2022年11月24日木曜日

『わたしたちが一つであるように・・・』第29回会合

T・オースティン・スパークス
『わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるために』フィリピン、マニラ、1964年
That They May All Be One, Even As We Are One.
Manila Philippines, 1964

第二十九回会合―『あらゆるかたちの律法主義から真に解放される唯一の方法はキリストを知ること』
Meeting 29 - The Only True Emancipation from all Forms of Legalism is to See Christ

第二十九回例会
(1964年2月27日午前)

引用箇所:ガラテヤ書
引き続いて、この時代の真の性質に関わる大きく根本的な問いについて考えてみたいと思います。それは、キリスト教は律法制度なのか、それとも天から始まった霊的な運動なのかという問いです。私たちは、この問題が当初から非常に激しい戦場となっていたことを学びました。ステパノが殉教したのはこの問題のゆえであったし、その偉大な後継者である使徒パウロはこの戦いにおいて攻撃の的となりました。私たちは、ガラテヤ人への手紙を読んで、この使徒が、この問題について語らなければならなかったことを知ろうとしています。彼自身が論争の中心に置かれていたのですから、私たちも、この使徒について考えなければなりません。私たちは彼の使徒としての働きの源を見てきました。彼は、それを人や、何かの団体から受けたのではなく、イエス・キリストの啓示によって受けたのである――つまり、自分はイエス・キリストと父なる神の使徒であると言いました。そして、続けて昨日は、彼の使徒としての働きの背後にあった大きな危機について考えてみました。

今朝は、彼の使徒としての働きが何から組み立てられているかを考えます。そのために、ガラテヤ人への手紙を読んでみます。1章15節です、『けれども、生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださった方が、異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるために、御子を私のうちに啓示することをよしとされた。』神は、御子を私のうちに啓示することをよしとされた。そして、次に、2章20節にある有名な言葉です、『私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。』

さて、非常に重要なこととして、使徒パウロのこの霊的体験の中に、新しい神の摂理の原則が全て含まれているということを、あらためてお話しします。私たちが、『真のキリスト教とは何か?』と問うとしましょう。その答えは、この男が通った霊的な歴史の中にあり、私たちが生きているこの神の摂理は、この原則の上に成り立っています。つまり、この摂理を成しているのは、パウロの使徒としての働きを成していたものと同じです。自分はそれを人は受けていないし、自分より古くから使徒であった人たちからも受けていないと強調した後、彼はこの問題の核心に迫って、『神は、御子を私のうちに啓示することをよしとされた』と述べています。つまり、この摂理は、イエス・キリストの内なる啓示の上に成り立っているのです。もし、私たちは何の中にいるべきであるかを知りたいと思っているなら、これが答えです。

私たちの真のキリスト者としての生活は、神の御子の内なる啓示の上に成り立っています。使徒パウロは、神の御子の計り知れないほどの重要性を知るようになりました。ここにいるのは、イエス・キリストに完全に心酔していた男です。すべての中に、彼はキリストを見ました。昨日も述べたように、この非常に短いガラテヤ人への手紙の中で、『イエス・キリスト』という名前は、四十三回以上、出てきます。

まず、『神は、御子を私のうちに啓示することをよしとされた』とあります。そして次に、『私はキリストとともに十字架につけられた。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる』のです。そのキリストの十字架で、タルソのサウロという一人の男が消え去りました。十字架は、ある種の人間を消し去りました。そして、復活によって別の人間が生まれたのですが、その別の人間とはキリストのことです。つまり、キリストがタルソのサウロと置き換わったのです。このことは、この摂理全体の土台であり、基本です。パウロが見たのと同じように、私たちがキリストを見たら、どれだけ大きな違いが生じることでしょう。それを想像することすら、とてもできません。

パウロは、ナザレのイエスが誰であるかを知るようになりました。ダマスコへ向かう途上で、彼が、『主よ、あなたはどなたですか?』と言ったときのことを思い出してください。イエス様は、『わたしは、ナザレのイエスである』と答えました。主は、『わたしは永遠の神の御子である』とは言っていません。『わたしは、人の姿をとった神である』とも言っていません。主は、『わたしは、ナザレのイエスである』とだけ言われました。パウロは地に倒れ、無力で盲目となりました。あの栄光の輝きがパウロを地に倒れさせた時、彼がはじめに感じたことは、『この栄光、この力、ナザレのイエスか?これは全て、ナザレのイエスなのか?』というものでした。確かに、私たちにはとても理解しがたいことです。パウロが後に、キリストについて書いたことを覚えていますか?ピリピ人への手紙を書いたとき、彼はイエス様について、『永遠の昔から、神と等しくある方としておられた』と語りました。彼は、『主は神と等しいお方であった』と言っています。そして、後に、コロサイ人への手紙を書いたとき、彼は比類なきキリストの姿を描きました。彼は言っています、『御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子にあって造られ、万物は御子にあって成り立っています。神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせました。』これが、それが、ナザレのイエスです。パウロが神の御子の大きさを理解するようになったことが分かります。

もう一度、考えてみてください。神と等しくある方、御父の意志によって、すべての被造物のための器であり相続人とされたお方、御父の召しによって、すべてのものがその中に置かれたお方、ご自身がすべてにおいて第一となられたお方、などなど。このお方を、パウロ、すなわち、タルソのサウロとその仲間たち、そして、民は十字架につけたのです。肉体を持った神を迫害し、十字架につけた。万物を創造された方を迫害し、十字架につけた。この方がどれほど広大であるかを考えてみてください!そして、ここに、その方を十字架につけている小さな男がいます!自分をそこに置いて、考えてみてください。ナザレのイエスとは誰であるかを知ったとき、この男がどう感じたか、想像できますか?そのような恐ろしいことを自分に行わせた制度から、パウロが解放されたいと願ったのも不思議ではありません。パウロの全存在が、『こんなことができるものから私を解放してください。そんなことをしてしまう制度から、私を逃れさせてください』と、叫びました。この『解放』という言葉がパウロにとって、実に大きなものであったのも不思議ではありません。そして、パウロがこの制度に怒っていたことも、不思議ではありません。この手紙で彼は言っています、『私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。』彼は、同じことをもう一度、言っています。『今もう一度私は言います。』どれだけ怒っていたのでしょうか!この福音は、御子についての神の福音です。あれだけいろいろな目にあいながら、パウロが書いた全書簡の中で、この手紙ほど彼が怒りをあらわにしている箇所は、他には見当たりません。彼の思慮深さも吹き飛ばされてしまったかのようです。彼はどのような妥協も完全に拒否しています。そして、「このような結果をもたらす制度と妥協することは絶対にない」と言っています。

律法主義がキリストを十字架につけ続けるのは、律法主義は、キリスト信仰にあるもっとも偉大な言葉を切り捨ててしまうからです。真のキリスト信仰に入る扉にかかっている言葉とは、『恵み』です。律法主義は、『恵み』を消し去り、『律法』に書き換えるものです。

恵みは、キリスト者の語彙の中で非常に大切なものです。律法主義が最大限に現わされるところでは、空の墓の代わりに常に十字架が置かれることに気づいていますか?キリスト者が胸につける記章は空の墓です。それは、「死者の中からよみがえったいのち」です。律法主義の記章は十字架であり、「死んだキリスト」です。律法主義は常に死をもたらしますが、キリストのことではじめに来るものは復活です。それは死からよみがえったいのちです。神が御子をパウロのうちに啓示することをよしとされたときに、彼はこのことを知るようになりました。そして、この律法主義的な制度から抜け出させてくださいと、彼は言いました。私たちが十字架につけたナザレのイエスは生きている。.主は、私の心の中に生きている方として啓示された。

あらゆる形の律法主義からの真の解放を可能にするのは、キリストを知ることに他なりません。この世の全ての力を集めても、タルソのサウルをユダヤ教から解放することはできなかったでしょう。それを可能としたのは、イエス様を知ることでした。ですから、繰り返しますが、あらゆる形の死んだ律法主義から私たちを解放してくれるのは、主イエス様を本当に知ることだけです。それだけで十分です。あなたが今、何に縛られているかということ――死んだ伝統的なキリスト教、あるいは、その他の種類の束縛であれ――は問題ではありません。本当に主イエスのすばらしさを知れば、あなたは解放されます。私たちは、誰かのところに出かけて、あなたもあれやこれやから、抜け出さなければならないと説くことはできません。それが何であれ、人にそこから抜け出して、こちらに入って来るように諭すというのは、私たちがすべき仕事ではありません。強調しておきますが、それは私たちに課せられた働きではありません。そのようなことをすれば、事態を悪化させるだけです。そんなことをすれば、必ずと言っていいほど、大きな混乱が生じ、めちゃくちゃになります。相手かまわず、すぐにあそこを出て、ここに入らなければならないなどと言う人は、面倒を起こすことになります――それは、主イエス様に栄光を帰することにはなりません。

