2022年7月16日土曜日

『わたしたちが一つであるように・・・』第24回会合

 T・オースティン・スパークス
『わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるために』フィリピン、マニラ、1964年
That They May All Be One, Even As We Are One.
Manila Philippines, 1964

第二十四回会合―『聖霊は、神が持つすべてに対する力強い欲求を私たちの内に生み出す』
Meeting 24 - The Holy Spirit Creates In Us Tremendously Strong Desire For Everything God Has

第二十四回会合
(1964年2月22日午後)

今夜は、先週の土曜日の夜(第十九回会合)に終わったところから続けてお話します。あの時、読んでいた箇所をもう一度、開いてください。ヨハネの福音書、16章7節、『しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。』13節、『しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。』14章に戻って、16節、『わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。』そして、17節、『その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。』そして、使徒の働き、第19章2節、『信じたとき、聖霊を受けましたか。』

非常に重要なこの聖霊という問題について、もう少しお話しします。この時代にもっとも強く求められていることとは、私たちがよく知っているものごとの偉大さをあらためて認めることです。私たちの普段の生活の中には、非常にすばらしいものなのに、当たり前のように思いこんでいるものがたくさんあります。今、私の目の前には五本のマイクロフォンがあり、このマイクロフォンを通して、何マイルも離れたところにいる人々が、私が語るのと同じ瞬間に聞くことができます。このマイクロフォンがそうでかは分かりませんが、この街で誰かがマイクロフォンに向かって話すと、その瞬間に三千から六千マイル離れたところでその声を聞くことすらあり得ます。一時間も三十分も、五分すらかからず、地球の裏側で、誰かが話していることが、別の人に聞こえるのです。こんなことを話してみても、皆さんの顔には、何とすばらしいことだろうと感嘆する表情は浮かんでいませんね。ありふれたことになってしまって、私たちにとっては、もう当たり前のはなしです。日常生活の中には、これと同じようなことがたくさんあります。

初めて自動車が街角に入ってきた日のことを私は覚えていますが、せいぜい時速四マイルくらいの速さでした。それでも、ものすごい騒音を立てて走り、みんな家の中に逃げ込んだものでした。さて、今では外を走っているのを見ても、自動車が大したものだなどと思いません。どこにでもあるので、当たり前としか思わなくなってしまったのですが、生活の中には、このようなものがたくさんあります。あまりにも身近な存在であるがゆえに、すばらしいと思う感覚を失っているのです。今の私たちは自動車を見て、「ああ!なんてすごいものだ!」と驚いたりしません。ただの自動車であり、それ以上の何ものでもないのです。さて、これと同じことが、宇宙におけるもっとも大きなものごとについても言えるようになっています。

キリスト教の始まりの時代、世界は使徒たちの説教に驚き、衝撃を受けました。彼らが日々、語ったことが、まさに世界を震撼させたのです。ある人々は、「世界をひっくり返す男たちが来ている」とさえ言いました。彼らの言ったことは、まさしく世界を転換させようとしていました。もちろん、私たちとしては、「彼らは世界を正しい方向に動かしていた」と言うべきです。しかし、人々は使徒たちが語ったことばを聞いて、そのように感じたのです。私たちは、同じことを言われても動揺しないし、何度も聞いているので、考えがひっくり返されることにはなりません。同じ話しを毎日、毎週、聞いていたら、そのことで動揺するようなことなどありません。使徒たちがあの当時、語ったはなしのことです。そのことが当時の世界に与えたような影響を、今の私たちが受けることはありません。私たちはそのことをよく知っています。私たちは、そのことにすっかり馴染んでいます。それを聞いても、驚くべきものと感じたりはしません。私たちが同じことを語っても、世界が動揺することもありません。おそらくそれは、私たちにまったく驚くにはあたらないことなのでしょう。

