2024年5月19日日曜日

オースティン・スパークス、『キリストの学校』、第二章 真実を学ぶ

キリストの学校
T・オースティン-スパークス著
The School of Christ by T Austin-Sparks

第二章 真実を学ぶ

『そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、『あなたがたは自由になる。』と言われるのですか。」イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。』(ヨハネ8・31~36)

『あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。』(ヨハネ8・44)

『けれどもあなたがたはこの方を知ってはいません。しかし、わたしは知っています。もしわたしがこの方を知らないと言うなら、わたしはあなたがたと同様に偽り者となるでしょう。しかし、わたしはこの方を知っており、そのみことばを守っています。』(ヨハネ8・55)

『イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。』(ヨハネ14・6)

『その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。』(ヨハネ14・17)

『わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。』(ヨハネ15・26)

『というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。』(ローマ1・18)

『それは、彼らが神の真理を偽りと取り代えたからです。』(ローマ1・25)

『ただし、ほんとうにあなたがたがキリストに聞き、キリストにあって教えられているのならばです。まさしく真理はイエスにあるのですから。』(エペソ4・21)

『真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。』(エペソ4・24)

『聖なる方、真実な方、その方がこう言われる。』(黙示録3・7)

『アーメン(=認証)である方、忠実で、真実な証人である方がこう言われる。』(黙示3・14)

前回の瞑想の中で、私たちはキリストの学校について語りあい、その中で、神の真の子供は皆、聖霊、すなわち、油注ぎの御霊の手のもとでキリストの学校に導かれること、その学校で聖霊が最初に行う大きな働きは、神が聖霊に私たちを手助けさせる目的として、キリストを心に現わすことであることをお話ししました。すなわち、第一に、キリストこそ、ご自身の喜びの対象であることが神によって示されて、確証され、その上で、主イエスを私たちのうちに啓示する神の目的とは、私たちが神の御子の似姿に変えられることであると聖霊が教えてくれます。それから私たちは、この学校で習う二、三の基本的な課目、私たちの教育の基礎となることがらについても話しをしました。第一に、聖霊は、この訓練を受ける(それが弟子であるということの意味です)すべての人々に、彼ら自身の心の内側で、キリストが彼ら自身とはあらゆる面で『異なる存在』であることを、個人的な経験から理解させるためにあらゆる努力をします。それから、聖霊はまた、神の奇蹟なしには、現在の状況は全く救いのないものであること、私たちは自分では決してキリストのようになれないことを理解できる境地に私たちを導くためにも働いています。まとめますと、これは私たちの外から来るものであり、神ご自身がなされる働きであるということになります。

さて、ここまではキリストの学校で学ぶ課目の予備知識と言うべきものですが、この予備的な教育は私たちの時代の終わりまで続くのではないかと思います。いずれにせよ、この問題は私たちの生活の非常に大きな範囲に広がっていると思います。ここには、この問題で明白な危機となる通過点があり、そこを通過するときに、上で挙げた三つの事実を認めて、受け入れるための土台が築かれるのですが、それが完了するまで、私たちは先に進むことはできません。本当に、先に進み始める人とは、自分に対して徹底的な絶望を経験した後で、聖霊の光を当てられて、『もはや私ではなく、キリスト』であるということをはっきりと理解するようになった人です――「私が何者であるかではなく、ああ、主よ、あなたがどなたであるか、ただそのことだけが、私の魂の真の安息となります。」私の愛ではなく、あなたの愛。私の平和ではなく、あなたの平和。私の休息ではなく、あなたの休息。私のものではなく、あなたのものがすべて。あなたご自身!これが霊的な成長、霊的な知識、霊的な教育に必要な土台です。

『わたしが真理なのです』

さて、このめい想で、私たちは、主イエス様をより詳しく、神の目的として、また、私たちの内にある聖霊の働きの基準として見るようになり、主が「全く異なるお方であること」を示される中で数多くの聖句を読みましたが、その全ては、あなたもお気づきのように、真実に基づいています。福音書のこれらの聖句が、弟子たちの教育に貢献したことは確かです。まず第一に、ユダヤ人に対してなされた声明、または、宣言がありました――弟子たちの耳に入ってきたのは、とんでもないことばかりでした。信仰を生業とするユダヤ人もいました。主イエス様は彼らに弟子であることの問題を提起されました。主は、ご自身の言うことを信じたユダヤ人たち(彼らが主に信頼したとは書かれていません)に言われました、『もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。』彼らは、即座に言い返しました、『私たちはアブラハムの子孫であって、これまで誰の奴隷になったこともありません。』主はこの真実、ご自身に関する真実という問題を突きつけています。『ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。』『あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。』彼らのあいだに、自分たちは誰の子孫なのかという疑問が生じ、このことから発して、「ですから、もし御子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです」という回答が生まれました。あなたには、このことが分かりますか?真理を知ることとは、御子を知ることです。真理による自由は、主を知ることによって得られます。

それからユダヤ人たちに――もっと荒っぽい種類のユダヤ人たちだと思います――主は、聞いたこともないほど力強い言葉を投げかけました。『あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。・・・・彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。・・・・彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。』おそろしいほど強烈な言葉であり、すべてはこの真理、主ご自身と結びついた真理について語られた言葉です。

次に、14章に来ると、イエスは弟子たちとだけ、一緒にいます。そこで、ピリポは主に言います、『主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。』主の答えは、『ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。』この学校で問われるもうひとつの質問、『主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。』『わたしが道であり、真理なのです。』わたしが真理です。この真理とは、ものではありません。真理とはこのお方そのものです。さて、このすべてがキリストの学校にあり、真理としてのキリストをになっています。

あなたがたがこの事実をどれほど強く感じているかわかりませんが、私たちの絶対的な目的とは、これらの事実を非常に強く感じるようになることです。真の土台を持つことの重要性について、あなたはどう感じていますか?そして、結局のところ、土台を形作るもっとも大切な要素とは真理であり、このことが完全に、かつ、正しく築かれていることです。この土台は、非常に重い責任を負うものであり、それは私たちの永遠の幸福と運命、いや、神ご自身の正しさを証明することにも劣らない責任です。したがって、それは絶対的に真であり、真理でなければならず、そして、自分がどこに立っているのかをしっかりと把握しておくことは、私たちの重要な義務です。言い換えれば、これは、私たちの中の非現実をすべて終わらせ、私たちがいる場所から本物でないもの、完全な真実ではないものを永遠に排除するということです。これからしばらくの間、このことに力を入れて、分析していきます。非常に重大な結果をもたらすものであり、私たちは自分の立場にどんな小さな疑念を抱くことも許されません。

それはこのようになります。あなたも私もいつか、神と対面する時が来ます。私たちは文字通り、永遠にいたるまで、神と向かい合うのですが、そこで、次の疑問が生じてきます、神は私たちの期待を裏切ったことがあったでしょうか?私たちは、どんな小さなことであれ、主よ、あなたは私を失望させました、あなたは約束を守りませんでしたと言えるでしょうか?そのような立場は考えられません、すなわち、どのような存在であれ、神の門前でそのように糾弾して、神の真実、現実、忠実さに疑問を抱くことなど許されません。私たちをすべての真理に導く真理の御霊として聖霊が遣わされ、神の絶対的な忠実さ、ご自身に対する神の真実、そして、すべての神のみ言葉に関して、神と私たちの間に何の陰りも入り込む余地がなくなりました。聖霊はそのために来られました。それが真実であれば、聖霊はキリストの学校に通う全ての弟子たちの成長に手を差し伸べ、真実ではないこと、本物ではない全てのことを打ち砕き、神の絶対的で完全なあがないの日に、そのような弟子たち一人ひとりが、神の御前で持ちこたえることのできる土台に立てるように助けてくれるはずです。

真の土台の必要性

しかし、そうであるためには、あなたも私も、聖霊の教えの下、聖霊の助けを非常に真摯に、また、誠実に受け取ることが必要であり、また、神の御前に完全に自分を合わせられる状態、聖霊の全てを受け入れて、私たちの中に聖霊に抵抗したり拒否したりするものは何もない状態、逆に、心が完全に開かれ、私たちの生活の中で、変えられ、直されなければならない部分に、聖霊が指をふれるとき、そこから生じる非常に大きな変化を受け入れる覚悟ができている、そのような状態に至らなければなりません。聖霊はそのためにここにいるのです。

この聖霊の働きが私たちの内で成されることを許さなければ、私たちは間違った立場に置かれている自分に気づくことになります。気が付けば間違った場所に立っているというのは、それがどのような場所であっても、非常に大きな損失となります。私たちが今、生きているのは誤った世界、嘘の上に成り立っている世界です。この世界を構成しているものの全ては嘘であり、それこそが人間の本質なのですが、大多数の人たちはそれを知らずに、自分が真実であると信じています。彼らは偽りの土台の上に世界を建て上げようとしています。神の御国は、この世界とは全く違います。御国は真理であるイエス・キリストの上に築かれます。

さて、この時点で私が強調したいのは、私たちが立つべき正しい居場所が必要であることです。ああ、キリストの真理が注ぎ込まれた男たちや女たち、そして、どのような犠牲を払っても、神とともに進み続けようとする人たちのために。『だれが、主の山に登りえようか。』『心の中の真実を語る人。・・・・一度、誓ったことは、たとい損をしても果す人。』――つまり、自分にとって大切なものを犠牲にしても真実の立場を取る者のことです。私たちはあらゆる種類の誤った考え方に影響されており、他の人たち、中でも、宗教界の人々が、私たちの伝統について考えること、言うことに影響を受けています。それはどれも、間違った考えであり、間違った影響を与えます。彼らは多くの男たち、女たちを束縛し、神とともに光の道をまっすぐに進むことができないように妨害します。結局、問題は誤った立場に身を置くことです。

私たちの中に真実はないと言われたら、あなたはそれを受け入れられますか?これは、聖霊からの働きかけを受けて、私たちが学ぶことになる事実の一つであり、その事実とは、私たちの生来の心の中に真実は存在しないということです。私たちは、非常に強い確信を持っており、自分の信念のために命すら投げ出し、また、正しく真実であると信じるもののために全身全霊を捧げ、人生のすべてをるつぼに投げ込む覚悟ができていると言いながら、実は、その信念が完全に間違っているということもあり得ます。タルソスのサウロの場合がそうでした――『以前は、私自身も、ナザレ人イエスの名に強硬に敵対すべきだと考えていました(使徒26:9)。』前にも出てきましたが、『あなたがたを殺す者がみな、そうすることで自分は神に奉仕しているのだと思う時が来ます(ヨハネ16:2)。』ここまで熱心に、彼らは信念に従っていたのです――これが神の御心!神の意図――――これが神の御心であると信じ切っています。ある者は信念にどこまでも忠実なあまり命を投げ出し、また、ある者は自らの強い信念に基づいて人の命を奪います。私たちは、自分の信念の強さだけで進みながらも過ちを犯し、完全に間違ったことを行い、真剣でありながらも、その信念が完全に間違ったまま、どこまでも進んで行きます。誤った確信というものは確かにあり、そこに絶対に陥いることがないと言い切れる心を持った人は誰もいません。間違った確信の種は、人間本来の性質の中、私たち一人一人の中にあり、頭の中にあり、間違った願望は心の中にあります。自分の願望は完全に純粋で正しいものであると信じていても、それはまったくの間違いかもしれません。私たちの意志も全く同じです。私たちの中には、本質的に真実はありません。

真理に従って生きる

私は次の問題の本質に迫ってみたいと思います。キリスト者とは何でしょうか?キリスト者とは、以前はあまり気性がよくなかったが、今ではすっかり性格が良くなった人のこと、あまり温厚な人ではなかったが、今ではずっと穏やかになった人、それほど熱心ではなかったが、今では非常に熱心になった人、以前の性格とはすっかり変わった人――それがキリスト者の真の定義なのでしょうか?ホメオパシー療法の薬棚の前に行ってみましょう。そこに、イライラしている人を連れてきます。彼に一服の――何がいいでしょう?――マチンの種を処方してみます。二、三時間もすれば、彼はとても機嫌のよい男になっているでしょう。彼はキリスト者になったのでしょうか?何か他のものを与えて、彼を以前の状態に戻してみてください。彼は救われて、それから、元に戻ったのでしょうか?薬物は数時間で人の気分を変えることができます。無気力で、落ち着きがなく、無関心な人だったあなたが、生き生きとして、精力に満ち、活発な人に変わります。みじめで、不満で、不機嫌で、憂鬱で、気難しく、イライラしていたあなたが、愛想がよくて、楽しい人になり、あなたを前のような状態にしていた張り詰めた神経や、あなたを一緒にいるだけで不快になるような人にしていた消化不良から解放されました。ほんのしばらくの間、あなたは薬物によってキリスト者に変わったということになります!何が言いたいかお分かりですね。

真理はどこにあるのでしょうか?救いについての真理が私の感情、私の消化器官、私の神経組織などの領域にあるとしたら、とても貧しいキリスト者ということになるでしょう。そう言ったものは、天候や他の要因に応じて日々、変化するからです。それでは困ります!真理、真理はどこにあるのでしょうか?『私が何であるかではなく、主よ、あなたがどなたであるか。』真理はここにあります、『あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。』何からの自由でしょう?束縛です!何の束縛でしょう?サタンが途切れることなく非難のことばを打ち付けているのは、今日のあなたの気分が晴れないからです。自分の体調がよくないと感じていたり、気分が落ち込んでいたり、生気のない人たちに囲まれて、イライラした気分でいると、そこにサタンがやって来て語りかけます、あなたはありきたりのキリスト者ではない!優れたキリスト者だ!あなたはその言葉に耳を貸してしまいます。それは真実でしょうか?嘘です!救出と解放を受けるためのただひとつの答えは、「私が何であるかではない、大切なのは、神が誰であるかということだ、キリストはいつまでも同じあり続ける。」主は、人間的な生活の中で時間ごとに、日ごとに変わっていく私のような存在ではない。主は全く違うお方なのだ。

何度も強調するようですみませんが、私たちが本当に救われる道はこれしかないと、私は感じています。イエス様は、「わたしは真理である」と言われていますね。真理とは何でしょう?真理は、『偽り者であり、偽りの父である』サタンの主張に完全に逆行するものです。真理は私たちを、この偽りの自我から解放してくれます。今の私たちは偽りの自我です。私たちは矛盾の塊です。私たちは、これから長いあいだ、変わらずに同じ信念を持ち続けることができるか、考え方が急に変わったりしないか、自分でも自信を持てません。ああ、大切なのは私たち自身ではありません。キリストです。もし私たちが、生きていく中でこれとは違う水準に立ってしまったら、完全に誤った立場に陥ってしまうでしょう。悪魔は、私たちをいいように弄ぶことができます。

私がこのような説明の仕方をするのは、この問題の核心に迫ろうとしているからです。真理とは何か?真実とは何か?それは、私たちの中にはありません。私たちの存在は、どの部分を取っても真実ではありません。キリストだけが真理であり、あなたも私もキリストに基づいて生きることを学ばなければならないのであり、それを学ぶまで、聖霊は他のことは何もできません。あなたはこう言うかもしれない、でも、真のキリスト者は、比較的温和なのではありませんか?他の人たちとは違うのではないでしょうか?キリスト者がイライラしてよいでしょうか?私はそんなことは言っていないし、それを否定してあなたを失望させたいわけでもありません。私が言っているのは、この学校では、あなたと私が信仰によってキリストだけに頼ることを学ぶまで、聖霊は私たちをキリストの似姿に変える働きを行うための土台を持つことができないということです。私たちが自分自身という誤った土台の上に生きようとするなら、聖霊は私たちに何もしません。私たちがキリストへの信仰によって生きるようになると、聖霊が入ってきて私たちの内でキリストを成長させることができ、また、私たちに勝利を教え、熟練することを教え、救いによって私たちに良い感情や悪い感情の餌食になることなく、いつも高い水準で生きる道を教えられるようになります。私が言いたいのは、本当にキリストの土台に足を踏み入れるとき、あなたは、それまで立っていた地面を、下から大きく切り崩すことになるということです。

例として、イライラを取り上げてみましょう。もちろん、あなたがたの中には、何があってもイライラしない人もいるでしょうが、多くの方はこの戦いがどのようなものかをご存じです。では、苛立ちを例として取り上げてみます。今日の私たちがひどく神経質で、緊張しており、怒りやすい、そんな気持ちでいるとします。その気持ちをどうすればいいでしょうか?私たちは、それをキリスト者の当たり前の生活ということにするか、あるいは、キリスト者の生活の間違った面と考えるのでしょうか?私たちがそのような考え方をするようになると、サタンは常にすばやく動いて、その気持ちを逆手に取り、私たちを恐ろしい束縛に陥れ、霊的な生活の全てを本当に殺そうとします。しかし、もしあなたが、「はい、私は今日、そう感じています。それが今日の私の弱さです。しかし、主イエス様、あなたは私とは全く違うお方であり、私はただあなたにより頼み、全てをゆだね、あなたを私のいのちとします」という立場を取るなら、自分が何をしたかすぐに分かるでしょう。あなたは悪魔の足元の土台を完全に切り崩したのであり、そのことによって、平和が与えられ、安息があることを見出します。そして、あなたはまだ外面的には嫌な気分のままかもしれませんが、内側ではあなたの心は安らかです。敵は締め出されてしまって、あなたの中に居場所はありません。神の平和は、キリスト・イエスを通して、心と考えの見張り役として立っています。この城塞は安全です。サタンが常に試みているのは、体や魂を通して霊に入り込み、この要塞、すなわち、霊を捕らえて、束縛してしまうことです。しかし、外面的には非常に気分が悪くても、内面では自由なままでいることもできます。それは真理による自由です。それこそが真理です!ものではなく、約束でもなく、ある一人のお方です。それがキリストというお方であり、キリストはあらゆる面で私たちの有り様とはまったく違うお方です。そう、聖霊は、真理の御霊として、キリストのうちにとどまることがすべてを意味すると私たちに教えてくれます。それができなければ、自分の中へ、他の人たちの中へ、あるいは、世へと入り込むしかありません。キリストのうちに留まれば、そこには安息があり、平和があり、解放があります。

しかし、忘れないでください。真摯に聖霊により頼む気持ちがあれば、聖霊は私たちが欺かれるままにはしておきません。聖霊が私たちの本当の自我を明らかにしてくれます。聖霊は、覆いを取り去り、私たちの内に健全なものは何もなく、私たちの中に頼れるものは何もないという事実を徹底的に思い知らせることによって、全ては神の御子なるキリストのうちにのみあること、そして、そこには、守りと安全、命があるという事実をも明らかにしてくれます。

私は、自分の心にあるものを、うまくあなたがたに伝えられていないと感じています。非常に多くの人が、霊的な生活、神の子の生活とは、何かの現実の事物であると考えています。例えば、それは、「十字架のメッセージ」と呼ばれるものです。あるいは、「聖化」と呼ばれるものです。「解放」と呼ばれるものです。「キリストとともに死ぬこと」と呼ばれるもの――とにかく、何かのものごとと考えます。彼らはそれを手に入れようと試みますが、そのようなものによって、救われることはありません。そこに救いはありません。「もの」ではうまくいきません!それは、ひとえに一人のお方、すなわち、主イエス様がなさることであり、聖霊が何かの「ものごと」によって、私たちを救うことはありません。聖霊はいつも、私たちをこのお方のもとに導き、キリストを私たちの人生、私たちの解放、私たちのすべての基礎にしてくれます。だからこそ、『キリスト・イエスは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられ(第一コリント1:30)』たのです。

信仰の永遠の必要性

さて、この辺で終わりにしなければなりません。確かに、聖霊の働きは、私たちをキリストの似姿に変え、私たちがキリストと同じ形を取るものとし、私たちの内にキリストを形づくることです。しかし、キリストは、これからも私たちとは全く異なる存在であり続け、信仰への呼びかけが絶えることはありません。この地上の巡礼の旅で、十分な信仰を積んで、これ以上はもういらないという状態に達することがあるでしょうか?それは偽りの希望です。この世での最後の瞬間になっても、それまでと等しく、あるいは、それまで以上に、信仰が求められるでしょう。信仰とはこの世の生が続くかぎり、求め続けるべきものです。そうなれば、私たちが自分自身の中に、何か価値あるものを持っているという希望を、信仰自体が打ち砕くことになります。それがアダムの最初の罪であり、すべてを神の中に持つのではなく、あるものは神から切り離して自分の中に持つ、すなわち、信仰という考えを捨て去ることをアダムは選択しました。こうして彼は不信仰によって罪を犯したのであり、その後に入ってきたすべての罪は、このただひとつの罪――不信仰へとさかのぼります。信仰は、あがない、救い、聖め、栄光の大きな要素であり、全てのものは信仰を通してもたらされます。信仰は悪魔の働きを打ち消すものです。そして、信仰を持つということは、私たちは自分自身の中には信仰を持っておらず、信仰は私たちとは違うあるお方の中にのみあり、そのお方に対する信仰によってのみ、信仰の意味を知り、信仰を享受できると信じる境地に達したことを意味します。だからこそ、ガラテヤ2章20 節は、常に新たな力をもって語られます、『私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。』私がこの世に生きているのは、神の御子への信仰によっています。

主は、私たちに御言葉を解き明かしてくださいます。



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