誰にとってもこの解放を可能にするのは、イエス様を本当に知ることだけです。そもそも、教会について説いて回るのは私たちがすべきことではありません。私が言ったことを聞きましたか?世界を回って教会について説くのは、私たちに課せられた役目ではありません。普遍的な教会でも、地域的な教会のことであっても同じです。私たちは、教会を説いて回ることを命じられてはいません。イエス様を知らなければ主の教会を理解できない理由は、イエス様こそ集団として表現された教会そのものであり、逆に言えば、教会とはイエス様を集団として表現したものだからです。イエス様とは誰であるかを理解しない限り、教会とは何かを理解することはできません。それができなければ、私たちにとって教会は、矮小で限られた非常に排他的なものでしかありません。イエス様はそのような方ではありません。主はなんと偉大な方でしょう!主はなんとすばらしい方なのでしょう!パウロは、『教会は、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです』と言っています。

さて、使徒パウロは、主の教会のことでは、新約聖書の時代のもっとも偉大な教師でした。しかし、彼の教会に関する知識は、神の御子と出会ったことによって得られたものでした。始まりは非常に単純でした。イエス様は言われました、『サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか?』サウロはこう言っていたかもしれません、『主よ、私はあなたを迫害しているのではなく、このキリスト教徒たちを迫害しているだけです。』イエス様はそれに答えて言ったでしょう、『同じことだ。わたしとこのキリスト教徒たちはひとつの体なのだ。わたしの体のどの部分にふれても、わたしにふれることになる。』人間の体であれば、まさにその通りです。靴を脱いで、床の上を歩き、画鋲を踏むとして、画鋲が刺さるのは、かかとの先っちょと、体全体の中でもっとも遠く、もっとも小さい端っこの部分です。それでも、あなたはすぐに足を上げます。痛いからです。なぜ痛みを感じるのでしょう?それは、この体の中でいちばん端っこの場所も、あなたの頭とつながっているからです。あなたが、痛いと言うときは、それは頭で言っています。どういうことかというと、人間の体のいちばん遠い部分に触れながら、頭には触れないということはできないのです。人体の神経系は頭を中心としています。だから、イエス様も言われたことでしょう、『それは同じことだ。わたしの子供のどの一人にでも触れれば、あなたはわたしに触れているのだ。』イエス様にこう言われたときほど、タルソのサウロが、大きな驚きを覚えたことはなかったと私は思います。地上のどこででも、ひとりのキリスト者に手を触れることは、栄光に満ちた神の御子に触れることであるという啓示が、パウロの教会に対する理解の始まりとなりました。

そこに律法的なものは何もはなく、全てが非常に霊的です。本当に主イエスを知れば、私たちは解放されます。私たちの中にもそれを経験した人がいます。律法制度の中にいた時の私たちにとって、その制度自体が私たちが住む世界でした。しかし、主が私たちの目を開いて、キリストの存在の大きさを本当に見る日が来ました。その時、この律法制度全体が無意味なものとなって崩れ去りました。「そこや、あそこから抜け出して、こちら側に入りなさい」と言うのは、私たちに課せられた働きではありません。『しなさい』とか『あなたはしなければならない』という言葉は、この世界には要りません。それは古い律法の世界に属することばです。『しなさい』は、律法的なものではなく、霊的なものとなります。パウロについて言えば、彼の霊には、力強い『しなさい』がありました。私は主を見たし、そして、主とは誰であるか、今もより深く知り続けていて、それが、私の中にこのすばらしい債務を生み出している。『私は、ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、目標を目ざして一心に走っているのです。』だから、私たちは、「あなたたちの制度を変えなさい」とは言いません。しかし、こう言います、「主があなたの中に御子をあらわしてくださるように求めなさい。」そうすれば、解放という偉大な働きが始まります。

