2022年9月21日水曜日

『わたしたちが一つであるように・・・』第27回会合

T・オースティン・スパークス
『わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるために』フィリピン、マニラ、1964年
That They May All Be One, Even As We Are One.
Manila Philippines, 1964

第二十七回会合―『キリスト教は地上の律法制度か、それとも、天からの霊的な運動か?』
Meeting 27 - Is Christianity a Legal System on the Earth, or is it a Spiritual Movement From Heaven?

第二十七回例会
(1964年2月25日午前)

この朝の例会で、キリスト者としての生活の中でもっとも重要な事柄について考えるために、私たちは主の助けを求めています。新約聖書は、いくつかの書物からなっています。その中に、キリスト教にとって、これまでに起こったおそらくはもっとも重要な問題に、非常に大きな関りを持つ書物がひとつあります。聖書全体の中では、それほど長いものではありません。どちらかというと、短めの書物ですが、しかし、その小さな空間に、著者はまさしくキリスト教の真髄を詰め込みました。彼は、この大きな問題を解決したいという強い決意をもって筆をとり、この文書を書きあげました。彼は、キリスト教の本質を、この短い書に凝縮しました。この使徒が、これほど大きな重要性と必要性を感じながら、何かを書いたことはそれまでなかったと、私は思います。この手紙からは、この特別な問題に対する著者の情熱があふれ出ています。ある大きな疑問が生じました。その疑問は、キリスト教の本質を破壊しかねないものでした。その疑問とは――イエス・キリストの来臨によってこの世界に入ってきたものとは何か?イエス・キリストがこの世に来られたことで、神が歴史の中に入り込んだのであり、歴史の中に入り込まれた神が、すべてに対して巨大な変化をもたらしたのです。ここに大きな疑問が生じました――イエス・キリストとともに、この世に入ってきたものとは何なのか?それは、古い制度に何かを加えて継続させただけなのでしょうか?古いユダヤ教の制度を基本として形成された律法制度なのでしょうか?言い換えれば、それはユダヤ教に何かを加えて継続させただけなのでしょうか?それとも、天から来たまったく新しく、生きた、霊的な運動なのでしょうか?ユダヤ教という古い衣の数か所に、新しいつぎを当てただけなのでしょうか?それとも、まったく新しい衣に変わるのでしょうか?ユダヤ教の古いぶどう酒の皮入れに、新しいぶどう酒を入れただけなのでしょうか?それとも、まったく新しい皮のぶどう酒入れなのでしょうか?これが大きな疑問でした。

この大きな疑問が生じたのは、この二つの違いがあまりに大きかったからであり、この違いが古いものと新しいものの激しい戦場となりました。この疑問は、キリスト教を混乱に陥れました。ある時期には、ごく一部の人を除いて、誰もがこの問題が何なのか、理解できずにいました。この問題は、主の民のあいだに非常に深刻な分裂を引き起こしました。最初の使徒たちのあいだにさえ、この問題は入り込んできました。十二使徒の指導者であるペテロは、この問題で大きな争いをし、そのために使徒パウロとのあいだに、深刻な対立が生じたこともありました。地上での主の肉の兄弟の一人であったヤコブは、この問題について深刻な懸念を抱いていました。キリスト教の最初の殉教者は、この問いのために死んだのであり、その人、つまり、ステパノはまさしくこの問題のゆえに殉教しました。キリスト教の伝わるところにはどこでも、この論争はついてまわりました。現代に生きる私たちには、このキリスト教の本質という問題をめぐる緊張がどれほど強いものであったか、とても理解することができません。

