2023年5月18日木曜日

『わたしたちが一つであるように・・・』第33回会合

T・オースティン・スパークス
『わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるために』フィリピン、マニラ、1964年
That They May All Be One, Even As We Are One.
Manila Philippines, 1964

第三十三回会合―『剣があなたの心さえも刺し貫く』
Meeting 33 - "A Sword Shall Pierce Through Thy Own Soul"

第三十三回例会
(1964年3月1日午前)

ルカによる福音書の2章25節を開いてください。『そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。』、35節、『剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現われるためです。』35節に34節も加えたいと思います、『この子は、反対を受けるしるしとして定められています。』『剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現われるためです。』

今度は、使徒行伝の最後の章である28章、22節を開いてください、『私たちは、あなたが考えておられることを、直接あなたから聞くのがよいと思っています。この宗派については、至る所で非難がある(spoken against)ことを私たちは知っているからです。』『この子は、反対を受ける(spoken against)しるしとして定められています。』『この宗派については、至る所で非難があることを私たちは知っているからです。』

私たちはイエスの母であるマリアを礼拝したり、祈ったりはしません。マリアが神であるかのように、何かをお願いすることはしません。私たちはマリアを三位一体の神と同列に扱うことはしません。それでも、私たちはマリアを讃えます。私たちがマリアに敬意と栄誉を表すのは、彼女が神に捧げた偉大な奉仕のゆえです。そして、マリアを通じてもたらされたものの中に、私たちは真の助けを見出すのです。御使いやシメオンや他の人々がマリアに語ったことの中に、私たちにとっても大きな価値のあるものがあります。私たちが読んできた御言葉、このシメオンという老人の預言の中にも、大切なことが書かれています。そして、今朝は、このシメオンが語ったことばに込められた、私たちの助けとなる事実を、いくつか引き出してみようと思います。

ここに書かれているのは、シメオンとイエス様の母であるマリアとの会話です。そして、明らかに、マリアは神にとって非常に大きな価値のあるものが自分に託されようとしていることに気づいていました。これは、神ご自身にとって非常に大きな価値のあるものでした。そして、シメオンは、それが世界にとっても非常な価値を持つもの、『諸国の民を照らす光』であると言いました。そして、これは、主の民、イスラエルにとっても大きな価値があるもので、『御民イスラエルの光栄』でした。この全てが今、シメオンの腕に抱かれた小さな赤子につながっていました。そして、マリアは、自分が、ある特別なかたちで、神に仕え、諸国に仕え、主の民に仕えるために神に選ばれたことを悟りました。この小さな子供は、しるしとなるべく定められたのであり、そして、すべての民は、イエス様が表すものを認めるようになります。

マリアは、この偉大な計画のために神によって選ばれた器でありました――御使いが天から降りてきて、彼女が召された偉大な使命を告げました。マリアはどこにでもいる田舎の娘で、夫と二人、ナザレというへんぴな町の小さな家に住んでいました。イエス様が生まれてしばらくして、彼女がエルサレムの町まで来て、この子供を神殿に連れて行くと、そこで会ったシメオンが、こんなすばらしい言葉をかけました、『この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。』このことばを聞いたマリアの心は驚きで満たされたはずです。主が私をお召しになった計画は、なんと壮大なものでしょう!神は、私をなんと大きな目的に仕えるように召されたのでしょうか。私にとっては、あまりにも大きなものです。私は、生まれたときからこの目的に仕えるような力を持ち合わせていません。私はどこにでもいるいなかの娘です。私は小さな町の平凡な大工の妻で、その町は誰も相手にされないような場所です。こう言った人がいます、『ナザレから何の良いものが出るだろう。』それなのに、主は私のような者を、世に対するこの大きな計画のために、主に仕えるように召されました。彼女には恐れもあったでしょうが、これらのことを聞いたとき、間違いなく彼女の心は感動で震えたでしょう。彼女は心の中で、『私がこの働きに召されることなど、あり得るだろうか?』といぶかったのではないでしょうか。ここで、シメオンの腕に抱かれた小さな赤ん坊を見ながら、彼女は心の内で、『小さな赤ちゃん、これほどすばらしいことが、これからあなたを通じてもたらされるのです』と言ったことでしょう。シメオンが語るこのすばらしい言葉。ここに私たちに与えられたのは奇蹟のようないのちに違いない。神様は、あなたを通して、とてもすばらしいことをしようとしている。』このシメオンの言葉に耳を傾けたとき、驚きと感動が彼女の心を満たしました。

このすばらしいことを聞いていると、今度は、この状況を覆う雲が立ち込めてきて、彼女は胸を刺し貫かれるような気持ちになりました。それは、シメオンが、次の言葉で締めくくったからです、『剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現われるためです。』すばらしいもの、力強いもの、貴重なもの、何よりも重要なもの――しかし、それを貫く剣。このようなものでありながら、剣があなたの心を刺し貫くと言うのです。

