2022年11月11日金曜日

『わたしたちが一つであるように・・・』第28回会合

T・オースティン・スパークス
『わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるために』フィリピン、マニラ、1964年
That They May All Be One, Even As We Are One.
Manila Philippines, 1964

第二十八回会合―『律法制度と霊的な生活を明確に分けるしるしはイエス・キリストの直接的な啓示である』
Meeting 28 - The Great Distinguishing Mark Between a Legal System and a Spiritual Life is by Direct Revelation of Jesus Christ

第二十八回例会
(1964年2月26日午前)

引用箇所:ガラテヤ書
昨日の朝は一時間以上かけて、多くのことをお話ししたので、その全体をここで振り返ることはとても無理です。ただ、今、私たちが心を向けている大きな問題は何だったか、それだけを思い出していただきたいと思います。それは、キリスト教の歴史の中でもっとも重要な問題のひとつであったと述べました。それは、『真のキリスト教とは何か?』という問題にほかなりません。言い換えれば、『イエス・キリストが世に入られたとき、一緒に入り込んできたものは何だったのか?』ということです。この問いをめぐって、使徒たちの時代には壮絶な戦いが繰り広げられ、その問いの性質上、この戦いは今も続いています!使徒の時代には、この戦いは奇妙なかたちをとっており、ユダヤ教かキリスト教かという争いでした。後の時代には、ユダヤ教とキリスト教という問題ではなくなりました。しかし、それからずっと、そして今日も、原則的には同じことが続いています。その問いかけとは、『キリスト教は律法制度なのか、それとも、天から来た霊的な運動なのか』というものです。

その戦い、その問いかけが、使徒パウロによってガラテヤ人への短い手紙に集約されていたことを、私たちは学びました。そして、ガラテヤ人への手紙はある一節――この使徒が手紙の初めに書いた『私たちが宣べ伝えた福音』という一節に集約されています。そして、この『福音』という語句は、救われていない人たちだけに向けられたものではなく、新約聖書に登場するすべてを包含する言葉であることを、私たちは学びました。これが、始めに考えに入れておくべき、基本的な事実です。これが、福音の包括的な意味です。世や救われていない人たちにとっての良い知らせというだけでなく、神の民にとっても、御子についての神からのよい知らせです。だからこそ、私たちは福音の本質について、しばらくの時間を費やしてお話ししました。

それから、この手紙の内容を考えるためにおさえておくべき、基本的なことがらがもうひとつ、あることを話しました。なぜなら、この手紙は大いに、そのことがら、すなわち、パウロ自身、そして、彼の使徒としての働きの基本の上に成り立っているからです。この手紙が、皆さんの心に刻まれていて欲しいと私は願っています。昨日から、皆さんがこの手紙全体を読み通してくれていたら嬉しいし、また、今週は毎日、この手紙を読むことをお勧めします。そうすれば、私がこれから語ることを理解する大きな助けになるからです。

さて、この手紙に親しんでいる方であれば、使徒パウロ自身がこの手紙の中で非常に大きな位置を占めていることをご存じでしょう。彼は自分自身について、また、使徒としての働きについて非常に多くを語っています。手紙の背後にあるのは、この男自身であることが感じられます。これは、この男が福音の背後にいることを意味しています。この使徒自身の個人的な問題が、大きな場所を占めているのですが、それには目的があるのです。パウロが自分の栄光を求めていることがその目的ではありません。パウロを讃えるためではなく、イエス・キリストを讃えるためです。この非常に短い手紙の中に、「キリスト」という名前が、四十三回も出てくるという事実が、それを証明しています。この点については、あらためてお話しすることにしましょう。

さて、この手紙の中で、この使徒の存在が際立っているのは、彼の時代に起こされた大きな変化について問いかけるためです。この壮大な歴史的、霊的な時代の変化は、このパウロという男へと向けられていました。そうなることを、彼が望んだわけではありません。パウロは間違いなく、そんなことを願ってはいなかったでしょう。彼はこの論争で、自分が注目されることなど望んではいませんでした。しかし、彼を中心に据えようとしたのは、彼に敵対する人たちでした。彼らは、パウロが伝えようとすることを語る権利を妨害しました。彼らは、パウロがをモーセに、モーセがパウロに敵対するものとしました。実際には、神がモーセをいつも、『私のしもべ』と呼んでいたことを、彼らは強調しました。すなわち、聖書では、モーセは主に認められたしもべであり、主の認められたしもべとして、モーセが旧約聖書の全体系を作りました。モーセが律法制度を作りました。そして、モーセは神が語るままに聖書を書きました。神はモーセに何を書くべきかを口頭で伝えました。つまり、旧約聖書は神の言葉によって霊感を受けたものでした。ユダヤ教の制度は、神様の霊感を受けてできあがったことになります。レビ記に見られるような偉大な礼拝制度を、神がお与えになったのはモーセを通してのことでした。

