2023年5月15日月曜日

『わたしたちが一つであるように・・・』第32回会合

T・オースティン・スパークス
『わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるために』フィリピン、マニラ、1964年
That They May All Be One, Even As We Are One.
Manila Philippines, 1964

第三十二回会合―『何よりも大切なのは、「あなたがたのうちにキリストが完全に形造られる」こと』
Meeting 32 - The Matter Which is of Supreme Importance is: "Christ Fully Formed In You"

第三十二回例会
(1964年2月29日午前)

この大きな問題について考えてきましたが、今回が最後の朝になります。それは、主イエス様とともに入ってきたこの摂理の真の性質に関する非常に大きな問題です。ですので、今朝はこれまで語ってきたことのすべてを、一つの事実としてまとめあげたいと思います。これまで、多くの分野を網羅してきましたが、そのすべてが一つの問題に帰結します。それは、ある制度と他の制度の対立という問題ではありません。つまり、ユダヤ教とキリスト教との対立ということではありません。霊性に対して律法主義がどうのこうのという問題でもありません。旧約聖書と新約聖書の対立の問題でもありません。また、パウロと敵対する相手についての問題でもありません。このようなことについて、ずっとお話ししてきましたが、大切な問題はそれではありません。主イエス様の到来とともに始まった戦い、そのために使徒パウロが道具として選ばれた壮烈な戦いは、聖書の特別な解釈をめぐる戦いではないのです。特定の教義の形式のための戦いでもありません。また、礼拝の特定の形式を求める戦いでもありません。このようなことよりも、はるかに大きな戦いです。

このガラテヤ人への手紙全体は、この非常に大きな真実に触れており、その真実はただ一つの言葉に集約されています。この手紙全体と手紙に関わるすべては、ひとつの節に現れています。言葉としては非常に短い節です。しかし、これは非常に大切な節です。4章19節、『私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。』この訳は、少しだけ修正しなければなりません。『形造られる(formed)』ということばは、『完全に形造られる(fully formed)』と訳すべきです。するとこの節は、『私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが完全に形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています』となります。

つまり、この大きな戦いは、すべての面で、キリストが完全に形造られるという問題に集約されているのです。他の何ごとでもなく、それ以下でもなく、それ以上でもなく、ただ、キリストが完全なすがたで形造られること、キリストが個々の信者の中に完全に形成されること、そして、教会の中でキリストが完全に形造られるという問題に他なりません。つまり、すべてのことがらが、ただひとつの問いに集約されます。キリストとは、すべての人とすべてのものが分けられる基準です。キリストは、主の教会と他の教会を分ける基準です。キリストは、あらゆる教えを計る基準です。

何かが正しいか、それとも、間違っているかは、この一点で決まります。すなわち、その中にどれだけキリストがいるかということです。その中にどれだけキリストの霊を見ることができるか?あらゆる疑問、あらゆる問題は、この一点に集約して考えることができます。それはいつも、どれだけキリストの御霊をこの人々、この教え、これらのものの中に見出すことができるかという問題になります。あなたがたに、このことに特別に注意を向けていただきたいと思うのは、それがすべてを決定する基準だからです。ガラテヤの諸教会では、それが決定的な基準でした。

今、読んだこの節で、この使徒は、ある制度を守るために、他の制度から苦しみを受けていると言っているのではありません。ある教えをかかげたために、別の教えから苦しめられているのではありません。ある礼拝の形式を採ったために、他の形式から苦しめられているわけではありません。特定の主の教会と諸教会の存在を支持したために、別の教会から苦しめられたとも言っていません。彼は、キリスト教を守るために、ユダヤ教から苦しめられているとも言っていません。霊性のために、律法主義によって苦しみを受けているとも言ってはいません。パウロは、このようなことをひとつも言っていないし、これらひとつにまとめて言ったわけでもありません。彼の苦しみのもとは、こういったこと全てよりも非常に大きなものでした。パウロは言いました、『あなたがたのうちにキリストが完全に形造られるまで、私は再び産みの苦しみをしている(ガラテヤ4:19)。』この短い手紙に、『キリスト』という名前が四十三回も出てくることを、私は一度ならず指摘してきました。すなわち、これがすべての鍵です。私たちはつい先ほどまで、ここでよく歌われる讃美歌、『キリスト、ただキリストだけ』を歌っていました。そして、これこそがパウロの願いごとでした。

さて、このことは、神が人に啓示した中でももっとも偉大な事実へと私たちを導きます。それはこの手紙に出てくるある単語に集約されています。『御子(Son)』、あるいは、『子どもたち(sons)』という言葉が六回に渡って出てきますが、子どもであることが意味するものは、神がこれまで人間に啓示したもっともも偉大な事実です。パウロはこのことから始めました。まず第一章で、彼はこの手紙全体の土台を現しました。パウロは、『神が御子を私のうちに啓示することをよしとされた』と言っています。このことが、パウロの人生全体を揺り動かしました。それは、彼だけでなく、この摂理にも大きな変化をもたらすものでした。

神の御子、イエス・キリストの啓示こそ、すべての基礎です。パウロは、『神が御子を私のうちに啓示された』と言うことばによって、この基礎を築きました。その手紙の少し後で、彼は書いています、『あなたがたは子であるゆえに、神は御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました(ガラテヤ4:6)。』聖霊とは、信者の中にあって、神の子供としてくださる霊です。聖霊は神の御子の御霊です。そして、聖霊が内に臨むことによって、信者は神の子となる用意ができるのです。

さて、この使徒が、『私の幼な子たち(口語訳)』という言葉を使っていることにお気づきですか?ギリシャ語を読める人なら、ここであることに気づくでしょう。この使徒は、私の大人になった息子とは言っていません。彼は、私の息子たちとすら言いません。彼は、『私の幼な子たち』と言っています。ここでは、二つの異なるギリシャ語の単語が使われています。子供(Child)とは、生まれたけれども、まだ成長していない人や物、まだとても小さく未成熟なものを指します。もうひとつのギリシャ語は、息子(son)にあたるもので、これは成長した人を指す言葉です。この手紙全体が、この違いに重きを置いていることがお分かりでしょう。彼は、『ああ、愚かなガラテヤ人たち!』と言っています。あなたがたは愚かな小さな子供のようだということです。あなたがたは生まれたが、まだ成長していない。あなたがたは始まりはしたが、キリストの完全な形成は止まったままだ。聖霊が私たちに与えられたのは、息子たちが完全に形造られるという目的のためだと彼は言っています。

この手紙の中で、この使徒は、古い摂理と新しい摂理とを、この一点において対比させています。古い摂理にあるイスラエルは、まさに幼な子の国であったと彼は言っています。そして、幼な子であるしるしは次のようなことです。まず第一に、彼らにはすべてのことを、図解や絵や模型で説明しなければなりません。そして、あらゆることを彼らの外側にあるものを使って教えなければなりません。子供たちには、何かを物として示すことによって教えます。そして、小さな子供には、こうしなければならない、ああしてはいけないと言いながら教えます。良い男の子、良い女の子になりたければ、私の言うとおりにしなさい。

これが幼い子供に対する教え方です。成長した人間はこうではなく、小さな子供とは完全に逆です。成長した息子は、自分が何をすべきかをいつも人に指図される必要はありません。本当に成長した息子とは、父親が、「こうしなさい、ああしてはいけない』と言わなければならない者ではありません。真に成長した息子は、自分の中で、自分が何をすべきか、何をすべきでないかを知っています。それを、絵や図解を使って教えてあげる必要はありません。自分の中で知っているからです。本当に真の息子であるなら、その子供は、父親が何を望み、父親が何を望まないかを自分の中で知っています。その父親は、来る日も来る日も、『私の息子よ、これが私の願うことだ』と言い続ける必要はありません。真の息子は、心の中で父親が望んでいることを知っています。

それは、直感として知っていることであって、命令されるのではないということろに違いがあります。すなわち、古い摂理と新しい摂理の違いは、霊的な知性から来るのです。それが、幼子と息子の違いだからです。幼子は、自分の中に知性を持っていません。知性は、その子の外側、他の人たちの中にあります。しかし、成長した大人は、自分の中に知性を持っています。この手紙の中でパウロが対比させているのは、この違いです。彼はガラテヤの人々に言っています、「私の子どもたちよ。、あなたたちには知性が欠けている。真の成熟のしるしである、霊的な知性が、あなたがたの中にはまだ見られない。」

