2024年6月20日木曜日

『神への渇き』、序文、はしがき

神への渇き
A・W・トウザー著
柳生直行訳、1958年、いのちのことば社
The Pursuit of God, A. W. Tozer


目次

第三章 へだての幕を取り除くこと
第四章 神を捉えること
第五章 宇宙における神の内在
第六章 語る声
第七章 魂の凝視
第八章 創造主と被造物の正しい関係の回復
第九章 柔和と魂の安息
第十章 生活の聖礼典
あとがき


本書は人間の内的生活に関するきわめてすぐれた研究である。それは神を渇き求める心、神のみわざの周辺だけでもよいから捉えたいと切望する心、また罪人に対する神の愛の深淵と、神の近づきがたい威光の高みにまで到達したいと熟望する心によって行われた研究である。しかも、それはシカゴの多忙な牧師によって書かれたのだ!

ダビデがシカゴの繁華なサウス・ホールステッド街で詩篇第二十三篇を書いている姿を、誰が想像出来ようか。

また、中世の神秘家が、巨大な碁盤のようにたくさんの道が垣々と果しなく続いている街の、ある木造家屋の小さな書斎で、天来の霊感を見出している姿を、誰が想像出来るだろう。しかもその街は

人生の混み合う道の
交叉するところ
民族種族の叫喚の
入り混るところ
悲惨と貧困の棲家
その戸口には恐怖が
暗い陰を投げ
その小路には貪欲が
人待ちがおに隠れている・・・・

そのような街なのだ。

ニューヨークのフランク・メイソン・ノース博士が彼の不滅の詩の中で、右のように言っているのと同様に、トウザー氏もまた本書の中で、

自己中心の斗争の
喧躁を超えてわれらは聞く
なんじの声を、ああ人の子よ。

と歌っている。

著者に対する私の面識は比較的限られたものである。私は彼の教会を数回訪れたことがあるにすぎない。だが彼の教会での交わりは実に楽しいものだった。

私はそこに独学による学者、神学書や敬崖な信仰的書物のすばらしい蔵書を持つ多読家、また神探求のために深更にいたるまで灯油を燃やす人を見出した。彼の著書は長い間の瞑想と多くの祈祷との結果である。それは教会の説教壇や会衆席にかかわるものではなく、神を渇き求める魂を対象とするものなのだ。本書の中の全章は、モーセの「なんじの栄光をましたまえ」という祈り、あるいはパウロの「ああ深いかな、神の知恵と知識との富は」という叫びによって、要約されていると言えるだろう。それは頭の神学ではなくて、心の神学である。

そこには深い洞察と、真面目な表現と、普遍的な人生観とがあって、読む者の精神を爽快にしてくれる。著者は少数の引用しかしていないが、彼は過去数世紀にわたる偉大な聖徒たちを知っている。例えば、アウグスチヌス、クサのニコラス、トマス・ア・ケンピス、フォン・ヒューゲル、フィニー、ウェスレーなどであるが、そのほかにまだたくさん知っている。本書を構成している十章はわれわれの心を探らずにはいない。また、各章の末尾にある祈りは、講壇においてなされるよりも、むしろ密室において独りでなされるべきである。私はそれらめ祈りを読みながら、神がすぐ近くにおられるのを感じた。

これは、すべての牧師、宣教師、また敬虔なキリスト者に読んでいただきたい本である。それは神の深い真理と神の恩寵の富とを主題としている。とりわけ、それは誠実と謙遜によって貫かれている。

ニュー・ヨーク市
サムエル・M・ツウィーマー


はしがき

現代の、世界的といってもよい暗黒な時代に、われわれの心を引き立たせてくれる一つの光明が現われた。それは保守的キリスト教に属する群の中に、神御自身に対する飢え渇きをだんだん強く感ずるようになった人々の数が、次第に増えてきたということである。彼らは霊的実在を熟心に求め、巧みな言葉にごまかされず、また真理の正しい「解釈」だけでは満足しない人たちである。彼らは神を渇き求めている。そして、生ける水の湧き出る深い泉でその水を飲むまでは、決して満足しないのだ。

これは私が宗教界の地平線をくまなく見渡して発見することのできた、リバイバルの唯一の、そして本当の先ぶれである。それは、あちこちの少数の聖徒たちが探し求めていた、手ほどの霊にすぎないかもしれない。しかし、それは、その結果として、多くの魂に生命の復活をもたらし、また、現代の教会からはほとんど消えうせてしまったが、キリストを信じる信仰に当然伴うべきあのすばらしい光輝を回復させることができるのだ。

だが、この飢え渇きはまず宗教的指導者たちによって認識されなければならない。現代の福音主義は、たとえていえば、祭壇を設けて、供えものの犠牲をいくつかに割いたまではよいのだが、その後は石を数えたり、犠牲の肉を置きなおしたりして満足しているらしく、カルメル山の高い頂には火が降る兆候すら見えないのに、少しも気にかけていない様子である。しかし、感謝すべきことに、それを気にかけている少数の人々がいるのだ。その人々は、祭壇を愛し、犠牲をよろこびはするが、いつまでも火が降らないままでいることに満足できない人たちである。彼らは何ものにもまして神を欲求する。彼らは、すべての聖なる預言者たちが書き、また詩篇記者たちが歌った、キリストの愛の「刺すような甘さ」を自ら味わいたいと渇き求めている。

現在は、キリストに関する教義を正しく説く、聖書の教師たちに不足してはいない。しかし、その教師たちの大多数は毎年毎年信仰の基本的要素を教えることに満足レているらしく、彼らの牧会には神の明らかな臨在がなく、また彼らの個人的生活には何らの変化も起っていないということに、不思議にも気がつかないのである。彼らはたえず、胸の中に神への憧憬を感じている信者たちを牧会しながら、その憧憬に満足を与えてやることができないのだ。

私は愛の心から言うのであるが、われわれ牧師の側に何か欠けているものがあることは事実である。ミルトンの言った、「飢えたる羊は眼を上ぐ、されどこれを養うものなし」という恐ろしい言葉は、彼の時代と同様、現在にもぴったりあてはまっている。神の子らが実際には父なる神の食卓についていながら飢えているというのは、おごそかなことであり、神の国における小さからぬ恥辱である。ウエスレーの言った言葉の正しさが、われわれの眼にはっきり見えてくる。「オーソドックス、つまり正しい意見は、せいぜい宗教のきわめて小さい一部であるにすぎない。正しい心の態度は正しい意見なしには存在できないが、正しい意見は正しい心の態度がなくても存在できる。神に対する愛や正しい気持がなくても、神についての正しい意見はありうる。サタンはその証拠である」

聖書協会やその他の聖書の普及を目的とする能率的な諸機関のおかげで、今日では何百万という人人、おそらく教会史を通じて前例のないほど多くの人々が「正しい意見」を持っている。だが、霊によるまことの礼拝が今日ほど低調を示した時代は今までに一度でもあっただろうかと、私は怪しむのである。大部分の教会にあっては礼拝の正しいやり方が全く失われ、その代りに「プログラム」といわれる外国風の異様なものが現われてきた。このプログラムという言葉は芝居から借りてきたものであるが、今日われわれの間で礼拝として通っている普通教会で行われている礼拝に、悲しいことだが、ぴったり合っている。

正しい聖書の解説は、生ける神の教会においてどうしても行
われなければならないことである。それがなくては、どんな教会も、言葉の厳密な意味で新約聖書的教会であることはできない。しかし、解説がどんなに上手に行われても、それを聞く人々が本当の霊的栄養を全然吸収しないことがある。なぜなら、魂をはぐくむのは単なる言葉ではなく、神御自身であり、聞く者がその個人的経験の中に神を見出すまでは、真理の言葉を聞いたからといって、それだけ人間がよくなるわけではないからだ。聖書はそれ自身が目的なのではない。聖書は人々を親しく満ち足りた神の知識へと導く手段である。それは、人々が神のいますところに入って神の臨在を楽しみ、彼らの心の中心において、神御自身の内なる甘美さを味わい知るためである。

本書は飢えている神の子供たちが神を見出すのを、少しでも助けられればという小さい願いから書かれたものである。その中には新しいものは何もない。ただ、本書に述べられていることは、私にとって最も喜ばしくまたすばらしい霊的現実について私自身の心が発見したことである、という意味では新しいかもしれない。私より前に、このような神聖なる神秘の内に私よりも奥深く進んで行った人たちがいる。私の火は大きくはないが、しかし真実である。私の火によって、そのろうそくに点火する人々もいることと思う。

一九四八年六月十六日
イリノイ州、シカゴにて
A・W・トウザー

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