その後でマリアは、しばしば、その言葉を不思議に思ったことでしょう。しかし、私たちはこのシメオンの預言がどのように成就されたかを知っています。自分の子供が蔑まれ、拒絶され、裁きの場に連れて行かれ、もっとも重い罪で訴えられ、そして、十字架につけられるためにゴルゴタに連れていかれるのを、マリアが見る日が来たのです。マリアはイエス様の十字架の横に立っていたとあります。そう、彼女は、『剣があなたの心さえも刺し貫く』という意味を知ることになったのです。

さて、今朝の話しは短くしなければなりません。あと七分くらいしか残っていません。しかし、おそらく皆さんは、私たちが話したことの意味がもうお分かりでしょう。マリアは、神が世のためにたてられた計画の器として、また、道具として召されたのでしょうか?マリアは、一人の女、どこにでもいる女性で、何の才能もなかったのに、この大きな計画のために神に選ばれました。教会がいつも女性形で語られることをご存じですか?主の教会は、いつも女性として表されます。『夫たちよ。キリストが教会を愛したように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。』教会は常に、女性として語られます。

しかし、キリストの花嫁である教会、小羊の妻であるこの教会も同じ計画のために召され、選ばれています。それは、主の教会を通して、この神のキリストが全世界に現されることです。この器を通して、キリストがすべての国々に対する祝福となり、すべての神の民に対する祝福となることです。マリアが召されたご計画は、教会が召された計画よりも大きなものだったのではありません。あなたがたと私は、キリストの教会を構成する一部分であり、この全く同じ計画のために召されています。パウロは、『私たちは神のご計画に従って召された』と言っていますが、その計画とは、シメオンからマリアに語られた計画と全く同じものです。私たちが召されたのは、諸国の民を照らす光となるため、また、神の新しい霊的なイスラエルへの祝福となるためです。すばらしいことが、教会に委ねられたキリストと結びついています。小さな赤ん坊がマリアに委ねられたように、偉大な永遠のキリストが、主の教会に委ねられています。主は、世界に対するこの偉大な計画のために、私たちに託されています。それはマリアにとって大きな栄誉でしたが、私たちにとってさらに大きな栄誉です。マリアにとってすばらしいことでしたが、私たちにとっても、もっとすばらしいことであるはずです。そう、すばらしいもの、かけがえのないもの、輝かしいもの――しかし、そこには剣があります。

神にとって本当にかけがえのないものには、必ず苦しみが伴います。おそらく、マリアがイエス様について最初に考えたことは――この人は、偉大な有名人になって、誰もがすばらしい人だと認められるでしょう。この子は本当に立派な人になって、誰からも大いに尊敬されるでしょう。全ての人が彼を讃えるはずです――しかし、彼女は、その逆になることを知ります。反対を受けるしるし。そして、パウロの牢獄にいたユダヤ人指導者たちは、『このことについては、至る所で非難がある』と言っていました。

私たちは、この世界におけるキリストの偉大な計画に参加するように召されています。私たちは、神がこの世界のためになされたもっとも大きなことへと召されています。私たちが受ける栄誉と栄光は、マリアが受けたものよりも、劣るものではありません。しかし、私たちは主が受ける苦難の交わりにも召されています。このキリストは真に偉大であり、そして、この主を持つ私たちにゆだねられた栄誉は比類なく大きなものではありますが、不思議なことに、この神にとって何よりも尊いものは、世で広く受け入れられていません――私たちの魂を貫く剣が、いつもあります。そこには常に、反対を受けるしるしがあります。主イエス様の十字架は、誰からも受け入れられるものではありません。人間はそれを広めようととしてきましたが、広く受け入れられてはいません。

ですから、今朝、皆さん、とくにここにいる若い人たちに言いたいのですが、皆さんは非常に大きな計画へと召されているのです。神は、あなたがたを主のための奉仕へと召されたのであり、それは、この宇宙でもっとも大きな奉仕です。神は、ご自身のすばらしい御子をあなたがたの手に託されました。しかし、どれだけすばらしいものであっても、全ての人には受け入れられないことを、覚えておいてください。そこには必ず苦しみが伴います。

あと数分で、皆さんは聖餐の席に着きます。その席は、誰からも受け入れられたものの象徴でしょうか?いいえ、それは、この世界では全く受け入れられなかったイエス・キリスト、そして、その方が十字架につけられたという事実の象徴です。主は言われました、『わたしを覚えて、これを行ないなさい。あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主の死を告げ知らせるのです。』私たちがこの象徴を受けるときに言うのは、『私たちは主の苦しみの交わりにあずかります。』この世で祝福とされるために、剣があなたの魂を刺し貫き、それは、至るところで反対を受けることのしるしです。私たちにも、主の苦しみを共にする恵みが与えられますように。

0 件のコメント: