2024年6月12日水曜日

オースティン・スパークス、『キリストの学校』、第三章 啓示による学び

キリストの学校
T・オースティン-スパークス著
The School of Christ by T. Austin-Sparks 

第三章 啓示による学び

『すなわち、神々しい幻のうちに、私はイスラエルの地へ連れて行かれ、非常に高い山の上に降ろされた。その南のほうに町が建てられているようであった。主が私をそこに連れて行かれると、そこに、ひとりの人がいた。その姿は青銅でできているようであり、その手に麻のひもと測りざおとを持って門のところに立っていた。その人は私に話しかけた。「人の子よ。あなたの目で見、耳で聞き、わたしがあなたに見せるすべての事を心に留めよ。わたしがあなたを連れて来たのは、あなたにこれを見せるためだ。あなたが見ることをみな、イスラエルの家に告げよ。」(エゼキエル40・2~4)』

『人の子よ。イスラエルの家が自分たちの不義を恥じるために、彼らに神殿を示し、彼らにその模型を測らせよ。もし彼らが、自分たちの行なったあらゆることを恥じるなら、あなたは彼らに神殿の構造とその模型、その出口と入口、すなわち、そのすべての構造、すべての定め、すべての構造、すべての律法を示し、彼らの目の前でそれを書きしるせ。彼らが、そのすべての構造と定めとを守って、これを造るためである。(エゼキエル43・10~11)』

『初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。(ヨハネ1・1~4)』

『ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(ヨハネ1・14)』

『そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。(ヨハネ 1・51)』

衰えた状態に対する神の答え

これまで見てきたように、神殿とエルサレムに表された神の思いが見捨てられ、失われて、栄光が去ったとき、エゼキエルは、新しい天の家、あらゆる細部に至るまで正確に測られ、天によって定められた家の幻を見せられ、それを書きとめるよう命じられました。これと同じように、新約聖書の時代の教会がその純粋さと真実と力、その天的な性質と秩序を失い、新約聖書のはじまりからあった栄光が去りつつあったとき、ヨハネは、主イエス様という人物のすばらしく、天的で霊的な表現を新しく世に表すよう御霊に示されました。それが、ヨハネの福音書、ヨハネの手紙、そして、黙示録の中に見られるキリストの新しく天的な啓示です。そして、ヨハネによる福音書が、時系列で言うと、実質的に新約聖書の中でいちばん最後に書かれた書物であることを、私たちは忘れてはいけません。この事実は、本来、非常に大きな力と印象を与えるべきものですが、私たちの心はおそらく、このことの本当の重要性を理解できていないのでしょう。聖書に並べられている順番どおりに福音書を読んでいくと、私たちはすぐに、主が地上で生活しておられた時代に引き戻されます。そして、時間という観点から見ると、福音書を読んでいるときは、私たちはその時代にいます。福音書の時代にいるとき、私たちにとって新約聖書の残りすべてはまだ存在しておらず、それに続く書簡も歴史も、すべてはこれから起こることです。そのようになってしまうことは、ほとんど必然的で、おそらくはほとんど避けられないことかもしれません。。しかし、私たちはそのような見方から抜け出すように努めなければなりません。

ヨハネの福音書はなんのために書かれたのでしょうか?主イエス様の地上での生涯の歴史の記録として、他の二、三の記録と並行して、主イエス様の地上での生涯の歴史を後世に残すために書かれたのでしょうか?それだけでしょうか?多くの人にとって、実質的にこの書から得られるものはそれだけかもしれません。福音書は、イエス様が地上にいたときの生涯を研究する目的で読まれます。それは、非常によいことかもしれませんが、それは、福音書を書くように聖霊が命じた第一の目的ではないという事実を、ここではっきりと強調しておきたいと思います。そして、この事実がヨハネの福音書においてとくに明白であるというのは、この書は他のすべてのものよりもずっと後に、聖書全体の最後に書かれたものであり、ヨハネがこの最後の書を書いたとき、他の使徒たちは既に栄光の中にいたからです。すでに述べたように、ヨハネの福音書は、新約聖書の教会がその本来のあり方と力と霊的ないのち、その天的な性質と神の秩序を失っていた時代に書かれました。すなわち、黙示録の冒頭で、アジアの諸教会に宛てたメッセージが告げている状況のただ中で書かれたものであり、このことは彼の手紙からはっきりと推測できます。

そこにあった目的はなんだったのでしょう?そうですね、、ヨハネが書いているように、この世界は、本来のあり方とは変わってしまい、神が意図した姿とは全く違っていて、そこには、神が民の中に、また、民のために持っている願いがもはや表れていません。秩序、天の秩序は既に崩壊し、そして、なおも崩れ続けています。天的な性質は失われており、キリスト教の中では地上的なものが形成されつつあります。本物のいのちは失われ、栄光は去りつつあります。その状況に、神は天的、かつ、霊的なかたちで、御子を新しく提示することで介入されます。こう言えるのは、ヨハネの特徴的な性質は、天的であり、霊的なものであるからです。そうではないでしょうか?ああ、確かに、ここに御子の新しい姿が見えてきます。しかし、何という大きなものが見えてきたことでしょう!ナザレのイエスとしてだけでなく、人の子、神の御子としてです。神は、このひとりのお方の中に、永遠の中から、神の性質の豊かさを明らかに表して、民の目にそれがはっきり映るようされました。

したがって、私たちはヨハネによる福音書や彼の他の著作における聖霊の立場に立たなければならず、また、次のことを知らなければなりません、すなわち、神の完全で本来の考えが失われ、天の啓示が去り、天の栄光が遠ざかってしまったとき、神が取られる回復の道とは、神の御子を新たに目の前に立たせることであって、教会や福音や教義が用いる手法にあなたを引き戻すことではなく、御子を視界の中へ入れること、キリストを神の民の心の目の前に再び連れ出して、その存在の天的で霊的な大きさを示すことです。それが、私たちが新約聖書の中に見るこのような状況に対して、ヨハネの中で与えられる答えであり、主の教会が天的な地位を失って、さまざまなものが混在し始めており、その全体が地上的なものになりかかっていたことを、この答えが明白に示しています。神は何をされるのでしょうか?危険なまで失われつつあるように見えたご自身の目的を、神はどのようにして取り戻されるでしょうか?神は御子を再び目の前に表されます。どのような反動に対しても、神の答えは、いつも御子の中にあることを忘れないでください。その反動が、反キリストに向かうこの世界のものであろうと、(反キリストに対する神の答えは、天の栄光の炎に包まれたキリストです)、あるいは、堕落と背教の教会であろうと、神の答えは御子の中にあります。

これが黙示録の冒頭の言葉の意味です。教会は居場所を失い、栄光は去りましたが、神は御子を啓示して、そこに介入されました。

『わたしは、・・・・生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。』

キリストが提示され、その後、手に計りざおを持った天上の人の光の中で、すべてが測られ、裁かれます。私たちは、そのようすを見て、その意味を理解するだけで、本当に十分です。神にとって、そして、私たちにとって、すべては主イエス様の心への啓示と結びついています。ああ、私が言ったように、大切なことは新約聖書に描かれた手法を回復しようとする試みの中にはありません。新約聖書の秩序の回復の中にもありません。新約聖書の真理と教義を再確認しようとすることでもありません。こう言ったものは単なるかたちであって、何かの枠組みを作るためには役に立ちますが、生命、力、栄光を保証することはできません。この地上には、新約聖書の教義、手法、秩序を知っている人はたくさんいますが、それは冷たく死んだ枠組みです。いのちも栄光もそこにはありません。携挙もありません。神の栄光の道は、そこではなく御子にあります。神のいのちの道は御子にあります。神の力の道は御子の中にあります。神の天的な性質の道は御子の中にあります。ヨハネの福音書を短くまとめるとこのようになり、これこそ神がその中で語っておられることなのです。すべては御子の中にあり、必要なこと、ただひとつ必要なことは、御子を見ることであって、目を開くという神の働きによって、御子を見れば、他のこともその後に続いて起こるでしょう。これもまた、ヨハネの福音書です。

『あの人は、どのようにしてお前の目をあけたのか?』誰がそれをしたのか?どのように、それをしたのか?こう問い詰められた男の返答、反応は、要するに次のようなものでした。あなたがたは、私に方法を尋ねています。私はその方法を教えることはできませんし、このことを説明することもできませんが、ここに現実としてあることが大切なのです。『ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。』それは、いのちによる光です。『この方にいのちがあった。このいのちは光であった。』

私たちは、ただ単に真実の手法を提供して、それを説明したり、定義できるようになりたいのではありません。それは第一のことではありません。第一のこととは、いのちが光を生み出し、それは御子の啓示の中にあるということです。そのすべてを凝縮して表現するとこうなります――第一に、神はご自身のすべてを御子の中に封じ込められたので、御子である主イエス様を通してでなければ、神について何を知ることも、得ることもできません。神は、ここに全てを決着されました。これは最終的であり、決定的なものです。

啓示によってのみ知られるキリスト

第二に、神が御子のうちに封じ込めたものについては、聖霊があなたの内側で、内に向かう形で啓示してくれなければ、その大きさを知ることも、得ることもできません。神がキリストのうちに封じ込めたものについて、何かを知りたいと思うなら、それはひとりひとりの男や女の内に聖霊によって成された奇蹟によるしかありません。ここに、ヨハネの福音書の要点があるというのは、この書の中心に生まれつき目の見えない男がいるからです。彼は何も見たことがありません。彼にとって、これは回復することではなく、視力を与えられるということです。これがいちばん大切なことです。その人にとって、完全に新しい世界となるのです。これまで彼が、世界をどんなふうに推測したり、予想したり、想像したり、あるいは、誰かの説明を聞いてきたとしても、実際に世界を見れば、全てが新しく始まることになります。それは絶対的な奇蹟であり、そこには完全に新しい世界が生まれるでしょうし、彼が本当に世界を見たとき、そこにはどんなものがあって、どのようなものか、それまで想像してきたこととは、全く違っていたことが判明するでしょう。内に起こる奇蹟によるのでなければ、何も見えるようにはならないのです。

(一)神はご自身のすべてを御子の中に封じ込めました。

(二)啓示を受けるまで、誰もそのことについて知ることはできません。『父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません(マタイ11:27)。』啓示は御子が選ばれた相手に対してのみ与えられます。

実際の状況と結びついた啓示

三つ目はこれです。神は、キリストにおけるご自身の啓示を、常に何らかの現実的な状況と結び付けて行われます。そのことをぜひ、理解していただきたいと思います。神はいつも、キリストにおけるご自身の啓示を、何らかの現実的な状況と結び付けて行われるということです。あなたも私も、何らか現実的な必要と結びついたかたちでなければ、啓示を受けることはできません。単に情報として、この啓示を得ることはできません。それは情報であって、啓示ではありません。勉強するだけで得られるものではありません。主が荒野でマナを与えられたとき(これは天からのパンとしてのキリストの型です)、主は、その日に必要な分を超えてひとかけらも集めてはならず、彼らが、その時すぐに必要な分よりも多く取った場合は、病気と死が彼らに襲いかかることを、はっきり告げられました。マナの原則、マナの法とは、神がキリストにおけるご自身の啓示を、現実的な生活上の必要と結び付けて行われるということであり、私たちは啓示を単なる教え、教義、解釈、理論、その他、何かのものとして受け取ることはありません。これが意味するのは、神は、キリストの啓示だけが私たちを助け、救うことができる状況に、あなたと私を置こうとされるということです。

使徒たちが、教会に対する啓示を現実の状況の中で得ていることに気づいてください。彼らは、テーブルを囲んで円卓会議を開き、教会の教義と実践の計画を立てるようなことは一度もしていません。彼らは、実際の何かの働きをするために出てゆき、絶望的な状況に立ち向かい、そして、時には希望すら失うような状況に追い詰められながらながら、神の前に出て啓示を受けなければなりませんでした。新約聖書がもっとも実用的な本であるのは、この本が差し迫った状況から生まれたからです。主は、実際の状況に光を与えてくださいました。緊急事態と言うべき状況の中で与えられるキリストの啓示は、キリストを生かし続ける方法であり、そして、キリストが信じる民のために本当に生きる唯一の道であると言えます。私が言おうとしていることが、お分かりでしょう。

さて、これこそ、主が私たちを深刻で現実的な状況に留められる理由です。主は、私たちが真理のことで、理論を求める方向、手法を追求する方向に進むことをよしとされません。ああ、手法を求めることをやめ、そして、新約聖書の中には確かに手法も書かれてはいても、私たちは、単純にそこに描かれた手段を抜き出して適用してはいけないということを理解しましょう。私たちに必要なのは、新約聖書と同じような状況を体験し、その状況に対処するためのキリストの啓示を受けることです。そのために、聖霊が私たちに対して取られる方法とは、私たちを生きた現実の条件や状態、そして、必要へと導き、主イエス様についての新鮮な知識だけが、解放、救い、いのちとなるような状況に私たちを追い込んだ上で、真理の啓示ではなく、このただ一人のお方の啓示、このお方についての新しい知識を私たちに与えることによって、その状況における必要を満たすようなかたちでキリストを見るようにしてくださることです。私たちは「それ」に頼っているのではなく、「主」に頼るのです。

神はことばである。『初めに、ことばがあった』、そして、この呼び方をする意味とは、まさに、それによって、神は、書物の中ではなく、ひとりのお方の中に、私たちが理解できるようにご自身を表してくださったということです。私たちは聖書を持っていますが、神は、いちばん初めに本を書かれたのではありません。神は、ある一人の人物を書きました。A・B・シンプソン博士は、彼の小冊子のひとつで、このことを、図解し、次のように視覚的に説明しています。彼は、ある時、合衆国憲法が書かれるところを見たのですが、それは羊皮紙に書かれていたと語っています。彼が、その近くまで行くと、合衆国憲法を細かいところまですべて読むことができました。しかし、彼が羊皮紙から数ヤード離れたところに立つと、そこに見えたのは羊皮紙に描かれたジョージ・ワシントンの顔だけでした。それから、彼が もう一度、近づいてみると、憲法が、明暗で描かれたジョージ・ワシントンの顔になるように書かれていることが分かりました。まさしくこれです。神はご自身の啓示を書き記しましたが、その啓示は御子という人格、主イエス様の首長としての権威の中にあり、天国の憲法はこのただ一人のお方の中でしか持つことはできず、そして、天の憲法は神の御子というかたちを取ったこのお方そのものです。

これは事実を確認しているすぎません。あなたがたが、ここで述べられた事実をしっかりと受け止め、その事実によって主のもとへ行くと私は確信しています。光をものとして求めないでください。主イエス様についてのより深い知識を求めてください。その道を進まなければならない理由は、それが、主を知るためのただひとつの生きた道だからです。そして、神はいつも、キリストの中のご自身についの知識を、現実の状況と結び付けて示されることを覚えておいてください。ここには二つの面があります。私たちはその状況の中にいることが必要です。私たちが御手の内にあるなら、主について新しく何かを知ることが必要となる状況へと、聖霊が私たちを導いてくださるでしょう。これが一つの面です。もう一つの面とは、非常に困難で苦しい状況に置かれているときこそ、私たちは主の啓示を求める立場にいるということです。

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