2022年7月14日木曜日

『わたしたちが一つであるように・・・』第23回会合

T・オースティン・スパークス

『わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるために』フィリピン、マニラ、1964年
That They May All Be One, Even As We Are One.
Manila Philippines, 1964

会合23 — 『キリスト教には、多くの混じり物がある』
Meeting 23 - Within Christianity There is Great Mixture

第23回会合
(1964年2月20日午後)

マタイの福音書に戻り、今夜は、マタイ13章の31節と32節に絞って考えることにします。『イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。』この章に語られている話には、二つの名前があることにご注意ください。ひとつの名は、『天の御国のたとえ』です。イエス様は、それを『天の御国の奥義』と呼びました。たとえ話、奥義、どちらの名で呼ぼうと、そのことばに隠された意味は同じです。それは、人間の当たり前の心では理解できないほど、深い意味を持った何かが、そこに語られているということです。誰にでも、聞いたことばの中から何かを読み取ることはできるし、自分はすべてを理解していると思うかもしれません。しかし、たとえ話や奥義として語られたことを読んでも、その真意を理解していないこともあり得ます。大切なのは何を読むかではなく、そこから何を理解するかです。イエス様が言おうとしていることを聞くために、大ぜいの群集が集まったと、私たちは聞いています。この大ぜいの群集は、主の語ったことを聞き、その話をよそへ行って話したのですが、そこに込められた真意は伝えませんでした。それを聞いた者の中で、本当の意味を理解したのは、ごく僅かでした。このことを憶えておかなければいけないのは、これが、私たちが何かを伝えようとするとき、どこまでもついて回る、逃れられない問題だからです。


さて、ここに伝えられている意図と真意について考える前に、この一連のたとえ話を、一般的な見地から考えてみましょう。この章には7つのたとえ話があり、それぞれ、独立した話であることは、既に学びました。

第一に、たとえ話の中には、群衆に向かって語られたものと、そうでないものがあります。群衆に向かって語られたのは11節から35節までです。群衆に向かって語られたたとえ話は、種を蒔く者のたとえ、毒麦(毒を持つ雑草)のたとえ、からし種のたとえ、そして、パン種のたとえです。すなわち、4つのたとえ話が群衆に向かって語られたことになります。そして、それからイエス様は群衆を離れ、家の中に入っていったとあります。そこで、主は、弟子たちだけに向かって、さらに、三つのたとえを話されました。これは、36節から52節にあります。畑に隠された宝のたとえ、すばらしい値うちのたとえ、そして、海におろす大きな地引き網のたとえです。はじめの二つのたとえはイエス様が説き明かしています。次の4つには説明がありません。

さて、ここで、総体的な事実を一つ二つ、理解しておくことが非常に大切です。第一に、私たちは一貫性という法則を知っておかなくてはなりません。イエス様が、何かの象徴を繰り返して用いるとき、それは、常に同じものを指し示しています。主が、種を蒔く人のことを話すときは、いつも同じ人のことを語っています。すなわち、人の子です。もし、主が畑のことに何度も触れたのなら、それは、常に同じものの象徴です。すなわち、この世のことです。そもそも、主は教会のことを語っているのではなく、この世のことを語っています。空の鳥のことを話す場合も同じです。種を撒くもののたとえの中では、空の鳥とは悪しきものであると言われています。そして、空の鳥が大きな木に巣を作ると言うときも、主は、同じことを意味しています。同じことばは、いつでも同じものを指しています。

おそらく、皆さんはなぜ、こんなことを言うのか、不思議に思っていることでしょう。これは、大しておもしろいこととも、大切なことにも聞こえないでしょうが、実はとても重要なことです。なぜなら、これらのたとえ話は、これまで誤解されてきたからです。これからの話の中で、私の言いたいことが分かっていただけると思います。イエス様は決して、ひとつのことを、二つの異なった目的で用いて、人の心を混乱させるようなことはしませんでした。主が、鳥のことを語る時、それはいつでも、邪悪なもののたとえでした。あるたとえ話で、主は鳥のことを語り、それが悪いものであると言われています。他のたとえ話で、鳥のことを語るときは、それが悪いものではないとは言わなくとも、主は必ず、同じことを意味しています。このように、一貫性という法則は大切なもので、全てのたとえ話を通して、心にとめておかなければなりません。

ここで、いくつか、より一般的な事実を見てみましょう。はじめの一般的な事実とは、主が、『天の御国』と呼ぶもののことで、私たちはすでに、天の御国とは、すべてを統治する天の絶対主権を意味していることを学びました。これは、天の御国は、多くの悪いもので満ちているとか、天の御国にはたくさんの悪い鳥がいるとか、天の御国には毒麦(毒を持つ雑草)が生えているということではありません。それが意味するのはただ、これら全ての上にあるものが、天の絶対主権であり、あらゆるものが、その支配の下に置かれているということです。良いものも、悪いものも、この天国の支配のもとに入ります。これが、これらのたとえ話に語られている大きな真実のひとつです。

総体的な事実の二つ目としては、聖書のたとえ話が語られる目的は、『天の支配』の下でこの世界にもたらされるものは何かを示すことにあります。『天の支配』が許すものとは何であり、『天の支配』は、それに対して何をするでしょう?あなたには、これがはっきり分かっていますか?『天の支配』による裁きを受けなければならないものは、実に多くあります。また、『天の支配』の祝福を受けるべきものも、ここにはたくさん、あります。すなわち、すべてを包み込む大きな真実とは、『天の支配』が全てをつかさどるということです。そして、『天の支配』は、すべてのことに対して、その本当の姿は何か、良いものか悪いものかに応じた扱いをします。イエス様は、これらのたとえ話を語るとき、二つのことをしています。お気づきのように、主は第一に、信仰のない国に向かって語っています。主は、その国のことを、盲目であると言っています。彼らが盲目なのは、その不信仰のゆえです。彼らは預言者を信じなかったのであり、イザヤ書から引用されているように、『彼らが盲目となったのは不信仰のため』なのです。

さて、イエス様は、初めに、この信仰のない国に向かって語りかけ、そこにも信じたいという心を持つものがいるか、確かめようとしています。彼らは、知りたいのでしょうか、それとも、知りたくないのでしょうか?彼らの中に、盲目なままで歩む道を捨てて、信仰という土台に立ちたいと思う者はいるのでしょうか?

あなた方も覚えているでしょう。イエス様は、何度かにわたって盲人の目を開けましたが、目を開けたのは、目が見えるようなりたくて、主のもとに来た者だけでした。彼らは、『イエス様、主よ』と泣き叫び、主は『私に何をして欲しいのか?』と言われました。彼らが、『主よ、目が見えるようになることです』と答えると、主は、彼らの目を開けました。すなわち、主は信仰のない国で、そこにも、目を開けて欲しいと願う人たちがいるのか、試しているのです。たくさんの人たちが、このたとえ話を聞きながら、ほとんどのものは立ち去ってゆきました。大多数のものは、話を聞いただけだったのですが、その中に少数ながらも、『この男の言いたいことはさっぱり理解できないが、なんとか知りたいものだ』と言った人たちがいたのです。彼らは、たとえ話を聞いただけでは満足せず、その意味を知りたいと願いました。主は、不可思議な話を聞かせることによって、この人たちの信仰を試していました。

これは、主が何かを教える時、常に取られる原則であることを、覚えておいてください。あなたがたは、たくさんのことを学んできましたが、教えられたことを、どうしようとしているのでしょう?『はて、この人が言っていることは、さっぱり分からない』と言って、家に帰るのですか。あなたは、『わたしには理解できない』と言って、このことを、終わりにしようとしているように見えます。あなたは群衆とともに去っていくのでしょうか、それとも、こう言うのでしょうか、『あの男は、私には分からない何かを持っているに違いない。あの男は、私には見えない何かを見たのだが、これから、あの男が何を見たのか、私にも分かるはずだ。』これは、何かを教えるとき、常に用いられる法則です。ここでは、私たちの反応が試されているのです。種を蒔く者のたとえに戻ると、イエス様が地面によって例えたものは、まさしくこれです。主は、正直で善良な心のことを言ったのです。正直な良い心であれば、その土地は、四十倍、六十倍、百倍という収穫をもたらします。他の者たちは皆、こう言いました、『これは私たちには理解できないから、もう帰ることにしよう。』これはただ、あなた方が本当に知りたいのかどうかという問題なのです。ですから、まず初めに、主イエス様はこの人たちが、正直でよい心を持っているか、また、もし、理解できなくても、理解できるまであきらめない者たちであるかを試していたのです。

次に、イエス様は二つ目のことを始めました。主は、自分の弟子たちに、これからのキリスト教に起ころうとしていることを教え、警告し、また、それに対する備えをしていたのです。主は、弟子たちに対して、これから、起こり得ることへの準備をさせました。私たちにとっても、『そうだ、これこそ、主が、いずれ起こると言っていたこと、そのままだ』と、言うことができたら、どんな場合も、それは、とてもいいことです。あまりに多くの人が、主が言われたことを、すぐに忘れてしまいますね。イエス様は言われました、『私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない、また、あなたがたは、世にあっては患難があります。』このおかげで、実際に患難が訪れたときも、弟子たちは、世にあっては患難があることを知っていたのです。彼らには、こう言うことができました、『これこそ、まさしく、イエス様がいずれ、起こると言っていたことだ。』このおかげで、彼らには心の準備と防御ができていました。驚きは、ありませんでした。そして、これこそまさに、主イエス様が弟子たちに対してしていたこと、すなわち、いずれ起こることに対する備えでした。

はじめの4つのたとえ話で、主は、天の御国に対立するものを示されたことに、お気づきでしょうか。天の御国に逆らうものは、たくさんあります。はじめのたとえ、種を蒔くもののたとえに、もう一度、戻ってみましょう。種を蒔くものは、蒔くために出かけますが、はじめの三回は、蒔いたものが道ばた、岩地、そして、いばらの中に落ちてしまいます。さて、使徒たちはこの種、すなわち、神の御言葉を持って世界に出て行かなければならなかったのです。イエス様は既に、彼らの働きの多くは実を結ばないであろうと、教えていました。空の鳥たちが、その種を取り去ってしまうからです。彼らの働きを妨害する悪い者たちがいて、働きの多くが悪魔に破壊されてしまうでしょう。そのようになると、主は彼らに、警告していたことに、注意してください。

さて、次に、毒麦(毒を持つ雑草)のたとえがあります。主は、御自身の真の子供たちを世へと蒔かれましたが、そこに敵が現れて、偽の子供たちを蒔いてゆきました。これは、世の終わりまでも続くと、主は言われています。自分がキリスト者であると公言した者の中に、真のキリスト者が一人もいなかったとしても、驚くには値しません。彼らの多くがキリスト者と名乗りながら、偽物であることがおのずと現れます。使徒たちは、後に、このようなことを体験しました。主は、はじめから、必ずこのようなことになると、弟子たちに警告されていたのです。

さて、一方で、主は、あなたがたは、天の御国に逆らう多くの悪いものとも対峙しなければならないとも言っています。これが、今、見ているたとえ話、からし種のたとえへとつながってゆきます。他のたとえには、このようなものがあります、『天の御国とは人が撒く種のようなものです。』天の御国はからし種のようなもので、からしの種とはあらゆる種の中でもっとも小さな種のひとつです。しかし、からしの種は大きく育つものでもあり、耕作することによって、とても大きくなって、空の鳥が巣を作るほどの木に生長します。

さて、あなたがたは、この話しをどのように受け止めるでしょうか?ここが、このたとえ話が誤って解釈されてきたところであり、ここで、私たちの一貫性の法則が生きてきます。このたとえ話は、天の御国は小さなものとして始まるが、生長に生長を重ね、いずれはその中に、御国にあるべき全てのもの、どんなものでも見られるほどになると、このように解釈されてきました。この種が、どこまでも大きく育って、すべてを包み込むほどになるというのです。これは、このたとえ話の間違った解釈です。これは、イエス様が言おうとしていたことではありません。主は、ある個所では空の鳥を悪いものと呼びながら、ここでは、よいもののたとえとして、鳥を用いるということはなさいません。主が、鳥を引き合いに出すとき、それは、いつも悪いもののたとえです。始まりがとても小さかったというのは、本当のことです。それが大きく育ち、世界に広がって行くというのも、間違いなく本当です。教会は確かに広がりを見せ、とても大きなものになりました。しかし、これは間違っています。からしの種は、自然のまま、木になるものではありません。自然の状態では、からしは木にならないのです。からしが木になるのは、人間が手を下して、土地を耕し、自分で大きく育てる場合に限られます。すなわち、からしの種は、利益を得る目的のために育てられたのです。あなたがたが、自分の実として金銭を望むのであれば、得られる限り最大の実を手に入れるでしょう。そこにある金もうけと言う要素が、その実を大きく育てるのです。そのために、あらゆる人間的な手段を駆使して、あなたがたはそれを育てますが、それは、自然のままの性質ではありません。あなたがたは、それに何かをしたのです!あなたがたは、そこに手を下したのです!これが現わすのは、人の手による働きであって、それが生来、持っている本物の働きではないのです。

これこそ、私があなたたちに向かって話しているこの時と、世界の終わりのときの間に起ころうとしている出来事であると、イエス様は言っています。人間が、天の御国のものごとを操作して、それらを本来の姿よりも大きな何かに変えるでしょう。人為的に、異常なかたちでキリスト教が拡大してゆくことになります。そして、キリスト教に対して、人間がこのようなことを行うため、キリスト教は、あらゆる種類の鳥が巣を作る木のようなものになります。今、キリスト教の中にいるすべての鳥の数を、勘定することができますか?今、自分をキリスト者であると呼ぶ鳥たちの種類をすべて、知っていますか?私たちが知っているキリスト教は、なんでも含めてよいようなものになっていますが、イエス様は、それはよくないことだと言っています。主は、それは悪いこと、悪の働きである言われます。そして、イエス様が必ずこうなると言った通り、これが歴史の中で起こってきたのです。それは、人間の手によって、その中に入れたいと人が望むものをすべて含めるまでに、広がってゆきます。私は、『キリスト教』という言葉が包み込むすべてものの名前をここで挙げよういうのではありませんが、キリスト教の名のもとに行われながらが、まったく、キリストへの信仰ではないことが、あまりにもたくさんあるのです。

さて、聖書の御言葉の中に、私たちのこの解釈の正しさを裏付けることが何か書かれているでしょうか?まずは、この鳥の問題について見てみましょう。これは、旧約聖書までさかのぼります。一度、アブラハムのもとに現れた神は、このとき、その種(たね)に関する契約をアブラハムとの間に結ぼうとしていました。神は、アブラハムに、彼の種はいずれ国となること、そして、その国民のすべてが奴隷とされ、四百年の間、捕らわれの身となることを語ろうとしていました。その後、神はこの国民たちを解放し、約束の地へと導くことになります。神は言われました、『私はこのことで契約を結ぶ。その契約の中身とはこれである。あなたがたはいけにえの動物を取って、それを二つに裂き、その片側をあそこに供え、もう片方をここに供える。こちらの半分があなたがたであり、こちらの半分は私、神である。私たちは、契約の中に、ひとつにされる。』そして、アブラハムはいけにえを取り上げました。彼は、いけにえを真っ二つに切り裂きました。半分をあちら側、残り半分をこちらに置いて、アブラハムは待ちました。何が起こったでしょう?空から猛禽が降りて来て、捧げられたいけにえを、契約が完了する前に、貪り食おうとしたのです。しかし、アブラハムは空の大きな鳥たちを追い払い、日が沈むまで、それを続けました。そして、日が沈んだ時、光が現れました。日の光は消え、天からの光が当てられました。こうして神は契約を完了されたのです。

さて、私たちは、イスラエルが400年のあいだ捕囚され、その後、神が彼らを解放して、約束された地に連れて行った話を知っています。しかし、大切なのはここです。あの空の猛禽たちは、契約を破壊したいと願う、悪の力を象徴していたのです。私がこのことを話すのは、ここにある空の鳥とは、悪いものであることを示すためです。さて、やっと種を蒔く者のたとえまで来ましたが、ここでイエス様は、空の鳥とは悪魔であり、種を取り去ってキリストの働きを破壊するために来るのであると、言っています。

けれども、新約聖書をさらに先へと読み進んでいくことにしましょう。エペソ書第2章で、これを書いた使徒はエペソの人々に言っています、『私たちは皆、この世の流れに従って生き、空中の権威を持つ支配者に従って、歩んでいました。』彼は言います、『主のもとに来る前、これまでの私たちの人生は、空中の権威を持つ支配者に従っていました。』これは、周りを取り囲むあらゆる悪の力に従ってきたことを、言い換えているにすぎません。これがエペソ人への手紙の始まりであることに注意してください。同じ手紙の終わりの方に来ると、第6章には、このような箇所があります、『私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。』ここで、あることに注目していただきたいと思います。この手紙の冒頭で、パウロは、イエス・キリストが唯一、絶対的な主権者であることを語っています。この言葉をあなたも思い出すのではないでしょうか、『神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に置かれました。』イエス様は、天国と地獄のあらゆる勢力、この地上の全ての力をつかさどる王座に就かれています。これは真実であり、確かに、そのようにこの使徒は語りましたが、しかし、、それに続けて、同じ使徒がこうも言っています、私たちの戦いは、主権、力、また、もろもろの悪霊を宿す者たちに対するものである、と。

イエス様が他の全てを超えて、はるかに高く上げられたという事実は、私たちの戦いがそこで終わったことを意味するものではありません。この世界では、私たちは今も、君主制度や権力、邪悪な霊の宿主たち、言葉を換えれば、空の鳥たち、すなわち、空中の権威を持つこの世の君と格闘しています。そして、『キリスト教』と呼ばれるこの巨木は、私たちが、悪の力の多くと出会う場所です。

これはとても言いにくいことですが、多くのキリスト者が、本物の敵を他のキリスト者たちの中に見出していることはまぎれもない事実です。時には、キリスト者のほうが、この世よりも、あなたに対してひどい扱いをすることもあります。これは、本当にひどい言葉なのですが、本当のこと、ああ、疑いもない事実なのです。『キリスト教』と呼ばれる大きな木の上に、私たちは、主から来ていないものを、あまりに多く見出します。からし種が大きな木に生長するというこのたとえ話の中で、イエス様が弟子たちに語っているのは、このことに他なりません。あなたがたも、この世に働いている悪の力にいつか気づくでしょう。その力は、世をあなたに対立させます。あなたがたは、世に迫害されますが、キリスト教の中にも非常に多くの苦難を見出すことも、いつも覚えておいてください。

これ以上、詳しく話す必要はないと思います。私たちの中にも、これまでに出会った最大の悲しみと苦しみはキリスト者のあいだに起こってきたと言わざるを得ない人もいるでしょう。これまでの人生で出会った、もっとも残念な、心をくじかれた出来事は、キリスト教の内側にありました。そう、あの空の鳥たちが、この木に止まったのです。イエス様は弟子たちに、実際にそのようなことがあっても、決して驚かないように、言われました。私はあなたがたに、その備えをしています。それが来ても、戸惑わないでください。どのようなことになるか、あなたがたには、すでにお話したのですから。さて、最後に一言、このたとえ話について考え始めた、最初のところに戻ります。どうしても必要なのは、私たちが、この世だけではなく、キリスト教の中においても、よいものと悪いものを、はっきりと見分ける能力を持つことです。キリスト教は、これほど大きな木に育ちましたし、その中に、実に多くの種類の鳥が住むようになりました。私たちは、目の前のあれや、これやを、どう判断したらいいものか、分からなくなることが、非常に多くあります。これはどのような鳥だろう?これはよいものだろうか、それとも、悪いものだろうか?キリスト教の中でさえ、何が主から来ていて、何が主から来ていないかを、はっきり見分けることが必要であり、そのために、私たちは、キリスト教に関する霊的な理解をどれだけ必要としているでしょうか。これらのことから、主が導かれる結論を見てみましょう。主はこう言われています。世の終わりのときが来ると、主は御使いたちを遣わし、ここに注意してください、いいですか、よく注意して聞いてください、つまずきを与える者たちをみな、御国から取り集めます。すなわち、この天国の絶対主権の内側では、人の心をくじくたくさんのもの、主ご自身の言葉を借りれば、『人々をつまずかせる』ものがたくさん、あります。天国の絶対主権が及ぶ領分の中でも、このような『つまずきの石』は、数多く存在します。しかし、終わりのときには、主は、御使いたちを遣わし、つまずきを与える者たちをみな、取り集めるのです。

ですから、キリスト教の中や、キリスト教徒の間に、どれだけ、良くないものを見つけても驚いてはいけません。主イエス様が、このようになるだろうと言われたことを想えば、あなたも少しは気持ちが楽になるでしょう。これまでに私は、主から離れてしまった何人かのキリスト教徒、若いキリスト教徒に会ったことがあります。彼らは、もはや、主とともに歩いてはいません。そして、私が彼らに、なぜかと尋ねた時、彼らの答えはこうでした、『ああ、それは、あるキリスト教徒がとても悪い人だったので、それを見て、もうキリスト教とは関わりたくもないと感じたからなんです。あるキリスト教徒が、私にひどい仕打ちをしたので、もうキリスト教を見限ることにしたのです。』もちろんそれが、言い訳に過ぎないこともあるでしょう。しかし、中には、キリスト教徒たちによって、つまずきを与えられた人たちも確かにいます。そのようになるだろうと、イエス様が言われたことを知っていれば、彼らも驚きはしなかったでしょう。知っていたら、彼らはこう言っていたことでしょう、『そうだな、イエス様が、こういうことが起こって、彼らも救われると教えてくれたよ。』これが、このたとえ話の伝えていることです、すなわち、キリスト教の内側にも、多くの混じり物があるのです。木の枝にも、良いものと悪いものがあります。この木は、あまりに大きくなってしまったのです。ほとんど、あらゆるものが、そこに入り込めるほどにです。

しかし、愛する皆さん、イエス様は何が正しく、何が間違っているかをご存知です。そして、私たちの中の御霊は、何が正しいもので、何が間違ったものかを教えてくれます。さて、この話はここで終わりにします。別の機会に、このことで、またお話しできるかもしれません。

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