臨在は、私たちにとってすべてを意味するものです。

これこそ主ご自身の最大の願いであると指摘したことを、皆さんも思い出されるでしょう。主はモーセに言いました、『彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む。』主の最大の願いは、主の民の中にいることです。しかし、主が民とひとつになるためには、いくつかの条件があります。主ご自身が、私たちとともにいるため条件を定めておられます。今、皆さんで読んだこのヘブル人への手紙では、荒野でのイスラエルの生活、つまり、モーセに言われた『わたしのために聖所を造らせなさい』という言葉が繰り返された時代を、何度となく引き合いに出していることにお気づきでしょう。紅海から国境を越えて、ヨルダン川まで至る期間のことです。

この四十年間、多くの困難があり、主は民に多くの苦しみを与えましたが、そのあいだも主は民とともにおられました。今、言ったように、その四十年という期間には、多くの困難がありました。非常に深刻な状況になった時期が、何度もありました。イスラエルと戦うために現れたアマレク人のことが書かれています。バラクに雇われてイスラエルを呪った偽預言者、バラムの件もありました。このように、旅のあいだには、非常に危機的な時期が何度もありました。パンの危機があり、水の危機がありました。敵の危機がありました。しかし、そのようなときも、主はいつも民とともにおられました。主は、アマレク人がイスラエルとの戦いで勝利することを許しませんでした。主はバラムの呪いを祝福に変えてくれました。主は彼らとともにおられました。それは勝利を意味し、助けを意味し、必要なものが全て備えられることを意味し、どれだけ弱い者であっても主が民を助けたこと、主が彼らとともにおられたことを意味していました。

主が、多くの苦しみや困難の時も、いつも民とともにおられた理由はひとつです。ただそのゆえに、主は民とともにおられました。それは、彼らが前に進む民だったということです。彼らは目標に向かって出発し、そして、多くの妨害にもめげずに進み続けた民でした。困難のために前進がしばらく中断することもありましたが、再び前に歩み始めました。そして、主がずっとともにおられたのは、彼らが進み続けたからでした。彼らが主とともに進んだとき、主も彼らとともに進みました。これは、神が民とともにおられる基本的な条件の一つです。彼らには、初めにこれから起こることが幻として示されました。この民が紅海を渡り、パロの軍隊が海に沈んだとき、モーセとアロンとイスラエルの民が歌を歌ったことを、皆さんも憶えているでしょう。その歌の中で、幻が生まれました。彼らは言いました、『主は、私たちを連れ出されたのは、私たちを連れて行くためだ。』主が私たちを連れ出したのは、荒野で死なせるためではない。主はそのようなことを望んではいない。主が私たちをエジプトから連れ出したのは、私たちをあの地に導くためだ。彼らはこう歌いました――『あなたの聖なる山に向かって、私たちを連れて行きますように(詩篇43:3)。』彼らの旅はこのような幻から始まりました。そして、彼らがその幻を見つめながら進んでいくあいだ、主は彼らとともにおられました。

主が、彼らにあの力強い勝利を与えてくれたのは、何よりも、前に進み続けるように励ますためです。紅海の勝利は、十字架の勝利に対応しています――キリストの死と埋葬と復活という勝利です。これが、大きな土台となりました。そして、その土台を背負って、その土台を踏みしめながら、彼らは進んでいきました。しかし、その歩みが止まるときが来ました。ご記憶だと思いますが、幕屋は移動のために組み立てられるものであって、一か所に設置して永遠にそこに留まるためのものではありません。幕屋はただ、先へ進むために作られました。そして、幕屋とは、主がおられる場所でした。すなわち、主が彼らに求めたのは、進み続けることでした。

皆さんは民数記に関心がおありでしょうか。民数記は、とてもすばらしい書です。この書を学んだことがなければ、ぜひ学んでみてください。この書は、前進の書、主との歩みの書と呼ぶこともできます。そして、第三十三章まで読み進めると、このひとつの章で、ある言い回しが四十三回も出てくることがわかります。一つの章の中で、ひとつのことが四十三回も繰り返されるなら、そこには何か意味があるはずです。民数記の第三十三章、この章で、この言い回しが四十三回も出てきます――『そして、イスラエルの民は宿営した(journeyed)。』四十三回、民は進み始めたということです。彼らは旅を続けました。そして、この書は、民とともに力強くおられる主を見出すことのできる書物であります。

さて、ついに荒野を越えて、カデシュ・バルネアまで至り、約束の地の境界線までたどり着いたところで、彼らは立ち止まりました。読み直さなくてもけっこうです――彼らは、旅をしていました。彼らは立ち止まりました。もはや、主は彼らとともにおられません。その世代全体のうち、二人を除いて全員が荒れ野で死にました。これは、民に対して主が願っていたことではなく、民が荒れ野で死ぬことを主が望むようなことはあり得ません。ここに主はいません。実際、ヘブル人への手紙で読んだように、それは、主が許されないことです。主が民とともにおられることの条件とは、彼らが進み続けることです。ヘブル人への手紙の四章には、進むことをやめた彼らに主が与えた恐ろしい警告が書かれていました。主は言われました、『わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。』彼らは前に進まなかったために、すべてを失いました。だから、六章では、『私たちは、進もうではありませんか』という言葉が出てきます。旅を始めたところにとどまることはせず、前に進もうではありませんか。

さて、前に進むとはどういうことでしょうか?もちろん、私たちにとって、それは霊的な意味で前に進むことです。私たちは新しい摂理に生きており、これは霊的な摂理です。しかし、私たちが進むことの意味として、皆さんにぜひ考えて欲しいことがあります。それは、荒野のイスラエルに当てはまることであって、彼らにとっては地上のことであったのですが、同じことが私たちには霊的な意味で当てはまるということです。このヘブル人への手紙をもう一度、よく読むとわかりますが、霊的に前に進むということは、主が言われたことを実践に移すという問題に他なりません。私たちは、主から何かを教えられることによって、前に進むのではないのです。とても奇妙なことを言っていると思われるかもしれません。主は、ご自身で私たちに語りかけることができます。私たちは、主の言葉を受け、主が与えられる多くの教えを受け、神の真理のすべてを知り、長年にわたってそのすべてを守り続け、多くのものを受け取りながらもなお、立ち止まったままでいるということもあり得るのです。主が言われたことを知るという問題ではありません。それを実践するという問題です。主が言われたことを行う、それが前に進む唯一の道です。

では、私たちはどうすれば前に進むことができるでしょうか?静かに座って、『さて、主は私たちに何を言われたのだろうか?』と問うことです。それは、ここ四、五週間にあったことかもしれませんし、何年も前のことかもしれません。主は、この場所で語られたか、あるいは、多くの奉仕者の働きを通してあなたに語られました。主の御言葉を読むことで、あなたは大きな山のような真理を手に入れながら、今、あなたは前に進んでおらず、主ご自身も、私たちとともにいたいと願いながらも、ここにはおられないのかもしれません。主の臨在は力であり、主の臨在はいのちであり、主の臨在は聖さです。ああ、主の臨在には大きな意味がありますが、そのすべては全く現実的なものです。主は、理論を信じません。主は、教科書さえも信じません。主は、非常に実践的な主であります。そして、私たちに対する主の態度はこのようなものです。ここを見なさい、わたしはあなたがたにこう言い、あなたがたはそれを聞いた。おそらく、あなたがたはそれを聞いてよろこんだでしょう。あなたがたはそれが真実であると信じたことでしょう。おそらく、そのことで主に感謝したでしょう。でも、私たちはそのことで何をしたでしょうか?

私たちは、主が言われたことを受け止め、それを取り上げて、こう言ったことがあったでしょうか、「私は、このことで何かしなければならない。教会として、そのために何かをしなければならない。それを実行に移さなければならない。そうしなければ、私たちは前に進むことができない。そうなれば、神の力が私たちのあいだに現れることはない。」私たちは、何年も動き続け、何年にも渡って教義で満たされながらもなお、何年も遅れていることもあり得ます。すなわち、主が私たちに達して欲しいと願っている状態に、まだ至っていないのかもしれません。新約聖書にこれほど、前に進むように励ます言葉が出てくるのはなぜでしょうか?新約聖書が、前に進むことに対する神の民への激励と励ましと警告で満ちているのはなぜでしょうか?そして、なぜ新約聖書はこのように実践的な書物なのでしょうか?なぜなら、本当の霊的な進歩と主の臨在は、私たちが全てにおいて最新の知識を持っていることで、はじめて可能となるからです。

あることが新約聖書の中で何回、出てくるか、数えたことがおありでしょうか。それは、荒れ野におけるイスラエル人の生活に言及することばです。次のような箇所のことです、『きょう、もし御声を聞くならば、心をかたくなにしてはならない。』何度も何度も、この言葉は新約聖書にあらわれます。きょう!きょう!きょう!このようなことは、すべて、今、この時に実行しなければなりません。私たちが、これからも先に進めるかどうかは、頭の中にある事実に対して、今、どう行動するかによって決まります。だから、主は私たちに言われます、あなたが進むなら、わたしはあなたがたとともにいる。そして、進むということは、わたしがあなたがたに言ったことをすべて実践し、達成するということに他ならない。主についての知識が深まるかどうかは、私たちが受けた光に日々、従うことだけにかかっています。

さて、私たちは、主にともにいて欲しいし、主に完全なかたちで一緒にいて欲しいと願っています。私たちの心は、この願いにで占められています。今夜、ここにいるすべての人が同じ願いを持っているはずです。あなたがた一人ひとりのところに行って、「主があなたと一緒にいてほしいですか?主ができる限り完全にあなたとともにいてほしいですか?」と質問したとしたら、今夜、ここにいる誰も、「いや、主にいて欲しくはない」とは言わないでしょう。あなたが言われるのは、「そう、それこそ私が祈り、願っているただひとつのこと、すなわち、完全なる主の臨在です。」そして、それこそが、この場にいる主の民の仲間として、あなたが望むべきことです。

ですから、主が語られるとき、私たちは主が語られたことを取り上げてこう言います。このことで、何かをしなければならない。私は、それをため込んだ知識に放り込んで終わりにはしない。自分が持っている知識に、それを加えるだけではない。私は、それをどのようなかたちで実践すればいいのかを考えてみる。そして、その意味がわかったら、それが私の生活の中で生きた現実となるように、主のもとに行く。兄弟たち、このようにする人たちこそ、前に進んでいくのです。彼らは、約束の地に入っていきます。彼らが、主の安息の中へと入っていきます。彼らが、主のよろこびの中へと入っていきます。なぜなら、彼らこそ、主が望んでおられるもの――主が言われることをすべて受け止め、それを実践する民だからです。

だからこそ、ヘブル人への手紙の著者は、『進もうではありませんか』と言っています。これ以外にどのような方法で前へと進むことができるでしょうか?私たちは、文字通り、この地上で旅をしているわけではありません。私たちの約束の地は、この地上、この世界にはありません。キリストが私たちの約束の地です。キリストこそ、私たちに対する神の完全な目的です。だからこそ、私たちは、キリストについて語られたすべてを取り上げて、実践に移さなければなりません。それが、前に進むということです。そして、それこそ、主が私たちと完全にともにおられるということです!

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