先ほどふれた聖書の中の書物によって、その時点では、この問題はおおむね決着がついたのですが、この論争は、本質的には私たちが生きる現代までもずっと続いています。キリスト教とは、律法制度なのか、それとも霊的な生活なのか。よみがえって天に昇られた主が、天から突如、現れ、使徒パウロに手を置かれたのは、まさしくこの問題と関わっていました。イエス様は天を抜け出し、栄光を通り抜けて、このタルソのサウルという男に手を置きました。主イエス様は、天におられる大能者の御座の右に着座されていたのですが、そのお方が、この御座から立ち上がってこの地上に戻ってこられたのは、決して小さななことではありません。主は、地上で起こっていたこの争いの中に、非常に深刻な問題があるとみなされたに違いありません。だからこそ、御使いや天使を遣わすのではなく、ご自身が栄光の座を離れて、ダマスコへの途上にいたこの男のもとに降りて来られ、この男に御手を置いてくださったのです。パウロは後に、そのときのことをキリスト・イエスに捕らえられたと表現しています。この「捕らえられた」という言葉の意味をご存知ですか?この言葉の法律的な意味を理解しただけで終わりにしてはいけません。警察官が犯罪者を追いかけて、その犯罪者を見つけると、力づくで捕らえようととします。この使徒が使ったのは、この言葉です。彼は、「私は捕らえられた。私はイエス・キリストに逮捕された」と言いました。そして、このことはあの疑問とつながっていました。主は、この問いへの答えを与えるための道具として、パウロを捕まえたのです。主は、この問いを非常に重く受け止めておられたのであり、主がここで特別に関与されたことが分からなければ、使徒パウロの働きを理解することはできません。使徒パウロの働きの全ては、このただ一つの問題に関連していました。その問題とは、キリスト教の真に霊的で天的な性質です。

パウロは、天からのこの力強い働きかけによって、このふたつの大きな違いを認めるようになりました。古いユダヤ教と新しいキリスト教、古い地上のイスラエルと新しい天上のイスラエルとのあいだに大きな隔たりが生まれたことを、彼は知るようになりました。そして、この二つは明白に異なる国であることを、彼は知るようになりました。彼は、この問題が時代を二つに分けたことを理解するようになりました。過去の時代に存在していたものがこの時、終了したのです。そして、全く新しい真理が導入されて、それが永遠に渡って続くものの本質となりました。使徒パウロ自身がそれを理解するようになったとき、この真理が天から彼の上に突然、開けたとき、つまり、律法的なものと霊的なものとのあいだの大きな違いが見えたとき、彼は『その戦い』に身を投じ、血の最後の一滴まで捧げることになりました。

その戦いは、パウロが救われると、すぐに始まりました。目の前に現れた主と会って、ダマスコの町に入り、バプテスマを受けて聖霊を受けた後で、パウロはイエスがキリストであることを人々に証しし始めました。このお方が自分自身にとって、それが何を意味するかを理解し、自分の立つ位置が変わったこと、すなわち、彼が律法主義という土台、ユダヤ教という土台を離れたこと、彼がキリストという新たな土台に立ったことを認めたとき、この戦いが始まりました。そして、それからは行く先々で、彼の三十年間の人生はこの戦いの中にありました。

使徒行伝の最後の章は、パウロが牢獄で死の宣告を待つところで終っていますが、彼はそこでもまだ戦いの中にいます。ユダヤ教改宗者たちが、彼と同じ牢獄にいます。パウロは、彼らを説得しようと試みますが、後には、「この人たちはだめだ、外国人たちの方に話しをしよう」と背を向けてしまいます。この戦いは、彼の人生の初めから終わりまで、続きました。そして、これはある重大な問いをめぐる戦いでした。すなわち、キリスト教は地上の律法制度か、それとも、天から来た霊的な運動なのだろうか?

さて、初めに私は、新約聖書の中に、この問いへの答えを示した書物があると述べましたが、多くの人はすでに、その書物がどれであるか、もうお分かりになっていると思います。まだ自信がない方のために、答えを言いますと、それはガラテヤ人への手紙です。この手紙は、パウロが書いた最初の手紙であると、今では、広く信じられています。私が若いころは、テサロニケ人への手紙がパウロの書いた最初の手紙だと考えられていました。そして、私も以前は、そう言っていました。しかし、さらに研究が進められて、聖書に詳しい人たちは、ガラテヤ人への手紙がおそらく最初の手紙であると考えるようになりました。今朝、このことをこれ以上、掘り下げるつもりはありません。信じるもよし、信じないもよしです。しかし、もしそれが本当だったとしたら、この使徒が最初に書いた大きな問題がこれであったことは、実に重大な意味を持つことになります。そして、この手紙を読んで、この使徒が手紙にこめた力強さを感じたら、彼がこの問題をどれほど深刻に考えていたか、あなたも理解したことになります。彼は、キリスト教の本質を脅かしていたものの存在に気づいたのです。そのために、彼はこの働きを始めることを決意しました。すなわち、イエス・キリストと共に入ってきたものの純粋に霊的な性質を守るという働きです。