子供と息子のあいだには、もう一つ、別の違いがあります。幼子は、自分のためにあらゆることを、他の誰かにやってもらわなければなりません。幼子のために、あなたが全てをしてあげなければならず、その子供に必要なものは全てあなたが提供し、代わりにやってあげるしかありません。あなたが食べ物を用意します。着るものも用意します。あなたが家族を用意します。あなたが家を用意します。この幼い子供のために、あなたがすべてを提供します。この幼子は自分のために何も備えようとしません。成長した息子は違います。成長した息子は、自分で責任を取ります。父親は、この息子を信頼できることを知っています。この息子が正しいことをするか、間違ったことをするか、いつも心配している必要はありません。父親は、その息子のことでは安心して、こう言えます、「私は、彼のことは信頼できる。彼にはひとりで責任を負わせられるし、彼にその責任を負う能力がある。」

旧約聖書に描かれたイスラエルの歴史を見ると、彼らが全く責任を負わなかったことが分かるでしょう?彼らが荒野をさまよった歴史、荒野から抜け出した後の長い歴史を見直してみてください。彼らは、何でもやってもらって、全てを備えてもらっています。彼らは、何をすべきかを、すべて教えてもらわなければなりません。それが律法であり、律法は石の板に書かれています。彼らの心には書かれていません。彼らは全く責任を負えない人たちであり、神のしもべも、神ご自身も彼らを信頼することができません。一日でも彼らだけで放っておくと、おかしなことをやってしまいます。彼らは、馬のようなものです。手綱とくつわで操らなければ、彼らをまっすぐに進ませることはできません。

これは、聖書で使われている説明の仕方の一つですね。さて、キリストにあって成長した後では、これとはまったく違うことになります。息子であるということは、霊的な責任を負うことを意味します。聖霊が内におられる相手には、あなたはこう言うことができます、「私には、彼らが信頼できることが分かるし、主が彼らの内におられることも分かる。主が自分の中におられることを、彼らも分かっている。そして、彼らの中にいる主を、私は信頼できる。』あなたは、周りの人々が皆こうであってほしいと願わないでしょうか?これが幼子と息子の違いです。この使徒がここで言っているのは、あなたがたが成長した息子であるゆえに、御子の御霊として、御霊があなたがたに遣わされたということです。『神は、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。』ここで彼は、幼子と息子の違いというこの真理を否定していたのではありません。彼が言っているのは、あなたがたが聖霊を受けた時、潜在的に、息子としての性質も受けたということです。すなわち、聖霊は、キリストの完全な状態を得ることを可能にしてくれます。キリストの完全さは、聖霊にあって、あなたの中に現れるものです。ここで問題となるのは、あなたが幼子のままでとどまるのか、それとも、御霊に生かされて完全な息子に成長するのかということです。

さて、使徒パウロはこの手紙の中で、もう一つの対比をしています。パウロは、息子と使用人を対比しています。ここで、彼はイスラエルとキリスト教の違いを教えるためにそうしているわけではありません。彼は、ギリシャ人の生活から例をとって説明しています。ギリシャの制度では、家の使用人が、幼子の手を取って、学校の先生のところに連れて行くことになっていました。使用人は、混みあった道路を通って、幼子を連れてゆきました。使用人は、道路を横切り、危険な場所を避けながら進みました。使用人は、この幼子の世話をし、その子に必要なことをすべて行いました。そして、教師のところへ、その子を届けました。使用人は、霊的な教育の原理のもとへと子供を連れてゆきました。

ここで、パウロは、この使用人とは律法のことであり、私たちの手を取ってキリストのもとに導くものであると言っています。お分かりのように、律法は幼い子供を扱うためのものです。律法が、幼子のためにすべてを行います。律法とは、私たちを聖霊に引き渡し、そして、聖霊が私たちを息子として導くことを意図したものでした。だからこそ、パウロは、使用人と息子の違いを強調しています。使用人は、私たちのためにすることを全て外側で行います。しかし、御霊は私たちのために、全てを内側で行います。だからこそ、パウロは、『あなたがたのうちにキリストが完全に形造られるまで』ということを強調しています。この新しい摂理の特徴の全ては、私たちの中におられるキリストにあります。

ここで再び2章20節に戻ります。『もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。』私たちの内住の聖霊は、私たちとともにおられ、私たちが主のことを理解できるように助けてくれます。聖霊は、主の真実を理解するための霊的な知性を私たちの中に注ぎこんでくれます。別の箇所で、この使徒は述べています、『神のことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵と霊的な理解を尽くしなさい。』知恵と霊的な理解を得るためには、まず、みことばがあなたの中に豊かに住まわなければなりません。聖霊の働きの土台とは、主のみことばが私たちのうちに豊かに宿ることです。私たちには、聖書の正しく、完全な知識が必要です。これが、聖霊の働きの土台です。聖霊は、神のことばから離れては、何もすることができません。

私は、自分が重大な霊的危機に陥る前に、聖書を徹底的に勉強していたことを、どれだけ嬉しく思っているか、とても言い尽くせません。私は聖書の全体を体系的に勉強してきました。私は、大きな黒板に、聖書の全書の概要とその解釈を書き出すことができました。聖書の講義をすることもできましたが、本当の霊的な危機が訪れてはじめて、頭ではよく知っていたつもりの聖書を、真に理解できるようになりました。そのとき、私が知ってい聖書は、生きた書物となりました。

これは、五旬節の日に使徒たちに起こったことと同じですね。彼らはユダヤ人であり、ユダヤ教の聖典を熟知していました。つまり、旧約聖書に書かれていることをよく知っていました。彼らは、モーセが書いたことを残らず教えることができたでしょう。彼らには、ダビデが書いたことを残らず教えることができたでしょう。そして、預言者たちが書いたことも、残らず教えることができたことでしょう。しかし、五旬節の日に、はじめて彼らの聖書は生きたものになりました。彼らは、それまでは頭で知っていたことを、すべて、霊的なかたちで受け継ぎました。しかし、聖霊が、その働きをすることができたのは、彼らが神の御言葉の中に土台を持っていたからでした。あなたは、そのことを覚えていますか?あなたは聖書を徹底的に読んでいますか?神の御言葉を本当に学んでいますか?神のことばがあなたのうちに豊かに住まっている(コリント3:16)と言えますか?もし、御言葉が中に住まっているなら、あなたには霊的な知恵と理解の土台が備わっていると言えます。

これは、イエス様と律法学者の違いでもあることにお気づきでしょうか?律法学者たちは聖書の権威でした。彼らは、聖書の全てが頭に入っている人たちでした。彼らは、聖書に書かれていることをすべて知っていましたが、それは旧約聖書のことでした。誰でも、旧約聖書のどの部分についてでも説明を聞きたいと思ったら、律法学者のところに行きましたが、それは聖書学者は聖書の全てを知っているはずだったからです。さて、イエス様が群衆に向かって話されたとき、主の教えを聞いた群衆の見方は、『イエスは、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられた』(マタイ7:29)というものでした。もちろん、人々は律法学者の方に権威があると思っていました。しかし、彼らはイエス様について、『律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられた』と述べました。イエス様と律法学者の違いは何だったのでしょうか?主には聖書の霊的な理解がありました。一方、律法学者たちにあったのは聖書の文字だけでした。この使徒は、『文字は殺し、御霊は生かす(2コリント3:6)』とも語っています。