私たちがよく知っているこのことは、この宇宙に生成したもっとも大いなるものです。しかし、実際には、キリスト教はあまりにも小さく、あまりに単純で、あまりに安っぽく、あまりに大衆的なものとなってしまったのです。今晩、ここに集まった私たちは、そのようなことがらの一つについて考えています。それは、この世界に起こったもっともすばらしい出来事の一つです。天からの聖霊の到来のことです。皆さんはこの聖霊の降臨のはなしを読んだことがあると思いますし、その当時、それがどのような意味を持っていたか、よくご存知でしょう。この二十四時間のあいだに、この辺りで大きな火事がありました。街中がその話しでもちきりです。おそらく国中がこの火事のことを話しているでしょう。おそらく、世界の他の地域の新聞にもその知らせは届いているでしょう。しかし、その火事も、聖霊の到来に比べれば、何の意味もないことです。この火事は、数時間のうちに鎮火されていて、ひどい被害があったとしても、せいぜい数時間のうちに消し止められたのです。五旬節の日にエルサレムに入った火は、二千年のあいだ、一度も消されたことがなく、また、その火はどこかの小さな地域だけで燃えていたわけではありません。その火は世界中に広がってきました。その火は今も燃えていますし、イエス様が再び来られるまで燃え続けます。

バプテスマのヨハネは、イエス様について、『その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります』と言いましたね。バプテスマのヨハネの時代には、消防車などなかったはずです。そのころ消防車があったら、バプテスマのヨハネは、「そして、世の消防車をすべて集めても、その火を消すことはできません」と、付け加えていたでしょう。

さて、前に読んだ聖書の箇所で、イエス様は言っています、『わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。』これは何を意味しているのでしょう?イエス様ご自身がこの世に来られたのは、たとえようもないほど重要な出来事でした。イエス様がこの地上で三十三年半を過ごされたことは、とてつもなく重要でした。しかし、主は、それよりも「わたしが去って行くことの方がはるかに重要なのです」と言われました。もしイエス様が今日もこの地上におられ、パレスチナに住んでいたら、世界中の人々が主に会うための巡礼に出ることでしょう。世界中のあらゆる国から、主の助けを求めに集まるでしょう。さて、そうなれば、主はとても重要な存在になりますね。もしそうであれば、イエス様がこの地上にいることが、非常に重要なことになります。しかし、イエス様ご自身は、「わたしが去って行くことのほうが、はるかに重要」なのだと言われました。このことをよく考えてみてください!「わたしが去って行くことのほうが、はるかに大切であり、なぜなら、わたしが去って行かなければ、御霊が来ないからです。」ですから、聖霊が来られることの方が、イエスが肉において地上に留まることよりも、はるかに重要ということになります。

イエス様は、この地上におられた時、ある言い方を頻繁に使っていました。そのことばとは、『その日には』です。主は絶えず、『その日には、その日には』と言い続けていました。主は、ご自身が『その日』と呼ばれるものを特別に強調し、重視していました。どういう意味だったのかと言えば、『その日』とは聖霊が来る日のことでした。その日とは、十二時間とか二十四時間の長さの一日ではありません。五旬節の日だけのことではありません。五旬節と言われる日は、その日に始まっただけです。その日に昇った太陽はまだ沈んでいません。その日はまだ終わっていないのです。イエス様が言われたその日とは、五旬節の日から、イエス様が再び来られるまで続く一日です(ヨハネ十四~十六章)。

それは、特定の時間のことではありません。それは、『新しい秩序』のことを指していたのです。だからイエスは常に、『その日には、その日には、その日には』と言い続けたのです。そして、主はその日について、おどろくべきことを言われました。私たちも今、その日に生きていることを知っていますか?その日は既に来ているのです!イエス様が御父のもとに戻られた時、その日は来ました。私たちは、そのすばらしい聖霊の日に生きています。聖霊の到来は、新しい時代と新しい秩序をもたらしました。聖霊の到来は、キリスト教の始まりを告げる最初の出来事でした。そして、イエス様は、聖霊があなたがたとともにいる、聖霊はあなたがたの中にいる、聖霊はあなたがたとともにいつの時代もとどまると言われました。このすばらしい聖霊は、イエス様が肉体を持ってこの地上にいることよりも大切なものであり、その聖霊があなたがたの中に住んでいます。私は今、皆さんの顔を見ながら、私たちが生きているこの時代のすばらしさを、皆さんがお分かりだろうかと思っています。私たちは、この世界の歴史の中で、もっともすばらしい時代に生きています。私は、イエス・キリストご自身の権威に基づいて、あなたがたにこのことを語っています。『わたしが去っていくことは、聖霊が来るために必要なことです。』私たちはこの後、自分たちが生きているこの時代に対して、とてつもなく大きな感動を覚えながら、立ち上がって出ていくようでなければなりません。聖霊が来ることは、なぜそれほどすばらしいことなのでしょうか?聖霊が来られることがこれほど重要なのはなぜでしょうか?その理由――いくつかの理由がある中でも第一の理由は、聖霊が新しい創造を行うことであり、私たちの中に入って来るとき、聖霊が私たちをそれまでとは違う被造物に変えてくれることです。

ぶしつけな質問をすることをお許しください。あなたは、植物と動物の違いをご存じですか?もちろん知っていると言うでしょう。誰もが、キャベツと犬の違いは知っています。では一歩、進んで、動物と人間の違いを知っていますか?もしよく分からなければ、音楽が好きな人は犬をピアノのそばに置いて、ベートーベンやショパンか、他の誰でも偉大な作曲家の曲を弾いてみてください。そして、犬に向かって、「聞いてるかい?私は、ベートーベンやショパンの作品を聞かせているんだよ」と言ってみましょう。そして、曲のことを犬に話し聞かせてから、犬を見ればと、かわいそうなことに、ひどく退屈そうにしています。顔を見れば、「何を言っているのかわからないよ。人間にはとてもいいものかもしれないけど、犬にはまったく何の価値もない」と書いてあるようです。

さて、私たちは野菜と動物の違いは知っています。動物と人間の違いも知っています。あなたは、人間と神の子の違いは何か、知っていますか?神の子と普通の人間とのあいだの違いは、キャベツと犬との違いと同じくらい大きなものです。御言葉には、『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました』とあります。このためにこそ聖霊が来て、新しいそれまでとは違う種類の被造物に変わるような変化を、私たちの中にもたらしたのです。新しく生まれることについていろいろなことが言われていますが、主がニコデモに言った、『あなたがたは新しく生まれなければならない』という言葉をご存じでしょう。おそらく、この言葉を百回も千回も聞いてきて、よく知っているでしょう。しかし、私たちはこの言葉が意味するところを本当に理解しているでしょうか?私たちがこの世に生を受けるとき、肉体を受けてこの世界に初めて出てくるとき、私たちはそれまでいたことのない新しい世界に入ってきます。小さな赤ん坊が新しい世界へと生まれたのです。この赤ん坊はすべてを理解してはいません。目で見ているものが何であるかも知りません。全く新しい世界です。

あなたがたは新しく生まれなければならないのであり、それは、聖霊が私たちをまったく新しい世界に連れて行くことを意味しています。さて、あなたの人生で聖霊が働いているかどうか、試してみてください。あなたのキリスト者としての生活を、単純な事実によって試してみてください。あなたが主イエス様のもとに来た時、主イエス様に自分の生涯を捧げた時、主イエス様があなたの人生に来られたと信じた時、あなたが最初の実感したのは、自分が全く新しい世界に来たということでしたね。あなたは、人がキリスト教徒と呼ばれる世界に入ったのではなく、キリスト教と呼ばれる世界とか制度の中に入ってきたのでもなく、あなたの意識の中で、すべてが新しくなったのです。聖霊は、『見よ。わたしは、すべてを新しくする』と言いました。あなたは、その新しい世界のすべてを理解できたわけではありませんし、今もすべてを理解してはいません。それでも、私たちは、聖霊の働きによって、まったく別の世界に入ってきたのです。全く新しい世界が私たちの前に開かれました。

これが神の御言葉です。これが聖霊が来た理由です。今夜ここにいる私たち全員にとってもそうなったのでしょうか?私たちは、これまで来たことのない新しい世界に来ていて、キリストのもとで、すべてが新しくなったことを知っています。私たちの意識は新しいものになりました。私たちが意識することとは何でしょうか?聖書の言葉を借りれば、『私たちが暗やみから光に移されている』ことです。たとえてみれば、この会場で電灯をすべて消したら、あたりが暗闇になって、全く何も見えず、誰も見えなくなってしまいます。私たちは、真っ暗な中で、なんとか出口を見つけなければなりません。そこへ、誰かが電灯をすべて点けたら、私たちは、「これで見えるようになった、自分が光の中にいることがはっきり分かる」と言えるようになります。

これがキリスト者の生活の始まりを表す単純な真理です。これは聖書の教義ではなく、経験です。新しい被造物として、私たちは光の中に入ってきたという意識を持つようになるのです。私たちに対する暗闇の支配は終わりました。あらためて言うと、聖書はそれを、死からいのちへと移ったことを意識するようになったと表現しています。もちろん、闇と光とは、ただわかりやすく説明するために引き合いに出されたものです。

