2022年8月28日日曜日

『わたしたちが一つであるように・・・』第26回会合

T・オースティン・スパークス
『わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるために』フィリピン、マニラ、1964年
That They May All Be One, Even As We Are One.
Manila Philippines, 1964

第二十六回会合―『あなたはキリストとともによみがえった人ですか?』
Meeting 26 - Are You Risen-Ones With Christ?

第二十六回例会
(1964年2月23日午後)

コロサイ人への手紙、3章1節から4節を開いてください。『もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら。』私たちの聖書では、このように訳されています。しかし、本来、これは質問の形になっているべきなんです。その質問とはこうです、あなたがたは、キリストとともによみがえったのですか?あなたがたは、本当にキリストとともによみがえらされたのですか?キリストが死んだとき、私たちは皆、キリストにあって死んだと、この使徒は言っています。神の前に、主イエス様の死にあって、すべての人が死んだのです。そして、神の前に、本当に生きているのは、キリストとともによみがえった人だけです。主イエス様の生涯に起こったことを、人間たちも経験しなければなりません。イエス様が死に、よみがえったことは歴史的事実です。これは歴史です。イエス様の生涯に起こった歴史的事実が、信者たちにとっても、個人的経験とならなければなりません。この使徒の言い方の変化に注意してください。彼は死については、何も問いかけていません。それを事実として述べているだけです。彼はただ、『あなたがたはすでに死んでいる』と言っています。しかし、もう一つの点、よみがえりについては、次のように問いかけています、『あなたがたは、キリストとともによみがえらされたのですか?神の前に、あなたは確かにキリストの死によって死にましたが、キリストの復活のなかで、あなたも確かによみがえったのですか?』

そう、この手紙の著者は、質問を提起してから、その問いに自分で答えており、この章の後に続く部分がその答えです。彼はここで、『よみがえった人たち』について語っており、よみがえった人たちが何をするか、彼らの立場はどのようなものかを述べています。まず第一に、よみがえった人たちは、非難、裁き、そして、死の及ばない側にいます。非難、裁き、そして、死は、よみがえった人たちから離れたところにあるのです。『こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです』(ローマ8章1、2節)。これがよみがえった人たちが置かれた立場です。さて、先ほどの質問をこの事実と並べて考えてみましょう。非難、裁き、死が目の前にあったら、あなたは、『キリストと共によみがえった』と言えるでしょうか?これがよみがえった人たちが受ける第一の祝福です。ここで問題となるのは、この祝福、つまり、非難、裁き、死が、あなたの前にはなく、全て背後に消え去っているという祝福を十分に享受しているかということです。それがよみがえった人たちが置かれている立場です。

次にこの使徒が、よみがえった人たちについて語るのは、キリストが彼らのいのちであることです。『私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます(コロサイ3:4)。』私たちのいのちであるキリスト!よみがえった人たちとは、キリストを自分のいのちとして持つ人たちです。主のいのちのことでは、主が通った人生が、信者たちの中でも経験されなければなりません!キリストは、私たちの内なる人のいのちです。私たちは、キリストが私たちの中のいのちであることを知っています。主こそが、私たちの霊のいのちです。主は、私たちの心のいのちです。この使徒は、新しくされた心について多くのことを語っています。キリストは、私たちの新しくされた心のいのちとして、それまでは理解できなかったことを理解する能力を与えてくれます。心に、啓示の光があてられて、私たちは今、霊的な理解力を持つようになりました。私たちは新しい心を持っています。キリストは私たちの心のいのちです。

キリストは、私たちの霊と心のいのちであるだけでなく、私たちのからだのいのちでもあります。『もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです』(ローマ8:11)。死者の中からよみがえっただけではなく、今も、私たちの体には神のいのちといえるものがあるのです。御言葉には、私たちのいのちであるキリストとあります。いつか私たちのいのちとなるキリストではないのです――キリストは今、既に私たちのいのちです。キリストは今、私たちの死ぬべきからだの中でいのちとなっています。

