2024年4月6日土曜日

オースティン・スパークス、『キリストの学校』、第一章 霊的な教育の土台

セオドア・オースティン・スパークス『キリストの学校
The School of Christ by T Austin-Sparks

第一章 霊的な教育の土台


エゼキエル
40:2 すなわち、神々しい幻のうちに、私はイスラエルの地へ連れて行かれ、非常に高い山の上に降ろされた。その南のほうに町が建てられているようであった。
40:3 主が私をそこに連れて行かれると、そこに、ひとりの人がいた。その姿は青銅でできているようであり、その手に麻のひもと測りざおとを持って門のところに立っていた。
40:4 その人は私に話しかけた。「人の子よ。あなたの目で見、耳で聞き、わたしがあなたに見せるすべての事を心に留めよ。わたしがあなたを連れて来たのは、あなたにこれを見せるためだ。あなたが見ることをみな、イスラエルの家に告げよ。」

43:10 人の子よ。イスラエルの家が自分たちの不義を恥じるために、彼らに神殿を示し、彼らにその模型を測らせよ。
43:11 もし彼らが、自分たちの行なったあらゆることを恥じるなら、あなたは彼らに神殿の構造とその模型、その出口と入口、すなわち、そのすべての構造、すべての定め、すべての構造、すべての律法を示し、彼らの目の前でそれを書きしるせ。彼らが、そのすべての構造と定めとを守って、これを造るためである。

マタイ
3:17 また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」

11:25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。
11:26 そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。
11:27 すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。
11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

ヨハネ
1:51 そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」

ルカ
9:23 イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

エペソ
4:20 しかし、あなたがたはキリストのことを、このようには学びませんでした。
4:21 ただし、ほんとうにあなたがたがキリストに聞き、キリストにあって教えられているのならばです。まさしく真理はイエスにあるのですから。

ここで挙げた聖句の中で、今日の目的のための基本的な御言葉は、マタイ11:29です――『あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。』

わたしから学びなさい。使徒パウロは少し違う言い方で、主イエス様が言おうとされたことを伝えています――『あなたがたはキリストのことを、このようには学びませんでした(エペソ4:20)。』

単語をひとつだけ除くだけで、大きな違いが生まれ、本来の意味が伝わることがあります。地上におられたとき、主イエス様が客観的に語ることしかできなかったのは、主観的な時がまだ来ていなかったからでした。そのため、主は、『わたしから学びなさい(learn of me)』としか言えませんでした。主観的な時が来きたとき、聖霊は「of」を外して、「キリストから学ぶ」のではなく、「キリストを学びなさい(learn Christ)」と言うように、この使徒を導きました。

皆さんの多くは間違いなく、すぐに見抜かれるでしょうが、これは、今日の世界で広まっているキリスト教に非常に多く見られる欠陥です――すなわち、何の成果も生み出さないイエス様の客観的な模倣に過ぎず、多くのものを生み出すイエス様の主観的な学びではないのです。

これからしばらくのあいだ、私たちはキリストの学校に専念することにしますが、その学校とは主が十二人を入学させた学校であり、その十二人は、主が『彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ(マルコ3章14節)』るために選んだ人たちでした。彼らは、当初は弟子と呼ばれましたが、これはただ訓練を受けるようになったことを意味します。私たちが使徒、すなわち、遣わされた者となるためには、まず弟子となって、訓練を受け、教えを受けなければなりません。これは内面的なかたちで行われます。上から生まれたすべての人が連れてこられるのがこの学校であり、はじめに、この学校の性質を知ること、私たちがここで学ぼうとしていること、また、私たちの霊的な教育の原則を知ることは非常に重要です。


私たちの学校教育の目的の全体像がはじめに示される


この学校に入学して、偉大な教師であり、解説者である聖霊がいちばん初めに、私たちのためにしてくださることは、私たちが本当に御手の中に置かれていれば、私たちが学ぶことになるものの全体像を見せること、私たちの教育の大きな目的を示すことです。エゼキエル書から取り上げた箇所を最初に読みましたが、この箇所がこの原理を説明してくれます。民のあいだで、神の御心が正しく現わされることがなくなり、民が神の考えに直接、ふれることがなくなったあの時代、あの遠い国で、神の御霊がこの預言者の上に手を置いて、神の幻の中で、彼の霊をエルサレムへと引き戻し、そして、高い山の上に彼を置いて、これから新しくできる神殿を彼に見せました。その神殿からは、いのちの川が地の果てまで流れ出ていました。神は、これに続いて、神殿の全てをもっとも細かいところに至るまで説明したうえで、この家をイスラエルの家に見せるよう、この預言者に命じました。神はこのようにして、御心をその全体像から細部に至るまで示し、この啓示に従った霊的な生き方を回復させようと意図されたのですが、そのために、民はまず第一に、自分を恥じることが必要でした。

エゼキエル神殿が文字通り、地上に建てられるのかという点については、大いに議論されています。私たちは、それについて語るつもりはありませんが、疑問の余地がない事実として、エゼキエルが見たものはすべて、主の御体なる教会の中に、何かしら霊的に対応するものがあって、そこで実現されているということです――霊的には、そのすべてはキリストの中にあります。そして、御心が完全に現わされるために、神が民に対して取る手段とは、最初にそのご目的を完全に伝えることです。神がそれを行われたのは、ヨルダンで天を開いて、『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ』と言われたときでした。主は、民に対するご自身の目的を完全に、包括的に、そして、詳細に説明したものを提示し、また、証明されました。使徒パウロは、誰もが知っている言葉で、この事実をはっきりと述べています。

『神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められた(ローマ8:29)。』

『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ』――『御子のかたちと同じ姿に定められた。』ここに、主についての神の目的が提示され、証明され、そして、宣言されています。したがって、繰り返しになりますが、聖霊の目的のひとつ目は、私たちの霊的教育の目標を私たちに理解させることです。その目標とは、私たちのうちにキリストを明らかに示した後で、私たちをキリストの似姿に変える働きに取りかかるということです。キリストを学ぶためには、まずキリストを知らなければなりません。


聖霊に支配された人生に明らかに現れるしるし


聖霊に支配された人生に現れる特徴とは、その人生が絶えることなくキリストに支配されており、そして、その支配が次第に強まってゆくこと、時間が経つにつれてキリストがますます大きくなっていくことです。私たちの内における聖霊の働きの効果とは、私たちを想像をはるかに超えた遠い大海原の岸辺に連れて行くことであり、その大海原にふれて私たちは、ああ、キリストの深さ、豊かさを感じるのです!たとえ、これまでもっとも長く生きた人と同じくらい生きたとしても、私たちは依然としてキリストというこの広大な豊かな海原の端っこに立つことしかできないでしょう。

さて、この壮大さが、そこから先に進もうとする私たちにとって大きなつまずきとなります。これは、ただの言葉ではありません。言葉の飾りではなく真実です。今すぐ、自分の心に問いかけてみましょう――これは私たちにも当てはまりますか?これが私たちが送っている人生でしょうか?私たちは、ここで絶望するようになるでしょうか?つまり、キリストによって示されるあまりに多大きなものを見ているので、自分たちが打ちのめされていること、限界を超えていること、そして、それに耐えることはできないことを私たちは知ります。それは私たちを超え、私たちをはるかに超えていますが、それでも私たちの心は引きつけられています。あなたも同じような思いを持っていますか?これが、聖霊に支配された人生に現れるしるしです。人生が続いて行くにつれ、キリストはますます大きな存在になっていきます。そのような人生を送っているなら、それは正しい生き方です。もし、あなたや私が、自分たちは全てを知っている、すべてを持っている、全てを成し遂げたと思う状態になって、そこから先に進まなくなったら、聖霊が働くことをやめ、人生が停滞してしまったと考えた方がいいでしょう。

神の道を示すというこの目的のために、人間のあいだに遣わされたと人の例として、使徒パウロを取り上げてみましょう。伝道者として働き始めた直後に、彼が自分に起こったことを説明し、表現するために使った言葉がこれです、『神は、御子を私のうちに啓示することをよしとされた(ガラテヤ1:16)。』さて、この男は非常に多くの教えと説教を行いました。彼は非常に多くのものを生み出しました。彼は長くて実りある人生を送りましたが、その価値は、彼が生み出したものが多かったというだけではなく、その深さを推し量ることすらできないほどに凝縮された働きの中身にありました。自分の人生の始まりについて、『神は御子を私のうちに啓示することをよしとされた』と言ったこの男は、その長い人生、充実した人生の終わりに当たって、心の底から、『私は、どうにかして、キリストを知りたいのです(ピリピ3:10)』と叫んでいます。このことばがはっきり示すことは、最初に大きな啓示を受け、その後にたくさんの啓示が続き、第三の天へと引き上げられ、そこで言葉では言い表せないほど大きなものを見せられてもなお、最後には、知りたかったことが、ほとんど何も分かっていなかったいう事実です。私は、どうにかして、キリストを知りたい!この願いこそが、聖霊に支配された生活の本質であり、私たちを死、停滞、行き詰まりから救い出してくれるものです。キリストの学校における御霊の働きとは、キリストの偉大な姿を示し、その存在を常に視野にとどめておくことです。だからこそ神は、この学校の始業に当たって、キリストを示し、キリストを提示し、キリストを証明し、こう言われます、わたしはあなたがたをこの似姿に変えたいと願っている!

しかし、この啓示を受けときから、基本的な訓練が始まります。聖霊は、私たちにこの大いなる目的を啓示しただけでは満足されません。聖霊はそこで示されたものを起点として、本当の働きを始めようとしており、ここで私たちは、聖霊の御手のもと、私たちの霊的教育における、二、三の基本的な課題へと導かれます。


開かれた天の課題と意味


私の目的は、主と協力しあって、この教育のすべてを極めて実践的なものとすることです。そのために、私たちはこの課題をただちに実行に移します。そして、あなたにこう尋ねます。あなたの内にある聖霊は、御子の中に神の豊かさを次第に大きく表しているでしょうか?あなたの霊的な生活はこのような性質のものですか?そうでないなら、主の御前できちんと訓練を受けなければなりません。何かが間違っているからです。油注ぎとは、本来このような性質のものであり、あなたの霊的生活がこのようなものでないなら、あなたの場合、油注ぎについてどこかが間違っているということになります。ナタナエルに主イエス様は言われました、『天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに(henceforth)見ます。(この「いまに」ということばは、古い英語では、「これから(hereafter)」ですが、多くの人がこれは「死後」を意味すると誤解しています。)』いまにとは、もちろん、この後、直ちにということであり、すぐにも訪れるはずであった聖霊の日のことです。開かれた天を見れば、御子に関する神の意図があなたがたにも分かります。

主イエス様のために開かれた天こそが油注ぎでした。御霊が降りてきて、主に光を当てました。それは油注ぎだったのであり、私たちにとっても同じです。ペンテコステの後、開かれた天とは、私たちの内なるキリストに聖霊が注がれることを意味します。開かれた天とは、キリストの啓示が絶えず大きくなり続けることを意味します。

ああ、ひとつ確かめておきます。少し戻りますが、このことを確かめるためです。私たちは、新しい話を加えるだけでなく、ここまでのことを正しく理解しているか確認する必要があります。開かれた天が、キリストの中に現わされた神の啓示をあなたの扉の前にもたらすと、あなたはその啓示をもとにした生活ができるようになり、図書館、本、説教や、他の何かだけに頼る必要はもうなくなります。啓示はあなたの目の前にあります。あなたの助けと成長のために、これら他のものも役に立つと、主が思われるかもしれませんが、それでも、あなたの前には、あなただけに開かれた天があり、あなただけに開かれた道があり、そして、あなたの頭上を覆い隠す天蓋はどこにもありません。主イエス様は、あなた自身の心の中で、ますます大きなものなっていきます。それは、『「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださった(第二コリント4:6)』からです。


キリストが「異なっていること」


これが真実であることを認めたうえで――そして、もしまだそう認められなければ、あなたの心に主が働きかけてくれるまで、ここで中断しなければなりません――これが真実であるとしたうえで、聖霊は、私が言ったように、働きに取りかかり、他にも二つ、三つの事実を私たちに完全に理解させてくれます。そのひとつ目は、キリストが完全に「異なる存在であること(other-ness)」です。主はいったい、私たちとはどれほどに異なる存在なのでしょうか。主の学校に入学した弟子たちを例に挙げると――この学校は私たちの学校と同じ意味で聖霊の学校ではなかったのですが、彼らの三年から三年半に渡る主イエス様との交わりから生まれたものは全く同じでした――、彼らが最初に学んだのは、主が自分たちとは根本的に違うお方であるということでした。彼らにはそれを学ぶ必要がありました。最初の瞬間から、彼らがそれを理解していたとは思えません。主との生活を続けていくうちに、彼らは自分たちが、主の考え、主の思い、主のやり方とぶつかってばかりいることに気づきました。彼らは主に、自分たちが思う道筋を取り、自分たちが思うことを行い、自分たちが思う場所に行くように求めます。彼らは自分の判断、自分の感情、そして、自分の考え方を、主に受け入れてもらうように願います。しかし、主はそのどれも受け入れることはありません。ガリラヤのカナでの結婚の宴の席では、イエス様ご自身の母親が、自分の思いで、『ぶどう酒がありません』と言いました。主の答えは、『あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。』あなたはわたしと何の関係があるのでしょう?これは、かなり弱めの翻訳です。より適切な訳としては、「女の方。あなたとわたしは異なる次元で考えています。今この時、わたしたちに共通するものは何もありません。」このように、彼らは生涯を通じて、自分たちの精神を主に押し付けようと努めました。しかし、イエス様はいつもそれを跳ね返し、ご自身の思い、ご自身のやり方、ご自身の考え、ご自身の判断が完全に異なっていることを示されました。最後には、彼らは絶望したことでしょう。もしも、これこそご自身が彼らに対して行っていたことを最後まで理解できなければ、主ご自身が彼らに絶望していたかもしれません。このことが理解できれば、あなたにとっても助けとなります。「主よ、私が困り果ててしまい、いつも大失敗をしてしまうのは何故でしょうか?どういうわけなのか、私は間違ったことを言ったり、行ったりしてばかりで、いつも間違った側にいるのです!どういうわけなのか、私はあなたと歩調を合わせて進むことがとてもできません。私には、自分が正しくなれるとは、とても思えません!」それに対して主は言われます、「わたしがあなたに教えていること、それが全てであり、意図的に、はっきりした目的を持って教えています。これこそ、わたしが皆さんに伝えようとしてることです。あなたがこの教訓を学ぶまで、わたしたちは何も成し遂げることはできません。あなたがこの教訓を完全に学び終えたとき、はじめて、わたしたちは建設的な働きを始めることができますが、現時点で、あなたに必要なのは、わたしはあなたがたとはあらゆる面で違う存在であることを、完璧に理解できるようになることです。その違いは、わたしたちが完全に反対である二つの世界へと入っていくほど大きなものです。」

普通の人間の心は、最高の状態でも、主とは全く違う心です。人間のこの意志は、最良の状態でも、主とは全く違う意志です。あなたの動機の背後に潜んでいるものが何かということは、聖霊があなたの存在の奥深くまで切り混んで見せてくれなければ、自分にも分かりません。あなたは、自分の感情や願望を非常に謙虚な言葉で表すことはできます。ペテロのように、「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」という神の呼びかけに対して、「わたしの足だけでなく、手も頭も洗ってください。」と返すかもしれませんが、そこには自我が現れているだけです――自分への祝福を求めています。祝福が欲しいあまり、主人が教えようとしている要点を見逃しています。「わたしはあなたに自分を無にすることを教えようとしている。」主は言われるかもしれません、「それなのに、あなたは、私の呼びかけを、自分を満足させるため、自分が何かを得るために捕らえている。しかし、わたしが言おうとしているのは、与えなさい、手放しなさいということです!」このような自我は非常に霊的(?)な形で現れます。自我は霊的な祝福を求めて現れます。その背後にあるものが何か、私たちは知りません。私たちは非常に厳しい御霊によって学ばなければならず、この学校では、私たちの最善の意図ですら汚れたものであり、私たちの最も純粋な動機ですら御霊の目の前では不純なものであることを教えられます――私たちが神のために行っていたことも、根源のどこかにおいては、自我なのです。この性質から、神に受け入れられるものを生み出すことはできません。神のもとに近づけるものは、キリストの中にしかなく、私たちの中にはありません。そのようなものは、この世の生にあっては、私たちの内側から生まれることはありません。これこそが、キリストと私たち自身との違いです。主が私たちの内に住まわれていても、神の喜びと満足の対象となるのは主であって他のものではありません。私たちが、聖霊による指導と啓示と訓練のもとで、この人生で習うべき基本的な事実とは、主は、私たちとは全く異なる存在であるということです。これは、あらゆる面で完全に「異っている」という意味です。これは、非常に難しい学びの一つです。

確かに世は、この事実を学ぶことを拒否します。世はこの事実を受け入れません。これは、人道主義という大きな教え――人間とはすばらしいものである!という考え方に真っ向から相反する考えです。ああ、何と言うことか、あなたが最高の状態にあるときでさえ、あなたとキリストの始まりとの間にはつなぐことすらできないほど大きな溝があります。あなたが最善を尽くしたとしても、あなたはキリストに変わり始めることなどありません。これは絶対的な真実で、あらためて強調する必要もないでしょう。私たちの多くは何かを勉強したことはあります。

私たちはこの事実を経験から知ってはいますが、何が起こっているのかをあらためて、正しく教えてもらうことによって、気持ちを整理することにしましょう。私たちに対して、主は何をされているのでしょうか、聖霊は何をされているのでしょうか?そう、基本的なこととして、主は、私たちとキリストは根本的に異なる存在であることを知らせています。これが学ぶべきもっとも重要な事実であるというのは、それを理解できるまで、何も建設的なことを始められないからです。最初に学ぶべきことは、したがって、キリストがあらゆる面で私たちとは「異なる存在であること」です。


私たち自身の力で神の基準に達することは不可能


第二番目に、聖霊は、私たちが自分の力でこの主と同じになることは絶対に不可能であるという事実に向かい合わせます。神は基準を定め、ご自身の模範を示して、私たちが目標とすべき生き方を示してくださいました。しかし、それに続いて私たちが直面するのは、私たちがそのとおりに生きることは絶対に不可能であるという事実です。そう、私たち自身にはとてもできないことです。あなたはまだ、この絶望の真実を学んでいなかったでしょうか?聖霊は、再び、あなたの希望を奪わなければならないのでしょうか?ここで一度、完全な絶望を経験して、それで終わりにしてみてはいかがでしょうか?なぜ数日ごとに絶望するのですか?それは、あなたが今も、どこかで何かしら、自分の中にあるきれいな着物を見つけ、それを神の前に差し出して、神を喜ばせ、神を満足させ、神の要求に応えようとしているからに他なりません。あなたの中にきれいな着物はありません。『私たちの義はみな、不潔な着物のようで』あるという事実を受け入れてください。私たちの義、義であろうとして試みるすべての行いについて、主はまとめて「不潔な着物!」のようであると言われます。この事実を、一度、完全に受け入れましょう。私がこれから語ろうとしていることを聞いてもらえれば、それがどこへ導くものかが分かっていただけると思います。それはもっとも輝かしい地位へと続いています。それは、あの輝かしい事実、まだ全てが内向きになる前のあの日々、主イエス様が次の言葉で述べたあの真実へとつながっています、『わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。』これが全てです。しかし、私たちのたましいに安らぎが来るためには、まずはじめに、キリストと私たちのあいだにある絶対的な違いを学び、それから、自分の中にあるものや、自分で作り出すもの、行うことによって、私たちがキリストのようになることは絶対的に不可能であるという事実を学ばなければなりません。それを可能とするものは、私たちの中、私たち自身の中に何も存在しません。ですから、私たちはむしろ、自分自身に関して、徹底的に絶望をしたほうがよいのです。この二つが基本です。


おわりの言葉と勧め


次に、聖霊は、それがどのように達成されるかを私たちに示し始めます。今日、ここではその話しを始めるつもりはありませんが、上でお話しした他の二つが片付くまで、聖霊には何もできないという事実は心にとめておいてください。ああ、神は御子に対して非常に妬むお方です。御子はこの目的のために、火の真ん中を通り抜け、人間の姿を取られて、従属する人生を受け入れられ、進んで自分を無にすることによって、どんな時も、ご自身の解放、救い、備え、守りのために神によって働くことができるものなられ、また、ご自分の権利を投げ捨てられたうえで、こう言われました、わたしはしばらくの間、わたしのすべての権利、特権、神の力を投げ捨て、父なる神に全てを委ねる人間という立場を受け入れます。わたしは、人が、人間という立場に立つときに受け入れなければならないすべての制約を受け入れます!(*脚注)主は、人としての姿と力にご自身を集約され、あらゆる面で受け入れるべき制限を受け入れ、そして、人のために生きる人として自分に課せられた全てのことを全うしたうえで、御座へと戻られましたが、その時には、人が神をよろこばせる中で、必ず遭遇する全ての力に対しても、完全な勝利をおさめられていました。その後、神は、御子と、この御子が人間のために成し遂げたすべてのことを忘れて、「ただ最善を尽くしなさい、そうすればわたしは満足する」と言われるとでも思いますか?ああ、今日、広く受け入れられているこのキリスト教は、キリストに対して、神に対して、なんと盲目なのでしょう!いいえ、神が心から「わたしはこの子をよろこぶ」と言えるお方は、この宇宙にただ一人だけであり、そのお方とは、主イエス・キリストです。もし、あなたや私がその立場に立つとしたら、それは、決して私たち自身でではなく、「キリスト・イエスにあって」ということになります。

それを学んだとき、あるいは、学びの中でこの事実が取り上げられたとき、聖霊は初めて、神の子の似姿に人を変えてゆくという働きに取り掛かることができます。さて、私たちは弟子たちが学ぶ第一と第二の真実を見てきました。何か月、何年という時間を通して、彼らは主が自分たちとどれほど異なっているかということを理解し、そして、そのために自分に絶望する段階に達しましたが、これは主が意図されたとおりでした。主はすべてを予見しておられました。主はそれを妨げることをせず、彼らを救うこともせず、ただ、彼らがその道を行くがままにするだけでした。そして、最後のときが来て、彼らがこれまでにないほどの大声をあげて、自分たちの忠誠心、信仰心、忍耐、そして、試練にさらされたときにすべてを投げ出す覚悟があることをを叫んだ時、主は皆に向かって言われました、『あなたがたは今、信じているのですか。見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます(ヨハネ16章31~32節)。』そして、その中の一人に対して、主は言われました、『鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います(ヨハネ13章38節)。』十字架につけられた主ひとりを残したまま皆が逃げてしまい、そして、その一人は主を否認したとき、彼らはどう感じたのでしょうか?暗い絶望が彼らの魂に入り込んだのは、ただ彼らのこれからの人生の展望や期待が失われたからではなく、自分自身に対して、完全に希望を失ったからだと思いませんか?そう、主はそれを引き起こす必要がありました。主には、そうならないように手段を講じることはできません。それが起こることが必要でした。そして、同じ学校にいるあなたや私も同じ道を行くでしょう。それは避けられないことです。私たちの中で、これと同じことが始めるまで、建設的な働きは何もできません。

確かに、ひどいことのように聞こえますが、励みにもなるはずです。結局のところ、それはある意味で建設的なことです。主は私に何をなさっているのでしょうか?神は、御子のために道を備えておられるのであり、主は、キリストの豊かさを引き込むための地を整えておられます。それが神がなさっていることです。主は、弟子たちとともにそれを行われたのであり、ペンテコステとその後の出来事が、主が渡された日に起こったこと、彼らに起こったすべてのことに対する神の答えでした。その時から主は建設的な働きを始めたのかと思いますか?確かに、主はそうされました。十字架とペンテコステの後、物事は内に向かうかたちで変化し始め、その時から、キリストが今、この人たちの中で次第に大きく啓示されることが分かるようになります。彼らが進む道のりはまだ長いかもしれませんが、基礎が築かれ、働きが開始されたことは、あなたの目にも明らかです。そこには違いがあります。その違いは、必ずしも、彼らがそれまでとは完全に異なる人間になったということではなく、彼らの内にはキリストがいて、このキリストが生来の性質を超えているということです。それは、彼らがより良い人間になるということではなく、内に住まうキリストが、より現実的な力になるということです。

今日のところはこれで終わりです。今日は心を静かにし、全てを明け渡しましょう。ここはキリストの学校です。どれだけ厳しい学校であるか、私には分かっており、年老いて死を目前に控えた者にとっては一層、厳しく困難な学校です。私たちが受けてきた訓練や教育はどれも、おそらくこれとは違うものでした。私たちは、この恐ろしい人道主義という遺産の中に入り込んでいます――できる限り最高の自分になるために、最善を尽くしてきました!そう、私が言っていることを、そのままの意味で受け取って欲しいと思います。私のことばを聞いて、自分は、今のまま、不注意でだらしなく生きたり、あるいは、最悪の状態、最善ではない状態のままでいてもいいのだと考える人はいないでしょう。しかし、私がお話ししていることをご理解ください。私たちが最善を尽くしても、人間とイエス・キリストとの間にある大きな溝を越えることは絶対にできません。この溝が消えることはなく、その溝を越える唯一の方法は、死んで死者の中からよみがえることです。しかし、それは今のところ別の問題です。

*脚注――神がご自身から神性を完全に捨て去ったという意味ではなく、しばらくの間、その権利を放棄されたということです。




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