2022年12月16日金曜日

『わたしたちが一つであるように・・・』第30回会合

T・オースティン・スパークス
『わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるために』フィリピン、マニラ、1964年
That They May All Be One, Even As We Are One.
Manila Philippines, 1964

第三十回会合―『天の支配は悪と善、種の入ったパンと入らないパンを分ける』
Meeting 30 - The Rule of Heaven will Divide Between the Evil and the Good, Between the Leaven and the Unleavened Bread

第三十回例会
(1964年2月27日午後)

マタイによる福音書、第13章33節、『イエスは、また別のたとえを話された。「天の御国は、パン種のようなものです。女が、パン種を取って、三サトンの粉の中に入れると、全体がふくらんで来ます。」』これは御国についての四番目のたとえであり、ひとつ前のたとえと同じように、二つの解釈があります。このたとえ話の意味については、聖書学者たちのあいだでも、かなり意見が分かれています。もっとも一般的なのは、パン種は何か良いものであるという解釈です。すなわち、パン種とは御国の福音であり、そして、御国の福音は悪いものが何もなくなるまで、世界中に広まってゆくという考え方です。この神の摂理にあって、世界全体は実際に、よいものになっていくというのが、もっとも広く信じられている解釈であると言えます。この解釈が広く受け入れられているのは、私たちがそう望んでいるからです。そうであって欲しいと私たちは強く思っています。しかし、それがこのたとえ話の正しい解釈なのでしょうか?

これよりも一般的ではない解釈としては、パン種は何か悪いものであるというものがあります。そして、その悪いものはますます全世界に広がっていきます。これは人気のない解釈で、なぜ好まれないかと言えば、私たちがその考えを好まないからです。しかし、これは、その解釈が好まれるか、好まれないかという問題ではありません。医者がくれる薬は、誰も好きではないので嫌がられますが、正しいものです。また、とても好ましくはあっても、よくないものはたくさんあります。だから、そのことが好かれているかどうかによって、ものごとは決まりません。大切なのは、それが真実か、正しい解釈なのかということです。

私自身は、パン種は何か良いものではなく、悪いものであると言う第二の解釈の方が正しいものと考えます。なぜ、これが正しい解釈であると考えるのかを説明します。聖書を開いて、このパン種という言葉をずっとさかのぼって探してみると、パン種という言葉に最初にふれている出エジプト記の第12章から始まって、コリント人への手紙第一の第5章に至るまで、ただ一つの例外を除いて、パン種はいつも明らかに悪いものであることが分かります。パン種は常に、神が許されないものです。旧約聖書では、神はパン種について非常に注意深く指示を与えています。過越のパンは、種を入れないパンと決められていました。ユダヤ人の家庭では、今日に至るまで、過越祭の前夜に明かりを灯し、妻や母親がほうきを持って、すべての部屋を隅々まで回っては、見つけたパン種を掃きだします。これが、パン種に対して神がとられる態度であると、彼らは信じています。このように、聖書全体を通して、この言葉が使われているところは、すべてとは言わないまでも、ほとんどの場合は悪いものです。

からし種のたとえについてお話ししたとき、一貫性の法則を説明したことを覚えているでしょう。そして、イエス様は教えの中で、決して矛盾することを言わなかったこともお話ししました。ひとつの話しの中で、同じものが反対の意味で使われることはありませんでした。ですから、たとえの中で毒麦(悪い麦)が出てくるとき、その毒麦は敵がまいたものでした。たとえ話の中で、からし種が出てくるとき、その木にとまった空の鳥は、種をまく人のたとえに出てくる鳥と同じ鳥です。種をまく人のたとえで、イエス様は、『空の鳥は悪い者である』と言われました。毒麦のたとえで、その行動を取ったのは悪しき者でした。この一貫性の法則に従えば、このパン種のたとえも、何か悪いものと解釈しなければなりません。イエス様は、この時代の摂理において、この世では悪しきものと出会うことを覚悟しなさいと教えています。