これは、私たちが病気など全く知らないということではなく、、主がいつも奇蹟的に私たちの病気を癒してくださるという意味でもありません。この死ぬべきからだにあって、キリストとは、私たちが前に進むよう支えてくれるいのちなのです。多くの病気から立ち直れるのは、主のいのちが私たちの中にあるからであって、私たちは肉体がどれほど弱くても、主の力強いいのちによって進んでいきます。これがよみがえった人たちが受け継いだ遺産です。そして、この使徒は、それに対して、再び問いを発しています。「あなたはキリストとともによみがえったのですか。あなたにとって、キリストは内なる人のいのちですか?あなたにとって、キリストは新しい心のいのちですか?そして、あなたにとって、キリストは、その死にゆく体さえ動かす活力ですか?」よみがえった人たちは、キリストをこのように捉えるべきです。

続けてこの使徒は、よみがえった人たちの行動について話しています――第一に、よみがえった人たちの立場、それから、よみがえった人たちの生活、さらに、よみがえった人たちが取る行動についてです。よみがえった人たちは何をするでしょうか?5節にあります、『地上のからだの諸部分を殺してしまいなさい。』何を言おうとしているのでしょうか?彼は多くの言葉を使って、それを説明しています。最初の言葉は、『不品行』です。よみがえった人たちは、不品行を死に定めます。よみがえった人は、不品行の中に生きることをしません。二つ目の言葉は、『汚れ』です。よみがえった人は、汚れの中に生きることをしません。三番目の言葉は、『情欲』です。よみがえった人は、情欲 の中に生きたりしません。次に来るのは、『悪い欲』です。よみがえった人は、悪い欲に生きることはありません。それから、最後の言葉は、『むさぼり』です。そして、この使徒は言います、「このむさぼりが、そのまま偶像礼拝、すなわち、目の欲のために生きることです。」よみがえった人は、このようなもののために生きません。

そして、よみがえった人たちが、他の人とは全く違う理由を、さらに付け加えています。8節、『あなたがたも、すべてこれらのことを捨ててしまいなさい。』すなわち、『怒り』を捨ててしまいなさい。よみがえった人たちは、怒りの中に生きることはしません。『憤り』を捨てなさい、『悪意』を捨てなさい、『そしり』を捨てなさい、『あなたがたの口から出る恥ずべきことば』を捨てて、『互いに偽りを言ってはいけません。』なぜでしょう?それは、『あなたがたは、古い人を脱ぎ捨てた』からです。古い人に属するこれらのものは全て、主イエス様とともに墓に入りました。そして、よみがえった人たちは、この古い人を、主がそれを置いたのと同じ場所、すなわち、墓に捨て去るのです。

それから、この使徒は言います、『あなたがたは、新しい人を着たのです。』この新しい人とは、よみがえった人たちのことです。これがよみがえった人たちの行動です。とくに11節に注目して欲しいと思います。この新しい人の中では、この使徒が言うように、『ギリシヤ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というような区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。』この使徒は、いろいろな人間の違いを取り上げていますね。ギリシャ人、ユダヤ人、未開人、スクテヤ人など、国民のあいだには違いがあります。これらは国籍の違いです。もちろん、英国人、中国人、インド人、アフリカ人、アメリカ人など、もっとたくさんの国籍をここに加えることもできます。そして、この使徒は、よみがえった人たちには、このような区別はないと言っています。もし、国籍の違いを考えに入れているなら、あなたはまだ墓の向こう側の人です。「ほら、彼はどうせイギリス人だから」と言うなら、あるいは、「まあ、彼はしょせん、アフリカ人だから」とか、「どうせ、彼はアメリカ人だからね」――など言っていたら、あなたはよみがえった人たちの基本的な考えに即していないことになります。パウロは、よみがえった人たちに、このようなことはあり得ないと言っています。