さて、今夜ここにいる人の中で、実際に文字通り死んだことのある人はいないでしょう。あなたがたの誰も、生命を失って、棺桶の中の死体となったことはないし、そこに誰かがきて、死者の中からよみがえらせられ、本当に、『私は死んでいたが今は生きている』と言った人はいません。しかし、聖書は、キリストの外側ではこのようであり、私たちは死んでいると言っています。私たちは神に対しては、他の死体と同じように死んでいると書かれています。キリストの中で私たちは生かされ、自分が今は生きていると意識します。これは、何よりもすばらしいことです。すなわち、私が今、生きているのは、主から受けた別の種類のいのちです。それは神ご自身のいのちです。生まれた時に持っていたいのちではなく、神ご自身からもたらされた別のいのちです。大切なのは、自分が生きていると意識していることです。これまでにはなかった新しい主のいのちによって、私は生きています。

さて、この新しい意識について、もうひとつ別のことがあります。私たちは小さな赤ん坊と同じ道を歩んでいるということです。新しく生まれる赤ん坊がこの新しい世界に入ってきます。小さな赤ん坊が暗闇から光の中へとやってきます。小さな赤ん坊が、死から生へと入ってきます。小さな赤ん坊に次に起こることは何でしょうか?秘密にしていたことをお話しします。実は、二、三週間前、私に新しい小さな孫ができたのですが、その子はとても大きな男の子だそうです。そして、この新しい赤ん坊の困ったところは、彼は絶対に満足しないことです。彼はいつも、もっと食べたいと泣いています。この赤ん坊は、新しい強い欲求、すばらしくも新しい食欲を持って生まれてきました。まあ、赤ん坊がこのようなものであることは、あなたがたも分かっていますよね?赤ん坊が最初にすることのひとつは、食べ物を求めて叫ぶことです。彼らはいつも何かを欲しがっています。

ここまで、私は、若い人たちのために、非常に簡単に説明してきましたが、何歳になろうと、私たちは自分のキリスト信仰を、次のようにして試すことができます。聖霊は私たちの中に、神が持つすべてに対する非常に大きく強い欲望を作り出します。聖書でいうところの、義に飢え渇くということです。詩篇の作者は叫びました、『私のたましいは、神を求めて渇いています』(詩篇四十二・二)。私たちの中には、主が与えてくださるすべてのものに対する強くて新しい欲求と渇望が存在しているでしょうか?これによって、私たちが聖霊を持っているかどうか、簡単に試すことができます。

さて、もう時間がなくなってしまったので、終わりにしなければなりません。このことについては、まだ話したいことがたくさんあります。今日のところはこのくらいにしておきますが、しかし、友人の皆さん、これが聖霊に関する単純で基本的な事実です。これらは実にすばらしいことです。小さな赤ん坊のすばらしさは、誰もが認めるところです。小さな赤ん坊を見て、その目、小さな指、小さな爪を見れば、誰もがなんとすばらしいものだと言うはずです。でも、生まれ変わることはそれよりずっと、すばらしいことなんです。それを行うために聖霊が来られたほどにすばらしいことです。聖霊は私たちを新しく創造するために来られたのです。

私たちは皆、この教えを知っているわけですが、ここで、話を始めたところに戻ると、今の私たちにとってはこの教えがあまりに当たり前のことになってしまって、そのすばらしさの大部分が失われてしまっているのです。この救いのすばらしさを思い出せるよう、主にお願いしましょうか?また、新しく生まれ変わることがどれだけ大きなことか、気づかせてくださるように。主が私たちを新しい被造物としてくださったことが、どれほど大きなことであるかを。そうすれば、私たちは主が願っていたことを理解できるでしょう。聖霊が来られることはとても重要です。イエス様が地上にいた時、主にできたのは傷んだ体を直すこと、肉体的な病気を癒すことだけでした。聖霊が来たのは、傷ついたたましいを治すためでしたが、このふたつはひとりの同じお方――つまりイエス様の霊です。聖霊の中に来られたのはイエス様であり、主はここで、ご自身の働きの性質を変えたのです。主が肉体を持っていたとき、その働きは外に向かうものでした。今、主は御霊の中におられるので、その働きも内側に向かっています。そして、内なるものは、外にあるものよりもはるかに重要です。

0 件のコメント: