2023年3月6日月曜日

『わたしたちが一つであるように・・・』第31回会合

T・オースティン・スパークス
『わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるために』フィリピン、マニラ、1964年
That They May All Be One, Even As We Are One.
Manila Philippines, 1964

第三十一回会合―『聖霊は霊的な秩序を作るという特別な目的のために来られた』
Meeting 31 - The Holy Spirit Came Especially for the Purpose of Creating a Spiritual Order of Things

第三十一回例会
(1964年2月28日午前)

今朝、今までいろいろと語ってきた中で、もっとも重要な事実の一つをお伝えするところまで来たと、私は感じています。これまで、ガラテヤ人への手紙の中に、主イエス様の来臨によって引き起こされた大きな変化が凝縮されていることをお話ししてきました。つまり、キリストがこの世に来られて、神の摂理を変え、この世界の本質を変えたということです。つまり、キリストは二つの大きな制度体系を分割する存在なのです。主の来臨まで存在していたユダヤ教という大きな制度は、主が来たときに排除されました。主が言われたように、その時から新しい秩序が導入されたのであり、それは主が繰り返されたみ言葉に表れています、『時が来ます。今がその時です。』さて、今朝はこの大きな分断の基本的な性質を考えてみようと思います。新しい摂理と新しい秩序は、古いものとどのように違うのでしょうか。このことは、受け取りようによっては、今朝ここにいる私たち、そして、すべてのキリスト者にとって、何よりも重要な問題です。なぜなら、私たちが知っているキリスト教は、その大部分がこの古い摂理の上に成り立ってきたからです。古いものと新しいもののあいだの大きな違いは、まだ十分に認識されていません。では、本題に入って、古いものと新しいものの違いを理解することにしましょう。

古いユダヤ教の大きな性質は、その全てが人間が生来、持っている感覚の中にあったことです。第一に、それは肉体的な感覚という領域にありました。全ては肉の目で見て、肉の耳で聞いて、肉の手で触って感じられるものとつながっていました。それは触れることができるものであり、目に見えるもの、その上に手を置くことができるものでした。また、肉的な意味で匂いを嗅ぐことでした。いけにえを捧げ、香を焚くとき、肉的な意味で匂いを嗅ぎました。彼らは甘い香を嗅いでいました。それは肉的な意味で味わうことでもありました。ユダヤ人の祝祭日はすべて、ごちそうを味わう場でした。ここに議論の余地はなく、全く明確で単純なことです。そもそも、彼らの制度は全てが肉的な感覚に基づくものです。

しかし、この制度は、それだけでなく、たましいの領域にも入っていきました。たましいは、理性と感情と意志という三つのものから構成されていると考えられており、これらは、それぞれが生来の理性に訴えるもの、生来の感情に訴えるもの、そして生来の意志に訴えるものです。つまり、肉体とたましいがすべてを支配していたということになります。神は、彼らが目で見て、使うことができる幕屋を与えました。神は、彼らが嗅ぐことのできる香を与えました。彼らが味わうことのできる祝宴を与えました。しかし、彼らはこう言ったものの意味に対して盲目でした。これが、古いユダヤ教の制度にあったすべてのものの本質でした。

では次に、新しい霊的な秩序では、何が違うかを見てみましょう。イエス・キリストと共に入ってきたものの本質とは何でしょうか。それは霊的な秩序にあります。もはや、人間が生来、持っている感覚の問題ではありません。この完全に新しい秩序は、全く別のところから始まります。今、私たちはガラテヤ人への手紙を手元に置いています。今週、ガラテヤ人への手紙を最後まで読んだ人が、何人いますかと尋ねるのはやめておきましょう。神のみ言葉を知ることの利点の一つは、何が正しいのかを理解できるようになることです。他にも多くの利点があります。しかし、このガラテヤ人への手紙には、『御霊』という言葉が十二回も出てきており、これがこの手紙の非常に大きなカギとなっています。これからは、肉によるのではなく、御霊によって生きるということです。ここにおいて、本質的に霊的な摂理の時代が到来したのです。

主イエス様とサマリアの女のあいだの会話について話したことを思い出してください。この女は言いました、「人はこの山で礼拝すべきなのに、あなたがたユダヤ人は、礼拝すべき場所はエルサレムだと言っっています。」『イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。・・・・神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」』これが、イエス・キリストと共に入ってきたものの本質です。私たちが神のみ言葉から、また、私たち自身の経験からも知っているのは、神との関係において人間は肉から生まれるのではなく、御霊によって生まれるということです。人からではなく、御霊から生まれるのであり、御霊から生まれたものは、『霊である』とイエス様は言われました。

ヘブル人への手紙、第12章で、著者は私たちの霊の父について語っています。御父は、私たちの体の父ではありません。私たちが生来、持っているたましいの父ではありません。私たちの霊の父です。このことについては、後でまたふれたいと思います。では、私たちが御霊によって生まれるとき、何が起こるのでしょうか。新生の本質とは、実際に、何なのでしょうか。これは、もちろん、聖霊の降臨の本当の意味とは何かということです。聖霊は、全てのものの霊的な秩序を創り出すという特別な目的をもって来られました。そして、聖霊はこの働きを個人から始められます。一人ひとりに向けられる言葉は、「あなたは新しく生まれなければならない」であり、そして、御霊によって生まれたものは霊です。では、私たちが御霊から生まれると、何が起こるのでしょうか。真に御霊から生まれると、私たちは一組の新しい霊的な感覚を受け取ります。この新しい感覚は、その対象としては、古い感覚と同じものです。しかし、それは霊的な感覚であり、肉的なものではありません。

私たちは、聖霊によって、新しい視力を受けます。新約聖書には、私たちの目が開かれることについて、多くのことが書かれていますね。イエス様は、盲人の目を開くことによって、この原則を指摘されました。イエス様は、この新しい創造において、私たちが新しい視覚能力を得るという偉大な霊的真理を説明されました。そして、真に生まれかわった神の子どもは皆、「私は盲目であったのに、今は見える」と言えるようになります。彼らが最初に、「今は私は見える」と言えるというのが、神の子の真実です。彼らは霊的な視力を得たのです。新約聖書で、この能力はさまざまな名前で呼ばれています。霊的な識別力と呼ばれることもあります。霊的な理解力とも呼ばれます。霊的な知覚とも呼ばれています。しかし、名前は何であれ、意味しているのは同じものです。神から来るものの真の意味について、私には今、前には決して見ることができなかったものが見える。私は生またときは盲目であったが、聖霊は偉大な奇蹟を起こして、私に新しい目を与えてくれた。

この霊的な視力は、完全に新しい世界へと私たちを導いてくれたのですが、それは、物質的な世界ではなく、霊的な世界です。使徒パウロがこのことで何を語っているか、聞いてみてください。彼は言っています、「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神が私たちのために御霊によって備えてくださったものは、みなそうである。」

新生した者が最初に与えられる力は、霊的な視力です。古い摂理と新しい摂理の違いがわかりますか?イスラエルには、生来の目で見ることができるものがいろいろとそろっていました。彼らは、幕屋や神殿を見ることができました。祭司といけにえを見ることができました。祝宴も見ることができました。しかし、彼らはそう言ったものの意味について、完全に盲目でした。そして、その意味に対して盲目だったために、そのすべてを成就してくれたお方を十字架につけてしまいました。彼らには生来の視力はあっても、霊的には盲目でした。ですから、新生における聖霊の最初の働きは、私たちに新しい霊的な目を与えることです。

見ることだけでなく、聞くことに対しても、同じことが言えます。古い摂理の時代には、彼らは生まれたままの耳ですべてを聞いていましたが、彼らの耳は、神の声に対して完全に閉じられていました。それは、彼らの耳の中で響く鼓動に過ぎませんでした。今、御霊による新しい秩序にあって、私たちには新しい聴力が与えられています。私たちキリスト者は、「主が私に語られた」と言うことができます。私たちが、生まれつきの耳で何かを聞いたのではありません。私たちは、「主が私に語られた。主が私の心に語られるのを聞いた」とは、どういうことかを知っていますが、これは、私たちが新しい能力を受けたことを意味します。そして、新しい摂理はこの原則の上に築かれています。イエス様がたとえで話された時、必ず最後にこう言われました、「耳のある者は聞きなさい」(マタイ11:15)。これが、アジアの七つの教会に対する主ご自身の言葉であったこともご存じでしょう。七つの教会に話された後、「耳のある者は御霊が言われることを聞きなさい」と、主は七回、繰り返されました(黙示録2章7節、11節、17節、29節、3章6節、13節、22節)。

しかし、教会へのこの語りかけは、耳に聞こえる声で行われたのではないことを忘れてはなりません。諸教会は、天からの声を生来の耳で聞いたのではありません。それは、『御霊が諸教会に語る』声でした。そして、御霊の語りかけは霊的なものです。肉的なものではありません。このことは、さまざまなかたちで説明できます。霊と霊が話すということがよく言われます。私たちは、神の子に出会ったとき、口で多くを語らずとも、相手が神の子であることがわかります。彼らの霊が私たちの霊に語りかけるからです。私たちには霊的な言語があります。私たちは、皆が同じ家族に属しています。互いのうちにある御霊を見分けることができます。私たちは、霊的な聴覚というこの新しい能力を手に入れました。それは外からの声を聞くのではなく、内側で聞く力です。そして、見ることと聞くことに言えることは、他のすべての感覚に対しても当てはまります。

霊的な嗅覚についてはどうでしょうか。霊的な嗅覚とは何かご存じですか?あなたもどこかに入ると、その場の雰囲気だけで、誰も何も言わなくても、何かがおかしいと感じることがあるでしょう。つまり、そこにあるのはいのちではなく、死であると感じます。そこにいるのは主ではなく、人間です。御霊ではなく、肉です。あなたはそれを霊的な嗅覚で感じ取ります。あなたが、他の誰かに会うとします。あなたが話さなくても、また、相手が話さなくても、あなたはその人の中に疑いがあることに気づきます。その中には偏見があります。その中には、閉ざされた心があります。相手は、あなたに心を開いておらず、あなたを欺こうとしており、あなたに何かを隠しています。どうしてそれが分かるのでしょう?それを嗅ぎとるからです。それが霊的な感覚です。しかし、これは非常に重要な能力です。この能力によって、私たちは何が主から来ていて、何が主から来ていないかを感じ取ります。古い摂理に出てくる香は甘い香りを放っていましたね。とても心地よいものでした。これに対応する霊的な嗅覚能力は、こう感じさせます。これはとても心地よい、これは主にとって非常に心地よいものだ。ここにはいのちを感じさせる雰囲気がある。

すなわち、それは行動の規範です。この世界で悪臭が漂っている場所に行くと、あなたも鼻を押さえてこう言うでしょう。ここから早く出よう。ここは不健康なところだ。あなたの鼻が、熱病から生命を守ってくれるかもしれません。あなたの鼻は、何かの悪い病気から命を救ってくれるかもしれません。そして、霊的な生活においても全く同じことが言えます。もしこの霊的な嗅覚、つまり、霊的に見分ける能力が非常に敏感で生きているものであれば、何がいのちであり、何が死なのかが私たちにも分かるはずです。何が霊的に健全で、何が霊的に不健全なのか、私たちにも嗅ぎ分けることができます。この点は、これ以上、深入りするつもりはありません。私が言いたいのは、新しく生まれるとき、私たちには一組の新しい霊的能力が与えられるということです。そして、古い摂理にあって肉体的な能力が支配していたのと同じように、この新しい摂理の時代に支配するのは、霊的な能力ということになります。

コリント人への第一の手紙を読むと、この手紙が、まさしくこの違いを土台として書かれていることがわかります。コリントのキリスト者たちは、生まれながらに持っている力だけで生きており、霊的な識別力を基準とした生き方をしていませんでした。だからパウロは、彼らに言いました、『生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。』生まれながらの人間が、神の御霊に属することを受け入れられないのは、それが霊的にしか見分けられないからです。パウロは付け加えます、『御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。』そのような人は、世から見れば不思議な人です。霊的な男、霊的な女は、世にとっては謎であり、理解しがたい存在です。パウロはこのことを次のように説明しています、『いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。』あなたと私が互いを人間として理解しようとするなら、私たちは人間でなければならず、人間としての性質を持っていなければなりません。人間以外の被造物が持つ秩序は、人間の秩序を理解できません。人間が互いに理解し合えるのは、人間であるからこそです。パウロも同じように言っています、『神のみこころのことは、その人の中にいる神の御霊のほかにはだれも知りません。』

さて、ここから、おそらくもっとも分かりにくい部分に入ります。ヘブル人への手紙の中で、そのことにふれられています。第4章12節はこのように始まります、『神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。』この節の後半はとりあえず置いておいて、この部分に注意しましょう、『なぜなら、神のことばは生きていて、力があり、たましいと霊、分かれ目さえも刺し通すからである。』この文章の始まり方に注目してください。この一文は、接続詞で始まっています(For the Word of God is living….)。何かからつながっているということです。作者がその少し前で言ったことを受けています。作者は何を言っていたのでしょうか?作者は、荒野にあったイスラエル、そして、イスラエルが約束の地に入れなかったことについて語っていました。こう書かれています、『もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。』彼が言っているのは、肉に従ったイスラエルは神の安息に入ることができなかったことです。神が彼らをエジプトから連れ出そうとした土地に、この民は入ることができませんでした。その世代は、ただ二人を除いて全員が荒野で死にました。神が彼らを贖われた目的である土地に、彼らは入ることがなかったのです。さて、これが前段で述べられたことであり、このような背景があって、これにあの接続詞が続きます。というのは、または、なぜなら、神のことばは生きていて、力があり、たましいと霊、分かれ目さえも刺し通すからである。これ何を意味しているのでしょうか。旧約時代のイスラエルは、生来のたましいだけに基づいて生活していました。彼らは、生まれた時から持っている感覚だけに基づいて生きていました。彼らにとっては、この地上の世界で見て、ふれられるものが全てでした。彼らが生きていたのは、たましいだけの生活でした。そして、これが理由で、彼らはあの土地に入ることができなかったと手紙の作者は言っています。

神の言葉は、たましいと霊のあいだをはっきりと切り分けるものです。新しい摂理、そして、神の目的を完全に満たす新しい民は、たましいに生きる民ではなく、霊に生きる民でなければなりません。その民は、生来、持っているものではなく、霊的なものを基礎として作られた民でなければなりません。このヘブル人への手紙は、古いものと新しいものの違いを表すために書かれたものです。古いものがなぜ失敗したかを示すために、多くの紙数が費やされています。古い律法は失敗し、古い祭司制度は失敗し、古いいけにえは失敗し、古い幕屋は失敗し、古い神殿は失敗します。これが完全に失敗したのは、生まれながらの地盤の上に建てられていたためです。それは、たましいという地盤でした。

新しいものは絶対に失敗しません。この手紙は新しい秩序をもたらすものです。大祭司が天におられる。ただひとつのいけにえが永遠にささげられた、などなど。このすべてが、霊的な秩序です。そして、神のみ言葉が、この二つを分けています。ヘブル人への手紙の最後の12章まで読むと、書き手は言っています。『私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのです。』私たちも皆、同じことを言えるでしょうか。肉の父が私たちを厳しく叱ったとき、私たちはそのことばを敬ったでしょうか?私たちは、肉の父の言葉に感謝などせず、むしろ、非常に強い反感を覚えました。成長して大人になってはじめて、『父の言うとおりだった、あの懲らしめは自分にとって、何より大切なものだった』と言えるようになりました。

しかし、この使徒は言います、『私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。』生まれた時から持っているものは、低いところにあります。霊的なものは、はるかに高いところにあり、それが私たちの霊の父なのです!私たちが生まれたときに、このようになるでしょうか?生まれかわるのは私たちのたましいではなく、私たちの霊です。私たちの存在のもっとも奥深い部分は、アダムとともに死に、アダムの罪の中で神から切り離されました。ですから、アダムの子どもたちはみな、生まれた時から霊的な意味で死んでいます。私たちの霊はアダムとともに死にました。

キリストにあって、この霊は再び生かされます。新生とは、私たちの肉体が生まれ変わることではありません。私たちにはすでにたましいがあるのですから、たましいが新しく生まれるのでもありません。それは、私たちの霊の新生です。そして、神は私たちの霊の父なのです。ガラテヤ人への手紙の中で――これは大きな分かれ目となります――、霊という言葉が十二回も出てくることを、私が指摘したのはこのためです。御父が、私たちの霊の父であるなら、私たちはアブラハムの子供ではなく、神の子供であり、これは非常に大きな違いです。これは、パウロがガラテヤ人への手紙の中で論じていることです。彼はガラテヤの人々にこう言っています、「ああ愚かなガラテヤ人、あなたがたは何と愚かなのか!あなた方は御霊から始まったのに、今は肉に戻ろうとしており、古い摂理、古い秩序から抜け出して、御霊による新しいいのちに入ったあなたがたが、もと来たところに戻って、贖いの目的そのものであったはずの安息を失おうとしている。ああ愚かなガラテヤ人、古い摂理の中に生きるとは、なんと愚かなことだ!』

しかし、愛する友人の皆さん、ここに気を付けていただきたいのですが、私たちが知っているキリスト教は、その大部分が古い摂理の上に成り立っています。このことを詳しく説明するには、もう一時間ほどかかるでしょう。皆さんは、キリスト教の活動がどのように行われるかご存じですか?それは、宗教的な建物を建てることから始まります。その建物は教会と呼ばれますが、まったく偽りの名前です。主の教会とは、人の手で造られた建物ではありません。彼らはその建物の中にある種の秩序を作り出します。そして、その働きをするための役員を任命します。建物ができて、役員、牧師、その他の人員が揃い、奉仕の手順が整って初めて、彼らは、主がそこに入ってくださるかどうかを尋ねます。組織が先です。外面的なことが先です。この全てはたましいという原則の上に築かれます。理性と感情と行いだけ重視されます。これがユダヤ教的キリスト教です。

これは、神様のやり方と完全に逆です。神はどこから始められるでしょうか。神は、それが民の集まりであっても、教会から始められることはありません。主が建物から始めることは決してありません。また、主は儀式や物事の制度からも始めません。また、会衆をひとつに集めることから始められるのでもありません。会衆は、神が何かを始めるところではありません。神は個々の生活における聖霊の働きによって始められます。始まりは一人だけかもしれませんが、そこにもう一人、さらにもう一人とつながって行きます。そして、その二人、また、三人が、お互いが同じ町にいることに気づいたとき、彼らはひとつになるのですが、それは彼らがキリスト教を受け入れたからではなく、彼らの中に同じ一つの御霊がおられるからです。それが、その場所におけるでの教会の始まりとなります。

そして、始まりに真実であることは、その後に起こるすべてのことにおいても真実であり続けます。人の手は、御霊のものにふれてはなりません。人は、聖霊のものを、自分の手で形作ることはできません。聖霊こそが、始められるお方であり、聖霊はご自身が望むものを完全に形作ることがおできになります。ですから、私たちが果たすべき責任は、この御霊に導かれること、常に御霊の導きを求めることです。そして、聖霊が本当に自分を導いていると確信するまで、自分は手を出さないようにします。私たちは、そこに自分の手を加えません。このことは御霊から来たのでなければならない。これがこの摂理の秩序です。

この始まり方と、今日、私たちの世界にあるキリスト教の違いが分かりますか?キリスト教の最初の三十年間、その当時の世界全体に神の福音が広がりました。世界のほとんどすべての国に教会がありました。何千、何万という人々が主とつながっていました。それは力強いものでした。そのすべてが、たった三十年で完成しました。その時から、二千年という時間が経ちました。私たちは、世界中に大勢の宣教師を送り込んできました。そのために何百万ドルというお金が費やされました。私たちは途方もない働きをしてきました。この二千年のあいだに成されたものは、あの三十年間に比べれば、無に等しいようなものです。

なぜ、そのまま続かなかったのでしょうか?それは、人々がすべてを、たましいという土台に戻してしまい、霊的な土台には乗せなかったからです。人間の手から離れ、聖霊の手に委ねられるとき、そこに何かが起こります。私が気にかかっているのは、ここでも、それが起こらなければならないということです。私がここに来たのは、皆さんにこのことを伝えるためです。全てが完全に聖霊から来ていれば、そこに何かが起こり、敵は蹴散らされることになります。それは常に良い兆候です。悪魔が、戦うべき相手がいると感じるとしたら、それは自分の王国に敵対するものがいると気付いたときです。

さて、この辺で終わりにしたいと思います。まだこの話しは終わっておらず、また次の朝の例会もありますが、明日の朝までこのことを考え続けないでください。これは今日の私たちのための言葉です。もし私が明日、どこかへ行ってしまって、地上では二度と皆さんに会えないとしても、皆さんには、ことばで表現できるもっとも重要なことは語り終えたと思います。今日ここでお話したのは、古いものから新しいものへ、神のものにおける生来のものから霊的なものへ、人から来るものから神から来るものへの完全な変化のことです。

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