まず第一に、よみがえった人たちにとってキリストがすべてです。キリストはすべてであり、唯一のお方です。そして、『キリストがすべてのうちにおられる』と、彼は言っています。ああ、これはどういう意味でしょう?ユダヤ人、ギリシャ人、未開人、スクテヤ人、アメリカ人、中国人、イギリス人、彼らが主に属しているならば、キリストは彼ら一人一人の中におられます。彼らがよみがえった人たちであれば、キリストはすべての者の中におられます。そして、私たちは彼らを国籍に基づいて知ろうとはしません。ただ、キリストを基準として彼らを知るだけです。

次に、この使徒は、もう一つの区別を挙げています。彼は、『奴隷と自由』と言っています。一方には、社会的な地位の高い人たちがおり、他方には、社会的な地位の低い人たちがいます。一方は主人、一方はしもべです。パウロは、『よみがえった人たちには、このような区別はない』と言っています。よみがえった人たちは、社会的な区別に支配されません。キリストにあっては、優れた者が劣った者を見下すことはなく、また、劣った者が優れた者を憎むこともないのです。私たちは皆、キリスト・イエスにある同じ一人の人間です。キリストがすべてであり、すべての中におられます。

さて、終わりに、もうひとつの点にふれなければなりません。よみがえった人たちの人生の目的とは何でしょうか?その答えは、章の冒頭に書かれています。あなたは、キリストと共によみがえったのですか?これは、次のことによって証明できます――あなたは、上にあるものを探し求めるようになります。上とは、キリストのおられるところです。地上にあるものに心を向けることはありません。あなたの関心は、ただ天におられるキリストを中心とするようになります。もちろん、仕事上の関心はあるでしょうが、あなたはその仕事すら、キリストに仕えるものにするのです。あなたは、自分の仕事について、こう言うようになります、「この仕事は、私の奴隷になるのではなく、これ自体が主イエス様に仕えるものでなければならない。」家族への関心も残るでしょうが、あなたはこう言います、「私の家族への関心は、主イエス様に仕えるものでなければならない。」あなたには社会的な関心もあり、友人たちもいるでしょうが、それは主イエス様の道に従って生きる上で友となる人でなければなりません。あなたが友とする人は、イエス様の友でなければなりません。こうして、よみがえった人は、すべての中心をキリストに置くようになります。

愛する友人の皆さん、遅かれ早かれ、あなたも私もこの地上を去ります。中には、その時はまだずっと先になりそうな人もいるでしょう。私たちは年を取っていき、いつか必ずこの地上を去るのです。この中でいちばん若い人は、自分も年を取ることなど頭にないでしょう。しかし、何かの病気とか事故で、若くして地上を去るかもしれません。しかし、それが早くても、多少、遅くても、あるいは、かなり遅くても、私たちは皆、この地上を去るのです。では、何が重要なのでしょう?その時が来た時、重要になることは何でしょうか?永遠のときにわたって重要になるのは、この地上にいたとき、私たちの中にどれだけキリストがいたのかということです。若い人たちは、「キリストとともによみがえった人として、私はこれから、できるだけ多くのキリストを持つつもりです」と言えなければなりません。そして、「キリストもできるだけ多く私を持つようになります」とも言えなければなりません。キリストがすべてでなければならず、これは、中年になっても、老年になっても変わりません。永遠に入ったときに、尋ねられる大いなる問いとは、「この世にいるあいだ、私たちの中にどれだけキリストがいたのか?」ということでしょう。パウロは言います、「他のあれこれではなく、キリストだけがすべてであり、すべての中におられる。」これが、よみがえった人であるということの意味です。

この全てを踏まえて、彼は言います、「あなたはキリストとともによみがえったのですか?あなたの生活には、キリストとともによみがえったことを示すしるしが、すべて表れていますか?キリストはあなたのいのちですか?あなたの心はキリストのものだけに向けられていますか?あなたは、よみがえった人らしく振る舞っていますか?キリストがすべてであり、すべての中におられますか?」これこそ、私たちがキリストとともによみがえったことを示すしるしです。

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