さて、パウロに敵対した者たちは、パウロに対して非常に激しい反論をしたようです。彼らは、パウロがこれらを全て否定していると言いました。しかし、パウロが主張したのは、それはすべて終わったことだということです。その例を挙げます。彼らは割礼という問題に非常に重視します。彼らは、霊感によって書かれた旧約聖書において、割礼は神によって定められた非常に重要な決めごとであると主張しています。彼らが考えるように、聖書は、割礼には意味があると述べています。このパウロという人は、割礼には意味はないとわざわざ語っているのです。こうなると、パウロの考えは聖書と矛盾している――パウロは聖書の霊感を信じていないということになります。彼らはそこから、さらに続けました。パウロの教えを攻撃するだけでなく、パウロ自身を攻撃しました。人が誰かを攻撃するとき、悪い目的のためには、必ず悪い武器が使われるものです。彼らは、攻撃の矛先を、その人が教える内容から、その人自身に変えて、その人格を貶めようとします。パウロの敵がやったことはそれでした。彼らは、パウロは真の使徒とは言えないし、少なくとも、他の使徒たちよりも劣っていると述べました。あの男は、偽の教師である。彼は自分で教えていることが分かっていない。そして、彼は危険な男だ。こんなふうに、彼らはパウロの働きを妨害しようと試みました。

このことから、パウロの存在が、この大きな問題の中でいかに大きな位置を占めていたかがわかると思います――それは、キリスト教の真の性質についての大きな歴史的、また、霊的な問題でした。そして、これらの強力な敵たちが、パウロ自身に強い敵意を向けたことが、パウロから個人的な証しを引き出しました。そして、その証しの中にこそ、真のキリスト教の本質があるのです。その証しの中には、古い瓶を打ち破る新しいぶどう酒があり、また、私たちには、パウロがつぎを当てることをしなかった、全く新しい衣が与えられています。この証しの中に、私たちが住む新しい天の秩序を形作る真実があるのです。ところで、私たちは、パウロの敵たちに感謝しなければなりません。パウロのこの苦難から偉大な光が生まれたのですから、この敵たちには感謝しなければなりません。死んだ律法制度からキリスト教が解放されたことも、この敵たちのおかげです。神は、パウロに対する迫害を、この時代の全体に対するすばらしい利益に変えてくださいました。このようなことはよく起こります。神は、酒ぶねから純粋なぶどう酒を作り出します。しかし、酒ぶねに入れる材料は、砕かれ、つぶされなければならず、それから、御国の純粋なぶどう酒が流れ出てきます。この場合も同じことが起こりました。

ここではっきり理解しておかなければならないのは、これはパウロとユダヤ人のあいだの戦いではなく、伝統と霊性の戦いであったということです。パウロはその違いを見たからこそ、この戦いに身を投じたのであり、自分で知ったことを語っているのです。このことから、私たちにもパウロの個人的な答えが理解できます。

話しを進める前に、ひとつ付け加えておきます。私たちにとって非常に大きなこの問題を語る上で、次のことに決着をつけておくことがたいへんに重要なのです。その問題とは、使徒パウロは、この目的のために特別に選ばれた器なのかということです。使徒パウロは、この摂理全体と特別な関係に立っているのでしょうか?当時から、パウロは激しい攻撃の対象となってきました。自由主義、近代主義の神学者たちはパウロを攻撃してきました。そして彼らが繰り返し言ったのは、「パウロはキリストの真の解釈者ではない」ということでした。聖書に登場する人の中で、使徒パウロほど物議を醸す人物はいません。イエス様を限定的には受け入れる人でも、パウロは全く受け入れません。そして、私たちはこの問題に決着をつけなければなりません。このパウロという人物は、この摂理全体とどのような関係に立っているのでしょうか?その問いに明確に答えることができない限り、私たちはパウロの働きを理解することはできません。なぜなら、パウロの働きはすべてこの一点に焦点を当てているからです。すなわち、イエス・キリストとともに到来した新しい摂理の霊的、天的性質です。

ですから、私たちは今朝の残りの時間を、パウロの使徒としての働きを考えることに費やしたいと思います。これから語ることのに全てにおいて、私たちは次の点を念頭に置いていることを覚えておいてください。その点とは、この時代の霊的、そして、天的な性質です。パウロの使徒としての働きの原則が、この時代の根底部分にあります。さて、そのことを聖書の二つの箇所から取り上げて見てみましょう。ガラテヤ人への手紙」1章、11節と12節、『兄弟たちよ。私はあなたがたに知らせましょう。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。』

第2章6節、『そして、おもだった者と見られていた人たちからは、――彼らがどれほどの人たちであるにしても、私には問題ではありません。神は人を分け隔てなさいません。――そのおもだった人たちは、私に対して、何もつけ加えることをしませんでした。』

さて、この二つの箇所が、あの疑問を解決してくれます。使徒としてのパウロの働きの源は、「人間からは受けなかったし、人間を通して受けたのでもない。私は人からは何も受けておらず、イエス・キリストの啓示によって受けた。」これは何を意味するのでしょうか。

ここでちょっと話題からそれますが、このお願いをあいだに挟まなければなりません。私たちはこの朝の集会をずっと開いていますが、おそらく皆さんはそれを学びのための集会と思っているでしょうし、将来には、特別な主題について学んだ特別な集会として思い出すかもしれませんね。もちろん、学びはありますし、その学びは特定の事実に焦点を当てたものです。しかし、私があなたがたに切実に言いたいのは、私が語っていることは、ただ真理を説明しているのではなく、あなたがたの土台の「証し」であるということです。あなたがた一人一人が立っている土台を試すものです。ですから、これはただ何かを特別に教えるために開かれた一連の会合ではなく、私たちの霊的な地位を厳しく試すものなのです。私たちが言ってきたことが真実であれば、つまり、この摂理の全体が、ある意味で、主イエス様ご自身を別にすれば、他の何ごとよりも使徒パウロの霊的体験に焦点を当てているなら、その場合、パウロの使徒としての働きについて、私たちが語ってきたことが、私たち自身の霊的生活の基本ということになります。

では、このパウロの使徒としての働きの元は、私たちにとって何を意味しているのでしょうか。それが意味しているのは、この時代の基本となる現実は、イエス・キリストとの個人的で直接的な出会いであるということです。このことを繰り返して言いたいと思います。それはおそらく、何よりも重要なことがらであって、他のすべてがそこから生まれるのです。私たちが生きているこの時代の基本となる事実とは、イエス・キリストとの個人的な直接の出会いです。キリストと私たちひとりひとりの個人的な出会いです。人間を通してではない、直接的な出会いです。司祭やその他の仲介者を通した出会いではありません。何かの儀式を通してではなく、何らかの制度を通してではなく、人間を通してでもありません。キリストと私たちのあいだで直接、行われるものです。「私たちにとっても同じです」と言えなければ、私たちはこの摂理が存在する目的を満たすことができません。その出会いがどのように起こるか、パウロと私たちの経験は異なったものであっても、私たち一人ひとりが、個人的にこう言えるようでならなければなりません。すなわち、「私はイエス・キリストに会い、イエス・キリストは私に直接、会ってくれた。人間は助けてはくれたかもしれないが、私はそれを人からは受けなかった。エルサレムの立派な人からそれを受けたのではない。キリスト教の偉大な先生たちから受けたのでもない。私はそれを、主から直接、個人的に受け取ったのだ。」

そこには、全く疑問の余地がありません。私たちにとってはどうなのか、どうすれば分かるでしょう?いくつかの問いを投げかけるだけです。私たちは、今、持っているものをどのように手に入れたのだろう?この疑問を抱えたまま、家に帰る覚悟はありますか?私は、どのようにキリスト信仰を得たのだろう?どのようにして、私は今、持っているものを受けたのだろう?それはどのように私のところに来たのだろう?考え抜いた結果として入ってきたのだろうか?キリスト者としての人生を理性的に考え抜いた結果として、知的な結論に達し、その人生を他のいろいろなものと比較して、その人生が最良のものであるという結論に至ったので、心の中で、これこそ正しい生き方であると決断したのか。それは知性的にたどりついた結論なのだろうか?私は、そのようにそれを受けていたのだろうか?これが、私が立っている根拠なのか?それとも、強い個性を持った誰かによって、もたらされたものだろうか?非常に強烈な個性を持った教師とか指導者がいて、私はその人格の影響の下に入ったのだろうか。それなら、私は誰かの強い個性を通して、それを受け取ったことになる。それが、あなたが立っている根拠なのか?他の人たちの説得を通して行われたことだったのか?誰かが、キリストのもとに来るように勧め、そう言い続け、ついに私は彼らに屈服し、説得に負けて、キリスト教徒になったと公言し、洗礼を受けたのであり、それが私が今、立っている土台なのだろうか。

どのようにして、私たちは今のこの状態に至ったのでしょうか。それが、将来のすべてを決めることになります。遅かれ早かれ、いのちを脅かす力が私たちがいる場所にも圧し掛かってきます。主は、私たちのいる場所が、火の中で試されることをゆるされます。それによって、主は私たちが何を拠り所にしているかを正確に知ることができます。パウロは言いました、『私は、それをどのような集団からも、また、人間からも受けなかった。ペテロは非常に重要な人物だったかもしれないが、私はそれをペテロから受けなかった。ヤコブは主の肉の兄弟であり、知識のある人だったかもしれないが、私はそれをヤコブから受けなかった。ヨハネは愛に満ちた献身的な弟子で、重要な三人の一人だったが、私はそれをヨハネから受けなかった。この人たちは私に何も与えていない。私はイエス・キリストからの直接の啓示によって、それを受けたのだ。』これが、この摂理の基礎なのです。これが真の霊的なキリスト信仰の基礎です。そして、これこそが、律法制度と霊的な生活を分ける大きな違いです。

さて、次の段階として、数分ほどですが、パウロの使徒としての働きの背後にあった危機についても考えなければなりません。私たちは、ずっとこの手紙をもとに考えています。そして、これからも、パウロの証しをもとにお話ししますが、この証しが全ての基本になっています。使徒としてのパウロの働きの背後には、非常に大きな危機がありました。1章13節、『以前ユダヤ教徒であったころの私の行動は、あなたがたがすでに聞いているところです。私は激しく神の教会を迫害し、これを滅ぼそうとしました。』パウロがこのような言葉を発したわけですから、ここは非常に強調しておく必要があります。『ユダヤ教徒であったころの私の行動』、パウロがそんな言葉を発するところを想像してみてください。生まれも育ちもユダヤ人である男、ユダヤ教の中に完全に捕らわれていた男が、こう言った時、どんな顔をしていたか、ぜひ見てみたかったと私は思います――『ユダヤ教徒であったころ、ユダヤ教徒であったころ』、過去の私はそのような生き方をしていたのだ。私は神の教会を迫害し、神の教会を破壊してきた。そして、ユダヤ人の宗教において、同胞の中で多くの同年代の者よりも先んじ、先祖たちの伝統にも熱心に従っていた。皆さんも、これがどれだけ重要なことであったかを十分に認め、そして、このことがパウロ、または、前の呼び名ではタルソのサウロにとって、大きな意味を持っていたことを認識しておかなければ、彼の人生に起こった恐ろしいほどの危機、使徒としての働きの背後にあったあまりに大きな危機を理解することはできないでしょう。

注意すべきは、それは危機であって、成長ではなかったということです。危機であって、前進ではなかったのです。それは、ある時点で、はっきりと起こった出来事でした。この男の人生には危機がありました。そして、その危機は、彼の全人生を、過去にあったものと未来にあるものとに分断するものでした。彼にとっては、それは既存の制度全体の終焉であり、天から来たまったく新しいものごとの秩序の始まりでした。