これらのたとえ話は、すべて今のこの時代に関わっていることにお気づきですか。そして、最後のたとえである地引き網のたとえの中で、イエスは、時代の終わりに、御使いたちを遣わし、つまずかせるものをすべて御国から集めさせると言われています。一貫性の法則に従えば、御使いたちがパン種をすべて集めて、焼き払うと言うことになります。さて、この問題について、あなたがたの考え方を知りたいと思います。これらのたとえ話が、主イエス様の再臨によって終わる今のこの時代に関連しているなら、今は全世界が改心しつつあるということになるのでしょうか?本当に、この時代に、世のすべての悪が取り除かれているのでしょうか?福音書にあるパン種が、世界の全てを変えて、その中の悪いものを全て取り除くということになるのでしょうか?今夜、この会場に、そう信じている人はいますか?皆さんに投票してもらったら、間違いなく誰もが、『今日の世界には、かつてないほどの悪がはびこっている』と、言うのではないでしょうか。

最終的な論点となるのは、聖書は、この摂理によって全世界が救われるとは説いていないということです。むしろ、聖書は、『悪人たちは、ますます悪に落ちて行く』と教えています。聖書は教えます、『不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなる。』こうして、私たちは、この第二の解釈のもとへと、引き寄せられることになります。私たちは、聖書が語ることに立ち返ります。パン種は悪を表しており、そして、神に関わることがらにあっては、パン種はどこでも禁じられています。私にはこう述べることしかできませんが、あなたもご自分の聖書をじっくり読めば、これが真実であることがお分かりになるでしょう。

まずは、パン種の性質と働きについて見ていこうと思います。もちろん、皆さんは、パン種とは何であり、何に使われるかは知っていますね。兄弟たちは知らなくても、姉妹たちは知っています。それはパンを作るために生地に入れるものです。しかし、その性質とはどのようなもので、どのような働きをするものでしょうか?まず第一に、パン種は発酵を起こさせるものです。生地にパン種を入れると何が起こるか、見たことがありますか?パン種を入れるまで、生地はただのかたまりです。生地にパン種を入れるまでは、何の乱れもなく、何の動きをありません。しかし、そこにパン種を入れると、その瞬間、何かが大きな変化を引き起こします。すべてが乱されるようになります。このパン種はすべてをかきまわします。ここに酒と同じ原理がありますね。アルコールは、パン種の別の形態に過ぎません。そして、アルコールを摂取すると、興奮が起こることはよくご存じでしょう。内面が乱されるようになります。そして、アルコールを飲み過ぎると、感覚を失い、喧嘩をしたくなり、心に混乱が起こります。時には、家庭を崩壊させます。人生を台無しにします。仕事も台無しにします。まさに、アルコールは呪いです。そして、アルコールとは、パン種の別名に過ぎず、このふたつは同じものです。これがパン種の性質であり、これが、パン種が引き起こす第一の効果です。それを心に留めて置いていただき、また後でこのことに触れたいと思います。

パン種のもうひとつの働きとは膨張であり、ものごとを不自然なほど大きくさせることです。この辺りの市場や教会の外で、風船、何百個という風船を売っている人がたくさんいますね。風船は、目を惹くもので、様々なきれいな色の風船がありますが、その本質とは何でしょうか?薄いゴム膜を取り上げて、息を吹き込みます。息を吹き込んで、どんどん空気で膨らませていきます。そして、小さな鋲を手に取って突き刺すと、破裂して消えてしまいます。それは、人の手で膨張させられたもので、何にも耐えられません。風船は、不自然に大きく膨らませられたものです。人工的に大きくさせたものです。

幼い子供だった頃、私は祖母の家に預けられることがよくありました。そして、金曜の夜、台所ではいつも召使いが次の週に食べるパンを作っていました。彼らは大きな鉢の中でパン生地を作り、その中にパン種を入れ、手と指を使って生地を練りあげると、鉢の底にその生地を寝かせ、上を布で覆って、眠りにつきました。次の朝、私が早起きして台所に行き、その布を持ち上げてみると、生地が容器の縁までふくらんでいました。暗闇の中で生地は膨らみ続けていました。パン生地が何倍もの大きさに膨れ上がったのですが、それを引き起こしたのはパン種でした。また、後でこの話に戻ってくるので、覚えておいてください。

パン種が行うもうひとつの働きは、物を分解すること、ばらばらにすることです。パンの表面には穴が開いていますね。パン種はパン生地を引き裂きます。これによって、パンの塊は、多くの部分に分かれ、たくさんの穴が開きます。パン種は、ものを壊して引き裂きます。これも、後で戻ってくるので、覚えておいてください。

そして、最後の点として、パン種を入れないパンには、味わいがありません。パン種はパンをおいしくするために入れられます。生まれながらの味覚に訴えるようにするものです。パン種の入らないパンはあまり味がよくないので、私たちが好む味にするために、パン種を入れます。それは、私たちの自然な味覚に訴えるものです。

さて、パン種の意味、性質と働きがお分かりになりましたか?この宇宙に、宇宙をかき乱すものが入ってきました。世界中で起こっている恐ろしい戦争のことは、あなたがたも聞かれているでしょうが、すべては、この宇宙に入ってきて世をかき乱す働きによるものです。この宇宙には、人間の性質をかき乱すものがあります。アルコールのように、それは人間たちを互いに争わせるものです。そのために、世界は不穏な状態から抜け出すことができません。それは、人間の悪の本性を刺激するものです。そしてまた、この宇宙に入ってきたその何かは、極めて不自然な膨張――つまり、誤った発展を引き起こします。それがここ数年、私たちが見てきたことです。戦争について言えば、世界を不自然なかたちで発展させようとする試みが行われてきました。不自然な発展や膨張をもたらすものはすべて悪です。

使徒パウロは言いました、『私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。』私たちを自然な状態を超えて大きくするものはすべて悪です。個人の生活であれ、神のための働きと呼ばれるものであれ、それを本当の霊的な計りよりも大きくしようと試みること、本来の霊的な程度を超えて膨らませることは、悪いことであり、それがパン種の働きです。

分裂と分断――不一致をもたらすものはすべて悪です。分裂を正当化するようなことはやめましょう。主の民のあいだの分裂を良いもののように考えることはやめましょう。分裂しているのが、私たちの中の二人だけであったとしても、そのことを言い訳にはせず、こう言うましょう、『これは間違っている、これは悪いことだ、このようであってはならない、私たちを分裂させるために悪いものが働いている。』そして、二人の人間のあいだに当てはまることは、すべての主の民のあいだにも当てはまります。私たちは、分裂を良いことと見てはならず、分裂は悪いものです。そして、神は分裂に反対していることを知らなければなりません。神は、パン種のこの働きを受け入れません。

では、私たちの自然な味覚に訴えるパン種についてはどうでしょうか。パウロはテモテに、『人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集めるような時代になる』と言いました。そして、続けて、真理ではなく、嘘を信じるようになるとも言っています。なぜでしょうか。この教師たちが、生まれながらの人間が好む生き方に訴えているからです。この教師たちは悪を覆い隠します。実際、彼らは悪を善と呼ぶことさえあります。人は、何が悪いかとか、あのことや、このことは神に反していると語る教師を好まないものです。彼らは、パン種を入れたパンを好み、それは肉をよろこばせます。

こういったことが、パン種の働きです。そして、今夜ここにいる人の中で、これまで言ったことが良いことだと考える人はいないと、私は確信しています。すべて悪いことなのです。では、パン種が象徴するものを見てみましょう。この問題について、主イエス様、それから、使徒パウロの言葉に耳を傾けてみます。イエス様は、弟子たちに三つの警告を与えられました。第一に、主は、『パリサイ人のパン種に気をつけなさい。パリサイ人のパン種に気をつけなさい』と言いました。そして、パリサイ人のパン種とは何のことだと言われたでしょう?主は、それは偽善――自分ではない何かを装うこと、全て人の手で作られ、真実ではないもののことだと言われました。パリサイ人を見れば、そのとおりであることが分かります。彼らは、人前で長い祈りを捧げます。哀れな罪人を見て、『ああ、神よ、私はこの男のようでないことを感謝します』と吐き捨てます。自分の前に人を歩かせ、ラッパを吹きながら、ここにすばらしくも義なる男がやってくると宣伝させます。イエス様は、このすべてが偽善であると言われます。すべて偽物であり、不自然なものです。そして、イエス様が他の何よりも嫌ったものがひとつあるとすれば、それは真実ではないもの――本来の自分ではない何かを装って、神の民の中で騒ぎ立てるが、その背後には何もないものでした。実際に、その背後にある人生は極めて矛盾したものです。

そう、これは非常に広い範囲に当てはまり、これこそパリサイ人の原則です。イエス様は、『パリサイ人のパン種、すなわち、偽善に気をつけなさい』と言われました。この偽善というのが、皆さんの言語でどういう意味になるか分かりませんが、聖書が書かれた言葉では、役を演じるという意味です。これは、舞台の上で、俳優がすることです。着飾って偉大な王を演じてはいても、俳優は偉大な王ではありません。それを装っているだけです。あるいは、何か他の誰かの役を演じているかもしれませんが、その人はその誰かではありません。そのふりをしているだけです。それが偽善という言葉の本来の意味です。イエス様は、『神のことでは、他の誰かの役を演じることをしないように気をつけなさい』と言われました。

二つ目の警告は、『サドカイ派のパン種に気をつけなさい』というものでした。さて、サドカイ派とは、御使いも霊も復活も信じなかった人々であると言われています。彼らは、「御使いなどというものはいない、霊などというものはいない、復活などというものはない」と言いました。どういう意味だったのでしょうか。彼らは超自然的な現実をすべて排除しました。彼らは、霊的なものをすべて掃き捨てました。すなわち、彼らは純粋な物質主義者でした。彼らは、今の時間のためにだけ生きていて、その後に何かがあるとは信じていませんでした。彼らは、この世のためにだけ生きていて、別の世界があるとは信じていませんでした。彼らにとっては、自然を超えるものは何もなく、すべては今だけ――物質だけ――この地上の生活にあるものが全てでした。

これは、人生哲学としては、とても都合がよいものです。非常に都合がよいという理由は、将来の審判を受け入れないからです。もし復活がなく、この後に来る別の人生もなく、この後に入る別の世界もないのなら、裁きなどというものも存在しないことになります。裁きがないというのは、とても都合の良い教理です。イエス様は、「気をつけなさい」と言われます。自然を超えたものは存在します。神ご自身は霊であり、この宇宙でもっとも偉大な存在です。この後に別の人生があるのは、私たちが皆、引き上げられるからです。『善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです。』イエス様は言われます、「この偉大な真実を否定する者たちに気を付けなさい。」

それから、主は三番目の警告をされました。主は、弟子たちに、『ヘロデのパン種に気をつけなさい』と言われました。ヘロデのパン種とは、どのようなパン種でしょうか?ヘロデは、この世の偉大な栄華を信じた男でした。彼は、自分の荘厳な姿を見せつけることによって世界を支配していました。すばらしく見えるものはすべて、ヘロデが考えたものでした。彼の治世は地上の栄光の治世でした。しかし、ヘロデに関して、もう一つ、別の面も見えてきます。というのは、この外向きの姿の背後には、腐敗し切った生活がありました。バプテスマのヨハネが、ヘロデの生き方が堕落していると告げると、ヘロデはバプテスマのヨハネの首をはねました。外から見える人生は見せかけであり、内面の人生は完全に腐敗していました。イエス様は言います、「このようなものに気をつけなさい。それはパン種です。それは、神のものには一切ふれてはならないのです。」

ある日、律法学者とパリサイ人たちが、イエス様のところに来て、『ここから出てほかの所へ行きなさい。ヘロデがあなたを殺そうと思っています』と言いました。もちろん、彼らが、イエス様を追い払いたかったのです。イエス様は何と言ったでしょう?「行って、あの狐にこう言いなさい。『わたしは、きょうと、あすとは、はたらきを行い、三日目に全うされます。』」行って、あの狐に言いなさい。狐とは何なのでしょうか?そう、それは、大掛かりな見世物、大きな見せかけをする人のことです。狐は、かわいらしい動物に見えます。しかし、鶏の中に放せば、狐は何が起こるでしょう。その本性は、外見からは想像もつかないものです。イエス様は、『そのパン種に気を付けなさい』と言いました。

さて、パウロが伝えようとしたことにも、ふれておきます。第一コリントの5章に書かれています。コリントの教会で、あることが起こりました。ある男が不品行を行い、その不品行によって教会に悪を持ち込みましたが、教会はそれに対して何もしませんでした。教会は、この男が実際に行った悪い行動を重要視しませんでした。彼らは、この男を留まらせました。この男が聖餐にあずかることすら認めました。その人生の背後に、悪が満ちていた男です。さて、パウロはその男のことで教会に手紙を書きました。パウロが教会に伝えたことは、「あなたがたはこのことをさばかなければならない、この男を排除して、彼が悔い改めるまで、聖餐にあずかることも認めてはいけない。なぜなら、彼はパン種であり、その存在によって教会全体を汚しており、この悪の存在が教会から霊的な力を奪っているからだ。」すなわち、パウロは、『古いパン種を取り除きなさい』と言いました。不品行と汚れが、神の家に入り込むことはゆるされません。ましてや、主の聖餐にあずかることなどできません。そして、パウロは、そのことに対処するのは教会の責任であると言っています。教会がそれを許している限り、その教会は汚されており、神の祝福はそこにはありません。それによって、教会の霊的ないのちと霊的な力が失われることになります。古いパン種を取り除きなさい、そのようなことはすべて、教会における悪の働きそのものです。

さて、この辺で話をまとめて、終わりにしなければなりません。イエス様は、このパン種のたとえの中で、主が再び来られるまで全時代を通して、このようなことが世で起こるだろうと言っています。すなわち、悪がパン種のようにどこにでも広がっていきます。しかし、他のたとえ話でも同じですが、イエス様は種をまく人と種について、三つは悪くなるが、四つ目はとてもよくなると言われました。毒麦のたとえでも同じように、悪い者の働きはありましたが、そこには、御国の子供たちもいました。ですから、このたとえで、主は、これからもパン種が生じ、いたるところで、腐敗と汚れが起こると言われてはいますが、これに対し、新約聖書は次のように教えています。自分自身を清く保ちなさい。あなたがたの下着には汚れがないようにしなさい。この罪に満ちた世界を、その同じ性質を持たない者として歩みなさい。いたるところにパン種があっても、あなたがたは種を入れないパンでありなさい。あなたは世に疎まれるかもしれないし、世は種の入らないパンを好まないだろう。それは肉を喜ばせないが、純粋なパンは神に喜ばれる。そして最後には、神は逆らうものをすべてひとつ所に集める。神は、ご自身に逆らうパン種をすべてひとつに集め、消えない火で焼き尽くされる。しかし、御国の子どもたち、すなわち、種を入れない神のパン、心といのちのきよい者たちを、神はご自身の永遠の御国へと集められる。

天の支配が、悪と善、種を入れたパンと種を入れないパンを分けることになります。これがあのたとえ話の正しい解釈であることに、皆さんも同意していただけると思います。なぜなら、この解釈が、聖書に忠実であり、歴史に忠実であり、私たちが世界で目にするものにも忠実だからです。しかし、ここには、私たちはパン種の入らないものだけを神に捧げなさいという警告も含まれています。

0 件のコメント: