2022年8月18日木曜日

『わたしたちが一つであるように・・・』第25回会合

T・オースティン・スパークス
『わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるために』フィリピン、マニラ、1964年
That They May All Be One, Even As We Are One.
Manila Philippines, 1964

第二十五回会合―『権力によらず、能力によらず、武力によらず、わたしの霊によってと万軍の主は仰せられる』
Meeting 25 - "Not by Might, Not by an Army, Not by Power, But by My Spirit, Saith the Lord of Hosts"

第二十五回例会
(1964年2月23日午前)

引用聖句:ゼカリヤ書4章
この章の全体がある一節を中心としているのですが、それは第6節です。『すると彼は、私に答えてこう言った。「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の主は仰せられる。』今朝は、この章の背景にある歴史的事実について、時間をかけてお話しするつもりはありません。私がやりたいと思っているのは、この章に現れる霊的な象徴を探ることであり、それは、ここにある霊的な状況は、神の民の歴史の中で、たびたび起こってきたものだからです。ここにある出来事はイスラエルの歴史の中で、一度だけ起こったことですが、同じ霊的な状況は教会の歴史の中で何度となく繰り返されてきました。この話しの霊的な特徴は、次のようなものです。すなわち、主に関わるすべてが大きな挫折の苦しみを味わいました。主の家、主の場所が繰り返しひどい打撃を受け、大きな損害をこうむりました。その経験のため、主の民の多くが背を向けて去って行きました。彼らは、主のための働きをそれ以上、続けることをあきらめてしまいました。彼らは、信仰も希望も捨てました。大多数の人は、「全てはあまりに困難だ」と言って、世にとどまる方が安楽であると決めつけてしまいました。

しかし、この状況は主が願ったものではないと主張した人も、少しはいました。彼らは言いました、「この状況は、完全に間違っており、主の御名を汚すものであって、何とかしなければならない。」この少数派の人々は、神に栄光をもたらすものを取り戻すための主の道具となりました。その中には、仲間を励まして前に進める指導者もいました。本来のあるべき姿を知っていた人たちもいました。指導者たちは、主が何を望んでおられるかを見抜き、その少数の人々を力つけて、主が望むものを手に入れるための働きへと向かわせたのです。これが、この章の霊的な解釈です。そして、このような状況が起こったのは一度だけではないことは、皆さんもご存じだと思います。主から来たものが大きな打撃を受け、主の御名を汚すものが多く現れたため、今では、主の民の多くが戦いをあきらめてしまっています。そして、十字架の後のペテロのように、彼らは言います、『私は漁に出る。以前の生活と昔の仕事に戻ろることにするよ。こんなふうに主に従って生きるのは、あまりにも辛い。』こうして、この多数派の集団は、この世の生活と言う仕事に戻ることに決めました。これは、もちろん、バビロンに留まることを選んだ大勢のイスラエル人のことです。

しかし、その道を選ばなかった少数の人々がいました。彼らにとって主の御名の栄光こそが、何よりも大切なものであり、そのために何かがなされなければならない、主の御名の栄誉を回復するために、自分たちが何かをしなければならないと述べたのです。そして、そこには何をすべきかを理解している指導者たちがいて、この民がそれを行うように後押ししました。今、私が話したことを踏まえて、この話しの全体を読み直してみてください。しかし、そこには非常に困難な点がいくつかありました。

第一に、彼らは比較的少人数の人々でした。そのことは、第十節に示されています。主は言われました、「だれが、その日を小さな事としてさげすんだのか。」この一団は、比較的小さなものでした。そして、この人たちは、「私たちはあまりに小さく、人数も少ないのに、この仕事はとても大きいから、私たちにはこれを成し遂げるの力はない」と暗に語っていました。自分たちの姿を見て、彼らはすっかり落胆してしまいました。彼らには、私たちが先ほど歌ったようには、とても歌えませんでした。『私たちは決して負けない』などとは言えませんでした。彼らには、『私たちはこんなに小さいのに、何ができるのだろう?』としか言えなかったのです。主が、「その日を小さな事としてさげすんではならない」と言われたのは、それまでに何度も、主が小さなものを用いて大きなことを成してきたからです。

ここで、ある大きな思索への扉が開くことになります。ひとつの例を挙げて説明しましょう。ある夜、ベツレヘムに馬小屋と飼い葉桶があり、その飼い葉桶に生まれたばかりの小さな赤ん坊が横たわっていました。ローマ帝国を支配する皇帝は、その小さな赤ん坊を滅ぼしたいと望みました。そして、後にはローマ帝国は国がかりでその小さな赤ん坊から出てきたすべてのものを破壊しようとさえしました。ヘロデは非常に強力な支配者でした。ローマ帝国はとても強大な国家でした。そして、その国全体がこの小さな赤ちゃんに敵対しました。さて、その後はどうなったか、皆さんもご存じでしょう。ヘロデがどうなったかも知っていますね。彼はひどい最期を迎えました。ローマ帝国がどうなったかもご存じでしょう。この帝国はもう存在していません。しかし、あの小さな赤ん坊はどうでしょうか?神は、非常に強大なものを破壊するために、非常に小さなものを使うことがあります。だからこそ主は、この希望を失った人たちに、『その日を小さな事としてさげすんではならない』と言わたのです。使徒パウロも、『神は、愚かな者、弱い者を選ばれた』と言っています。さて、最初に大きな問題となったのは、彼らの数の少なさでした。これに対して主は、「そんなことは、わたしにとって、大した問題ではない」と言われました。

そして、次の困難は、外側からの強烈な敵対があったことです。この特別な出来事について書かれた他の書物、エズラ記やネヘミヤ記を読むと、この民や働きに対して、どれほどの大きな敵対があったかがわかります。それがこの七節が指しているものです、『大いなる山よ。おまえは何者だ。』この民が行おうとしていたことに対して、山のように大きな敵対があり、この大いなる山のような敵対を見て、彼らは、『これでは何もできない』と言いました。しかし、主は言われました、『大いなる山よ。おまえは何者だ。つまるところ、お前は誰なのだ?ゼルバベルの前でお前は平地となるのであり、人がそこに山を探しても、どこにも見つからないだろう。』しかし、当時の彼らにとって、それはあまりに大きな山であり、大きな問題でした。

それから、さらに別の問題もありました。この民は言いました、『私たちには外からの支えが何もない。私たちのために戦ってくれる兵士は一人もいない。私たちを守ってくれる軍隊もない。私たちはただ無力で、無防備な民に過ぎない。』これに対して、主は何と答えたでしょうか。主はただ、こう言われました、『権力によらず、能力によらず』、そして、あなたの聖書の欄外でおそらく訂正されているでしょう。主が実際に言われたことばは、『軍隊によらず、能力によらず』だったからです。あなたには軍隊は必要ないし、あなたには世の巨大な権力も必要ない。というのは、あなたは、その全てよりも大きなものを持っているからだ。だからこそ、主はこの問題に対して言われました、『軍隊によらず、能力によらず、わたしの霊によってと万軍の主は仰せられる。』私たちはここに、二つのものを受けています。全てを補って余りある存在が聖霊です。聖霊は、全くの弱さ、おそろしく強大な山、外からの支えの欠如にも負けないほど大きなものです。聖霊さえあれば、私たちに必要なものはすべてそろっています。

つまり、主は、『あなたが必要だと思うもの、世が必要だと思うもの、そのようなものは大切ではない』と言われたのです。主は、その全てを『それではない』と否定されました。それから、主は、その反対側に、『わたしの霊によって』と記されました。これは、他の全てを超えるものです。

そして、ここで主がご自身を呼んでいる名前に注目してください。『わたしの霊によってと万軍の主は仰せられる。』何か非常に大きな働きが求められるとき、主はいつも、この名前で来られます。ヨシュア記を振り返ってみましょう。主は、ご自身の民であるイスラエルをエジプトから連れ出しました。主は、四十年間の荒野の旅へと民を連れ出し、彼らは最後に、その土地に入って自分のものとしました。しかし、その地は強大な国々に分割されており、その土地にはすでに十の国があって、どれも非常に強い国でした。ひとつ目の都市であるエリコだけを見ても、その国々がどれほど強かったかが分かります。エリコはその土地の入り口に置かれていました。そして、その土地に住んでいた民はどれも皆、非常に強大でした。その土地に送られた偵察は、帰って来てこう言いました、「彼らの目には、私たちにはいなごのように見えたことだろう。彼らと比べたら、私たちは地を這う哀れで小さな生き物のようだ。』しかし、『ヨシュアが目を上げて見ると、ひとりの人が抜き身の剣を手に持って、彼の前方に立っていた。』そのお方が誰なのか分からず、『ヨシュアはその人のところへ行って、言った。「あなたは、私たちの味方ですか。それとも私たちの敵なのですか。」』そして、その人は答えました、『いや、わたしは主の軍の将(Captain)として、今、来たのだ。』ヨシュアは顔を地につけて伏し拝みました。ヨシュアは、次のように言いました、「これでもう大丈夫だ。このことは、私の手に任されていたのではなかった。この土地を征服し、支配するのは私が自分でやる仕事ではない。万軍の主がこのわざを引き受けられたのだ」と。『わたしは主の軍の将として、今、来た。』この人は誰だったのでしょうか。地上に生を受ける前の主イエス様だったということはあるでしょうか?なぜなら、イエス様こそが、主の軍の将だからです。新約聖書で主イエスを呼ぶ名前のひとつに君があります。主は、『彼らの救いの君(The Captain of our salvation)』(へブル2:10後半)と呼ばれています。

主は、この言葉ひとつで、彼らのすべての問題に対する答えを与えたのです、『あなたがたに生まれつき欠けているものがあれば、何であれ、わたしが霊によって補おう。あなたがたは小さな民かもしれない。山のように強大な敵が現れるかもしれない。あなたは自分を助ける軍勢はどこにもいないと感じるかもしれないが、万軍の主であるわたしが、あなたたちとともにおり、わたしの霊によってあなたたちとともにいる。』そう、聖霊と万軍の主がいれば、不可能なことなどありません。この章にある不思議な節に気づきましたか?それは、主の七つの目について語った節です。主の七つの目は喜ぶとあります。ゼルバベルの手にある下げ振りを見て、これらは喜ぶとあります。もちろん、これは何かの象徴に過ぎません。七とはいつも霊的な完全さを表す数です。ですから、これが意味するのは、主の完全な霊的な視点のことです。主はすべてを完璧に見通します。主の目に、くもったところは全くありません。主はすべての状況を御手のうちにおさめています。主はそのすべてをご存じです。

ここに、主がゼルバベルの手に下げ振りがあるのを見て、主の目は喜ぶとあります。これはどういう意味でしょうか?主は、ご自身の栄光を願っている民をご覧になるとき、とても喜ばれ、幸せになります。そして、主が喜んでおられると知ることほど、力を与えられることはありません。愛する友人の皆さん、主が喜んでおられると感じられたら、あなたたちもどれほどの喜びで満たされることでしょう!主が何かに喜んでおられると知ることは、私たちにとって、なんと大きな力となるでしょうか!主がそこにおられると知りさえすれば、私たちは何でもできます。私が参照したもう一冊の書であるネヘミヤ記で、ネヘミヤがエルサレムの城壁を再建したこと、そして、この働きに対抗するたくさんの敵がいて、ネヘミヤが民に向かって、『あなたがたの力を主が喜ばれる』(ネヘミヤ8:10)と言ったことを覚えているでしょう。人に力を与えてくれるのは、その働きを主が望んでおられ、主がその働きを喜ばれると知ることです。繰り返しますが、主があなたがたの側にいると知ることは、常に大きな力となります。主がすべてを見渡して、その状況をすべて把握されるとき、主の目には喜びが宿ります。主の顔には喜びが浮かんでいます。主は言われます、『これこそ、わたしの望むものだ』と。そこに主がいないと知ることほど、私たちから力を奪うものはありません。ご自身が望んでおられるものを主が見るとき、それは私たちにとっても、強さをもたらします。

さて、ここからはこの章全体が伝えている内容を考えてみます。今まで話してきたことに照らしてみると、このことが成されるとするならば、それは主だけができることであり、主だけがなさることです。もし、ここに出てくる民が、膨大な数の集団であったら、民の数だけを見れば、これは自分で大きなことを起こす日だったでしょうし、仮に彼らに強大な軍隊が付いていて、この働きをするために送られてきたら、どうなっていたでしょうか?彼らは、こう言ったでしょう、『よし、私たちはこんなに大きな集団で、こんなに強力な援軍もあった。だからこそ、これが可能になった。こうして、私たちはこの働きをやり遂げたし、それを成し遂げたのは私たち自身だ』と。主はそのような考え方を認めません。主は、すべての栄光をご自分にもたらすものを望んでいます。ですから、ここにあるのは、人によるものではなく、ただ主おひとりによるものの証しです。親愛なる友人の皆さん、これが永遠に変わらない真理であることを覚えておいてください。主との関係において、あなたも私もが自分自身でできることは、何ひとつありません。どれだけたくさんの群衆であっても、自分たちだけでできることはひとつもありません。それが、主の栄光に関することであれば、主以外の誰にもできません。あなたは今まで、自分で自分を救おうとしたことがありますか?自分で救いを得ようとしたことがありますか?それが全く不可能であることを、あなたは知っているはずです。それを行うことができたのは、ただ主おひとりでした。あなたはこれまでに、キリスト者としての生活に入り込んでくる困難や敵意に、自分の力で立ち向かおうとしたことがありますか?自分ではできないことを、あなたは学んできたことでしょう。主があなたの中に力を注いでくださらなければ、あなたは崩れ落ちてしまいます。これは主の働きにおいても同じことです。主のための働きは、人が生まれながらに持っている力では決してできません。主は、ご自身がすべての栄光を手にされるのでなければ、何も受け取りません。それが、この章が私たちに教えていることです。このことや、あのこと、他のどうでもよいことではなく、わたしの霊であると、主は言われます。このことが、わたしから来るのでなければ、どこからも来ることはない。主に最大の栄光をもたらすものとは、主だけに帰することができるものです。

しかし、気を付けてください。もし、このことが起こるなら、主がそれをなさるなら、主がすべての栄光を受けるなら、それが主以外の誰にもできないことであるなら、それは純金の器の中で起こらなければなりません。燭台、または、ろうそく立てがこの章に出てくるのはそのためです。この預言者は純金の燭台を見ました。それは、主のあかしの器の象徴です。この燭台から発する光は、主の証しであり、主の証しは純金の器に入っていなければなりません。今、私たちは物質的なことについて話しているのではありません。ここでは象徴の話をしているのです。ここでいう純金とは何でしょうか?その中に混ざり物のない器です!主のものでありながら、人のものでもあるような器ではありません。主のものでありながら、世のものでもあるような器ではありません。部分的には主の御心でありながら、自分の意志も入っているようなものではありません。そう、そこにあるのは主だけであり、何の混じり気もないもの――純金の燭台です。

この燭台はどのようにしてできたのでしょうか。幕屋に置く燭台の作り方を調べてみると、主は燭台について二つのことを言っています。一つは、全部が一体になっていなければならないこと、もう一つは、槌で打って作ったものでなければならないことです。ここに、主に仕えるもの、主に本当に栄光を帰すもの、主を喜ばせるものについての二つの原則があります。器は一体になっていなければなりません。これが意味するのは、外からたくさんの破片を持ってきて、つなぎ合わせてはいけないということです。自分の腕で誰かをつかまえて、「さあ、こっちに来て、仲間になりなさい」などと言ってはいけません。これは、外から雑多なかけらを集めてきては、それをつなぎ合わせることです。それは、工場で行なわれることです。主がこのような原理に則って働くことはありません。さて、私が言っていることをよく注意して聞いてください。私は、本当に神から来ているものに共通する基本原則をお話ししているのです。これは、神がご自身の証しの器について語っていることです。器は、互いに関わりのないかけらを、寄せ集めたものであってはなりません。そこには、基本的で根本的な一体性がなければなりません。他の人たちを安易にそこに混ぜこんではいけません。この一体性は、神がすべての人の中で行われたことの結果として生まれたものでなければなりません。この働きに関わる全ての者は、同じ視点を持たなければなりません。すべての者が、神が望んでおられるただ一つのことを見ていなければなりません。それは、使徒パウロが、『神の永遠の目的』と呼んだものです。このように主に仕えようとする者は、皆が同じ一つの視点を持つことが必要です。もし責任を持つ二人の兄弟、ただ二人の兄弟が、同じ視点を持っていなかったら、働き全体を分裂させてしまうかもしれません。まず第一に、責任を負う者たちが、この一体性を備えていなければなりません。彼らは一つのものを見ています。彼らは一つの心、一つの霊を持っています。そして、これは、主の証しに関わりを持つすべての人々も同じでなければなりません。私たち全員が同じものを見ていることが絶対に必要です。私たちは皆、同じ視点を持っています。そして、私たちが皆、同じ霊を持っているということは、私たち全員が一体となっており、多くのかけらが寄せ集められているのではなく、一つのかたまりを成しているということです。

さて、主が言われる二つ目の点に注目してください。この燭台は、槌で打って作るものでなければなりません。ここに、大きな金の塊があります。この金塊を、証しの燭台へと成形しなければなりません。どうすれば、それができるでしょう?そのために使われる二つの道具、または、器具があります。一つは切るためのなたであり、もう一つは打ち叩くための金槌です。燭台は打ち叩いて作られることになります。つまり、訓練、そして、苦しみの中から形成されるわけです。この証しの器は、繰り返される打撃の結果、つまり、苦しみの結果として生まれます。使徒パウロが、『私は、キリストを知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って・・・・』(ピリピ3:10)と言ったのは、このことを意味しています。さて、パウロは偉大な証しの器でしたが、この男に、なたと金槌がどれだけ打ちおろされたか、考えてみてください。彼はいたるところで打ち叩かれたようです。彼は、吊り上げられ、また、叩き付けられました。彼の上には、何度となく、金槌が打ちおろされました。さて、この章には、苦しみを経験した人々が登場します。彼らも生きていく中で、何度も槌で打たれました。しかし、主は彼らを生きた証しの器として用いようとしていました。このことが、多くのことを説明してくれます。主が私たちにされていることを、あなたは理解していますか?主があなたや私にしようとしていることを?私たちも、何度なく槌で叩かれてきました。自分が粉々に砕かれるでのはないかと思ったこともありました。しかし、実際には、主は私たちを叩くことで、ひとつにしてくれました。主は、私たちをバラバラにするのではなく、ひとつにされました。これこそ、苦しみと鍛錬が生んだ成果です。そこにあるのは、純金の器でなければならず、そして、逆境から引き出された証しでなければなりません。

さて、最後にひとつだけ言って終わります。この章にある二本のオリーブの木を覚えていますか?これはとても美しい光景で、理解を助けてくれるものだと思います。燭台の両側にオリーブの木があり、この二本のオリーブの木が油を燭台に注いでいました。この二本は油の貯蔵庫ではなく、たくさんの油を貯めておく容器でもなく、生きている木であり、そこから尽きることなく油が供給されてていました。これこそ、主が言われた『わたしの霊によって』ということばの意味です。「苦しみを通り抜けてきた器のために、金槌で叩かれてきた器のために、逆境の火の中で純粋なものにされた器のために、わたしの栄光だけに捧げられた器のために、わたしは尽きることなく与えることができる。わたしの備えは、決して途絶えることがない。」

生きているこのオリーブの木は、いつまでも油を注ぎ続けます。この章に描かれているのは非常に美しい光景であり、霊的な体験に対してもそのまま当てはまることに、あなたがたも同意してくださるものと思います。ご自身の望みを実現するために主が働かれる道、そして、主の恵みの尽きることのない備え、それが私たちためにあるのです。愛する友人の皆さん。ですから、私たちがここで表したのは、神の力と恵みがどれだけ大きなものかという証しです。これこそ、主が私たちに望んでおられることです。主がご自分の民に望んでおられることは、ご自身が純金の燭台を持つことですが、その燭台とは、苦しみを通して主ご自身が用いるように変えられた人たちであり、主ご自身の望みのために備えられた力と恵みを知るようになった人たちのことです。『権力によらず、武力によらず、能力によらず、わたしの霊によってと万軍の主は仰せられる。』

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