次に注目すべきことはこれです。これは神がご自身の権威で行った御業ではありますが、昨日も述べたように、イエス・キリストは栄光の御座から立ち上がって、この男のもとまで降りて来られたということです。確かに、これは天が支配する行為でした。しかし、同時に、ここには、神が行動できる、何らかの土台がありました。この男の中に、主が行動する根拠を与える何かがありました。それは、長所ではありませんが、そこには何ごとかがあったのです。それは何でしょうか?ここにいる皆さんに注目していただきたいのですが、神がこの男の中で働く土台を持てたのは、彼が真摯に神と向かい合う気持ちを持っていたからです。タルソのサウロは間違った行いをしてはいましたが、彼は自分の良心の光に従って、そうしていたことを忘れてはいけません。彼は後になって、自分は無知のためにそうしていた、自分は神の奉仕をしているつもりだったと述懐しています。そして、彼の心がどんなに暗くても、彼の行いがどんなに間違っていても、彼は真摯に神と向かい合う気持ちを持つ男だったのです。無知であるがゆえに、彼は神のためにそれを行っていました。彼は、それが神が望んでいることだと信じていました。彼には神に捧げる心があったことが感じられます。そのことは、間違っていなかったのです。主のためになると信じたものに向けられた、彼が自分で言うところの熱心は、非常に強いものでした。この熱心こそ、神が働かれる土台となりました。

よく聞いてください、兄弟たちよ、無関心な人、真剣さのない人は、主とともに大きな働きをすることはできません。何ごとにも強い関心を持たない人にとって、主の存在は大した意味を持ちません。旧約聖書の言葉に、『あなたは、全き者には、全くあられ、きよい者には、きよく、曲がった者には、ねじ曲げる方』というのがあります。私たちが神に対してするのと同じように、神も私たちにされます。もし私たちが無関心で、無頓着で、大して気にかけなければ、主はこんなふうに私たちのもとに来てはくれないでしょう。神様のために非常に大きな役割を果たした男たち、女たちを見ると、初めに非常に深刻な危機があったことが分かります。主は何をしていたのでしょうか?主は、現実の生活の中にこの土台を固めておられました。主は、その人たちを試み、彼らがただ自分の利益や喜びのために主を求めているのか、それとも、主ご自身のために主を求めているのかを見極めていました。

大金持ちであった若者がイエス様のところに来て、言いました、『尊い先生。私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。』そして、イエス様は、まずはじめに、彼をからかうように、『なぜ、わたしを尊いと言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかにはだれもありません』と言われました。ここには、本当の試みがあります。さて、律法に書いてあることは、あなたも知っているでしょう、「心を尽くし、あなたの神である主を愛し、そして、あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」主はまだ、彼の心を引き寄せようとしています。そして、若者は言いました、『そのようなことはみな、小さい時から守っております。』よろしい、それが本当か試してみましょう。『では、あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そのうえで、わたしについて来なさい。何ひとつ持たずに私についてきなさい。一銭も持たずにわたしについて来なさい。名声を捨ててわたしについて来なさい。』永遠のいのちは、あなたにとって、この世で手に入るすべてのものよりも大切ですか?どこに核心があるか、主には分かったんですね、『私は何をしたら、永遠のいのちを受けることができるでしょうか。』なぜ、あなたは永遠のいのちが欲しいのですか?あなたにとって、この世のすべてよりも大切なものですか?永遠のいのちのために、この世のすべてを手放す気持ちがありますか?その若者は、頭を下げ、肩を落とし、静かに背中を向けて立ち去りました。ここで何が大切なのか分かりますか?

主は、私たちが真剣にご自身と向かい合う気持ちがあるか、確かめたいのです。神にすべてを捧げる気持ちを持っていなければ、私たちは何も得ることはできません。私たちの生き方には間違いもあるかもしれません。私たちの心は、盲目で暗くなっているかもしれませんが、それでも、神と真摯に向かい合うことはできます。確かに、それは神の権威による働きではありましたが、そこには、元から主が働ける土台があったのです。熱心は、誤った方向に向けられていましたが、それでも、神には意味あるものでした。主や主から来るものに対する私たちの態度はどうでしょうか。半分、死んでいるような状態ではないでしょうか?私たちは、眠っているのでしょうか?それとも、心の全てを向けて、こう言っているでしょうか、「主が私に望んでおられるものを、できることなら、手に入れてみよう。どんな犠牲を払ってでも、私に対して主が望むものに、私の心は向けられている。」さて、この男の背後にあった危機を考えてきましたが、今朝はここで終わります。もし主の御心であれば、明日の朝、この話を続けたいと思います。

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