さて、そろそろ終わりにしなければなりません。全てがまとめられているガラテヤ人への手紙4章19節に戻ることにしましょう。パウロは何のために働いていたのでしょうか?自分の生涯を何に捧げたのでしょうか?何のために苦しんでいたのでしょうか?ガラテヤ人たちのことで、何をそこまで悩んでいたのでしょうか?いろいろある中から、これでははないし、これでもないと言いながら、ひとつづつ除外していくと答えが残ります。彼は言いました、『あなたがたのうちにキリストが完全に形造られるまで、私は再び産みの苦しみをしています。』彼が、『再び』という言葉を使っているのは、これが二度目です。あなたがたが新しく生まれるために、私は大きな苦しみの中にいたという意味です。あなたがたが真に生まれ変わるのを見るために、私はたいへんな苦しみと痛みを味わってきた。キリストがあなたの中に本当に根を下ろしたことを見るのは、私にとって大きな意味があった。あなたがたの新生は、私にとっての苦しみだった。しかし今から、私はそのすべてをもう一度、味わうことになる。私の本当の目的は、ただキリストをあなたの中に入れるだけではなく、キリストがあなたの中で完全に形造られること、キリストがあなたの中で成長すること、そして、あなたがキリストの中で成長することだった。そして、あなたたちがそれをやめたので、私は今日、再び苦しみの中にいる。あなたがたはキリストを他のものに置き換えている。あなたがたは、キリストの代わりに形式を置いている。キリストの代わりに、単なる教理を置いている。キリストの代わりに律法を置いている。キリストの代わりに律法制度を置いている。パウロは、それが自分を苦悩に陥れると言っています。

これを私たち自身に当てはめてみます。私たちが苦しんでいるとしたら、それは何のための苦しみなのでしょうか?パウロのように、私たちに敵がいて、私たちに対立する人たち、敵対して動いている人たちがいるとしたら、私たちは何のために苦しめられているのでしょうか?私たちの苦しみの本質は何なのでしょう?それは何か、個人的な原因のためでしょうか?彼らは、私たちに敵対して動いているのでしょうか?何かの働きに対して、私たちが妬みを持っているからなのでしょうか?私たちが関心を向けている、何かの場所に対するものでしょうか?私たちの進んでいく道に対してですか?ここで言ったもののどれかでしょうか?それが、私たちの苦しみの理由でしょうか?主よどうか、私たちをこの全てから解放してください。あらゆる霊的な苦しみの真実で確かな理由はただひとつ、キリストが妨げられていることです。いろいろなことが主を妨げてしまうことは確かです。それは主を貶めるものです。そして、それらは霊的な限界を生み出します。私たちのうちにキリストが増し加わることを抑えるものです。私たちのすべての苦しみは、他の何ものでもなく、主イエス様のためであって、『キリストが完全に形造られるまで』続くものです。これが今回、私からあなたがたに残す最後の言葉です。

私はあなたがたの悩みをいくぶんかは知っています。その原因についても、ある程度は知っています。その悩みをこの場で考えてみましょう。あなたがたと私が苦しんでいるのは、この世のことについてでしょうか、それとも、キリストの完全な形成のためでしょうか?私たちの心の中のすべての苦しみは、主イエス様が増し加わることにつながっているでしょうか。それは、主がご自身の居場所を完全に確保するためでしょうか?主が私たちのうちに完全に形造られるためでしょうか。すなわち、私たちはこのような真の意味での苦難――この世の問題から来る苦難ではなく、キリストのための苦難を受けたのでしょうか?あなたがたに尋ねますが、何かで苦しんでいるのなら、そして、苦しまなければならないのなら、何のために苦しんでいるのでしょうか?主イエス様の誉れと栄光を純粋に求めているからでしょうか?これらの信者の一人一人、子供たち、若い男女から、大人の方々に至るまで、一人一人がキリストで満たされるためでしょうか?私たちは、そのための痛みで苦しんでいるのですか。

さて、今週、私たちはいろいろもの対比させてきました。律法主義と霊性、ユダヤ教とキリスト教、そして、その他のいろいろな違いは、このただ一つの問いに集約されます。すなわち、キリストが完全に形造られることです。律法主義は私たちの中のキリストの成長をどれだけ妨げているでしょうか?私たちが自分で考えるやり方は、どれだけキリストの働きを妨げるでしょうか?全てはキリストという問題です。

ですから、私はその問いをあなたがたに託します。これがどれだけ大切なことか、あなたがたに委ねます。あなたがたのもとを去るとき、私はあなたがたにキリストを述べ伝えたのであって、単に聖書を教えただけではないと確信できるようでありたいと願っています。また、あなたがたを主の教会や諸教会の方式にうまく乗せたかったのでもありません。そうではなく、私は常にキリストを完全に視野に入れて、この上もなく大切なこの事実を伝えていました、すなわち、『キリストがあなたがたの中で完全に形造られ、キリストが私たちの中で完全に形造られることです!』

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