さて、この手紙の内容について考え始める前に、頭に入れておくべき基本的なことがらが二つあります。第一は、この使徒自身がこの手紙で何を言おうとしていたのかということですが、それは第1章の8節に書かれています、『しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。』この手紙の全体がこの一文に集約されています。『私たちが宣べ伝えた福音。』これから語ろうとしているのは、福音の本質であると、彼は言っています。私たちがあなたがたに福音を宣べ伝えると、彼は言っています。そうなると、この手紙は福音を説明し直していると考えることができます。さて、新約聖書が記しているものに対して、さまざまな名前がつけられてきました。多くの人は、キリスト教と呼んでおり、これは広く全体を包み込む言葉です。それはまた、キリスト信仰とか、キリスト宗教とも呼ばれます。新約聖書自体の中では、このような名称は使われていません。新約聖書は、一度もキリスト教という名で何かを語ってはいません。キリスト信仰という名で語ってもいません。キリスト宗教という名でも語っていません。それは、ただ一つの名前で呼ばれています。新約聖書にあるすべてのもの、イエス・キリストとともに入ってきたものは、福音と呼ばれています。

ここで私たちが気を付けて見なければならないことがあります。私たちは福音と呼ばれるものと、信者のためのもっと完全な教えを別のものと考えているということです。多くの人が考える福音とは、救われていない人のためのものであり、救われた人に与えられるのは、何か別のものです。例えば、あなたが週の終わりに福音集会を開くのですが、それは信者ではなく、救われていない人のために開くものとしましょう。この二つを区別するのは、ただ人間的な考えによるものです。新約聖書では、救われていない人のためのものも、救われた人のためのものも、同じく福音と呼ばれています。それは、宗教ではありません。人生の哲学でもありません。それは、真理や実践を定めた体系でもありません。福音そのものです。この言葉の意味は、『良い知らせ』です。この言葉は、例えば、私たちの救いの福音というように、さまざまなものとつなげられています。しかし、ここには、全てを包み込むただ一つのものがあり、それは、『御子、イエス・キリストに関する神の福音』(ローマ1:1~3)です。救われていない人のためには福音、救われた人のためには別の何かというふうに区別するとき、私たちは何をしているのでしょうか?そのとき、私たちは、神の御子という土台を離れて、キリスト教徒のための別の土台の上に乗ったのです。福音は、キリストにあるすべてを包み込むものです。神の御子に関することで、新しい発見がなくなることなど、絶対にありません。私たちはこれからも長い長い時間を通して、さらに多くのことに発見していきますが、それはやはり福音なのです。

あなたは、人が生まれ変わったところで、福音は終わると思っていますか?この世を去って主のもとに行くとき、福音は終わると思いますか?御座の周りに集う数え切れないほどの群衆を見て、その声に耳を傾ければ、彼らは、『小羊はふさわしい方(Worthy is the Lamb)』という福音の賛美歌を歌っています。彼らは神の御子をあらゆる面で完全に理解できるようになったのです。福音とは、すべての時代、永遠にわたって、御子に関する神の福音に他なりません。福音とは、罪からの救いなどよりも、はるかに大きなものです。それは、裁きや死からの解放よりも、はるかに大きなものです。福音は、キリストにあるすべてを包み込むものです。あの使徒が戦っていたのは、この福音のためでした。目の前にいる人たちが、ただ救われるだけでなく、救われて彼らが得るものを理解させるためでした。これが戦場です。彼は、『私たちが宣べ伝えた福音』と言っています。それは突き詰めればどういう意味になるのでしょう?この手紙全体の内容が、この一文に詰め込まれています。福音とは、律法によるあらゆる束縛からの解放です。それは、神の子としての自由への解放です。それがこの手紙の主題、すなわち、律法によるすべての束縛からの解放です。神の子供たちとしての自由への解放です。そして、パウロは、「これが私が宣べ伝えた福音である」と言っています。