神が新しい動きをされるときは、いつも御子を土台として行われることに、皆さんはお気づきでしょうか。まったく新しい働きであろうと、失われた何かを回復することであろうと、神はいつも御子を前面に置かれます。聖書の始まりは、神による新しい世界の創造でした。そして、神は、その全てを御子の中で、御子を通して、御子によって、行われます。御子は創造の代理人であり、創造の道具であり、創造の型でもあります。創造の後で、アブラハムと新たな働きを始めた時は、神はアブラハムの人生を御子を土台として組み立てました。一歩一歩、神はアブラハムを人生の頂点へと導いてゆきました。その頂点とは何だったでしょうか?この言葉でした、『あなたの子、あなたの愛しているひとり子を連れて、全焼のいけにえとしてささげなさい。』それがアブラハムの人生が頂点に達した瞬間でした。彼の人生のすべてがそこに集約されました。その一歩を踏み出した時、アブラハムは神の心の中に入っていきました。『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。』アブラハムとともに始まった神の新しい働きは、神の御子を土台としたものでした。

次の神の大きな働きは、イスラエル民族に対して行われました。イスラエルの民が、エジプトで奴隷にされているときのことです。この束縛からの民の解放は、あの過越の祭り、過越の小羊の血と肉に基づくものでした。神は御子を民族としての生活の始めに置かれました。御子を土台として、この民を束縛から脱出させると、神は御子に基づいて荒野で彼らをひとつにまとめました。荒野に置かれた幕屋は、神の御子を包括的、また、詳細に表現したものでした。それから何年も経って、この民が主から離れ、彼らに対する呼びかけも全て拒まれたとき、神は預言者たちを起こしました。預言者たちのある者は、いずれ起こる捕囚を預言し、またある者は、捕囚の先に来るべきものを預言しました。しかし、この二種類の預言者たちのどちらも、常に主イエスを見据えていました。イザヤ書五十三章は御子と主のしもべが受ける苦しみを、はっきりと描いており、それは捕囚の先に来るものを見越していました。この民の歴史は、いつも神の御子の提示を土台としていたことが分かります。

この世界における神の次の大きな働きは、新約聖書です。新約聖書は、神の子の受肉に始まります。そして、神の御子の復活へと続きます。そこから、さらに進んで、神の子の存在の全てが、教会を通して現されるようになることが示されています。そのあいだも、神の御子が常に目の前に置かれています。神の新しい動きのひとつひとつは、キリストの新たな提示というかたちを取って行われます。黙示録の最初の三つの章で、キリストは教会を以前の霊的な位置に戻そうと試みています。これは、失われたものを取り戻そうと試みる動きです。そのために、第一章では、キリストの比類なさが表現されています。これは、キリストについてのなんとすばらしい描写でしょうか!もう一度、読んでみれば、そこにある細部のそれぞれが、キリストの側面のひとつを描写していることが分かります。そこには、キリストの存在の意義が象徴的、包括的に表現されています。創世記の天地創造から、黙示録の最後に至るまで、神は常に御子を土台として動いていることが、私たちにも明らかにされているのだと思います。

ここで、パウロの話に戻りますと、パウロの存在もまた、神の新しく力強い働きです。その働きとは律法主義による死から民を解放することです。キリストの時代の人々は、イスラエルがエジプトで束縛されていたのと同じように、律法主義に束縛されていました。そして、モーセに向かって『わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしが下って来たのは、彼らを救い出すためだ。今、行け。わたしはあなたを遣わそう』と言われた神、その同じ神が、あの律法主義的な制度に民が束縛され、律法主義のくびきの下で労苦し、重荷を負っているところをご覧になりました。その同じ神が、『わたしが下って来て、彼らを救い出す』と言われました。そしてそのまま、神はパウロの方を向いて、『今、行け。わたしはあなたを遣わそう』と言われました。パウロは、神の民の解放のために選ばれた器です。

神との関りとは、とても大きなものです。そう、その全てが、次のような言葉に集約されています。『神は、御子を私のうちに啓示することをよしとされた。』律法主義という大きな制度に対して、『私はキリストとともに十字架につけられた。』『私が、この世に生きているのは、もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。』これらの言葉は、「キリスト教とは何か?」という非常に大きな問いに付け加えられる新たな一章です。それは神の民の上に課された律法制度なのか?それとも、天から来た大いなる解放の霊的運動なのでしょうか?その答えは、ここにあります、『私たちは本当に主を見たのだろうか?私たちは本当に、キリストの意義を知ったのだろうか?』そうなった時、はじめて私たちは自由な民となれます。今朝はここで終わりにします。主の御心であれば、明日の朝、この大きな問題のもっとも重要な側面のひとつと私が感じていることをお話ししたいと思います。それは、古い摂理と新しい摂理のあいだの真に根本的な違いについてです。ですから、明日までに時間を作って、この手紙をもう一度、読んでみることをお勧めいたします。

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