この手紙で、パウロは律法主義を奴隷のくびきと呼んでいます。『キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい』と、彼は叫んでいます。彼がここで使った『くびき』という言葉は、イエス様ご自身がマタイ伝、第11章28節から30節で使われたのと同じ言葉です。イエス様は群衆を見渡して言われました、『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。』主は、ユダヤ教の律法主義というくびきの下にいるおおぜいの人々に語りかけました。そのくびきの下にいることは、疲れ、重荷を負うことであると言われました。主が、『わたしのくびきは負いやすい』と言われたのは、ユダヤ教という束縛のくびきから、あなたを解放するという意味です。律法主義のもとでの労苦から、わたしがあなたを自由にしてあげよう。

律法学者やパリサイ人たちは、旧約聖書に対して何千という解釈をほどこしました。彼らはモーセの律法を取り上げて、ひとつひとつの律法に二千もの解釈を与えました。神が言われたことのひとつひとつを、何千という異なった意味に解釈しました。そうして、彼らは神の言葉を取り上げて、それをとても負いきれないほどの重荷とするような解釈を与えてきました。神が、『あなたはこれをしてはならない』と言われたのを、律法学者やパリサイ人たちは、『これは、「あなたはこれをしてはならない、あれをしてはならない、あれもこれもしてはいけない」という意味である』と言うことにしてしまったのです。モーセが、『あなたはこれをしなければならない』と言ったのに、律法学者やパリサイ人たちは、『あなたは、千もののことをしなければならないのだ』と伝えました。イエス様は、『彼らは重荷を縛って、人の肩に負わせている』と言われました。これが、律法主義がもたらしてきたものです。律法制度の下では、あなたも、自分に許されていることが何かを知りません。あなたは、こう問い続けます、「さて、本当にこれをやっていいのだろうか?もし、これをやったら、何かの裁きが下るのではないだろうか?あのようにしなければ、神の裁きを受けることになるのだろうか?」

当時は、全てのことがこんなふうに考えられており、パウロ自身も同じ重荷を背負っていました。彼はそのことをローマ人への手紙、第七章で語っています。そして、その恐ろしい話しを、『私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか』という言葉で終えています。この制度全体が死の制度なのですが、彼は付け加えています、『私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。私は今、キリストの中で全てと出会っています。』これがこのガラテヤ人への手紙の戦いです。これこそ、パウロが福音と呼ぶものです。今朝は二番目のことまでお話しする時間がないので、この辺でやめておきます。それは、この手紙の根底に隠れている第二の基本的な事実です。もし、主の御心なら、明日、それについてお話しします。しかし、走る者には読ませ、読む者は走らせなさいと言うことばがあります。このようなことばかり話すのはやめて、キリストが私たちを解き放ってくれる自由の中へと走り出しましょう。

さて、今朝の例会で、私は非常に大きな問いを提示しただけです。それは、キリスト教、あるいは、イエス・キリストとともにもたらされたものの性質に関する大きな問いかけです。しかし、最後に言っておきますが、私が今、語ったことがすべてだとは考えないでください。これは、始まりに過ぎません。私たちは、自分がどこにいるのか知らなければならず、それはキリストの中です。広い意味では、私たちは解放されています。しかし、それが何を意味するのかを理解しなければなりません。だから、よそへ行って、「まあ、あの男がこう言ってたから」と言うだけではだめです。そうではなく、「このことについて、もっと学ばなければならないことがある』と言うことにしましょう。今朝は、ここまでにしておきますが、ここにあるのは輝かしい福音――キリストにある私たちの解放という福音です。そして、私たちは、誰の手によっても、束縛の中に戻されることを拒否します。

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