2024年6月23日日曜日

『神への渇き』、第一章―神を慕い求めること

神への渇き
A・W・トウザー著
柳生直行訳、1958年、いのちのことば社
The Pursuit of God, A. W. Tozer

第一章 神を慕い求めること

わたしの魂はあなたにすがりつき、
あなたの右の手はわたしをささえられる。――詩篇六三・八

キリスト教神学は先行的恩寵の教義を説いている。それは簡単に言うと、人間が神を求める前に、まず神が人間を求められたに違いないという意味である。

罪ある人間が神について正しく知る前に、人間の心の中に神による教化のわざが行われたにちがいない。それはたとえ不完全であっても真実のわざであった。それは、つづいて人の心の中に生じる、希求や探求や祈禱のかくれた原因となった。

神が、まずわれわれの心の中に探求へと駆りたてる一つの衝動を与えられたから、それだからこそ、われわれは神を探求するのである。「わたしをつかわされた父が引きよせて下さらなければ、だれもわたしに来ることはできない」と私たちの主は言われた。われわれは主のもとに来たからといって、それを誇ることはできない。神はそのような誇りをことごとくわれわれから奪ってしまわれる。なぜなら、われわれが主のもとに来たのは、この引きよせて下さるという神の先行的行為のおかげだからである。このように神探求の衝動は、神から与えられたものであるが、その衝動はわれわれが神を慕い求めるとき、はじめて完成される。神を探求している間も、われわれはすでに神の御手の中にあるのである。「あなたの右の手はわたしをささえられる」

ところで、神が「支えたもうこと」と「人間が慕い追うこと」との間には、少しも矛盾はない。フォン・ヒューゲルが言っているように、神は常に先行的であられるからである。すべては神のものである。とは言え、実際には人間は神を探求しなければならない。つまり、われわれは神の先行的な働きに答えなければならない。なぜなら、神がひそかに引きよせて下さるということをわれわれがはっきり体験するには、われわれの側に積極的な応答がなければならないからである。このことは詩篇四十二篇の中に、強い感情を表わす言葉で述べられている。「神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ。わが魂はかわいているように神を慕い、いける神を慕う。いつ、わたしは行って神のみ顔を見ることができるだろうか」これは深淵が深淵を呼んでいるのであり、あこがれ慕う心の持主なら、その気持が理解できるはずである。

信仰による義認の教義は、聖書的真理であり、不毛の律法主義や無益な自己の努力からの幸いな解放であるが、現代では悪人どもの手に陥ってしまった。多くの人は、現実的にはかえって人々を神の知識から閉めだしてしまうようなやりかたで、この教義を解釈している。回心という事件全体が機械的な、生命のないものになってしまった。今では、信仰は道徳的生活と矛盾せず、アダム的自我と衝突することもなく、実践できるものになった。人はその魂の中に、キリストに対する特別の愛を持たなくても、キリストを「受け入れる」ことができるようになった。だから、彼には神に対する飢えも渇きもない。実際、彼は僅かのものに満足するように教えこまれ、すすめられている次第だ。

近代の科学者たちは、神が創造された世界の不思議の中に神を失った。それと同じように私たちキリスト者は、神の言葉の不思議の中に神を失おうとしている。それは実に危険な状態である。われわれは、神が人格であること、従って神は私たちと交わりを持つことができるということを、おおかた忘れてしまった。人格同志がおたがいに知ることができるのは、人格に内在する事実である。とは言え、人は他の人に一度会っただけで、相手の人の人格を完全に知るというわけにはいかない。おたがいに、愛による精神的な交わりを長い間つづけた後に、はじめて二人の持っているあらゆる可能性が明らかになるのだ。

人と人との社会的交際は、すべて人格と人格との応答関係である。それは人と人とのふとした接触から、人間の魂が到達できる最も完全、かつ親密な交わりへと次々に昇華して行く。宗教はそれが本当の宗教であるかぎり、本質的に言うと、被造物たる人間の、創造者つまり神に対する応答にほかならない。「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストを知ることであります」

神は人格である。そして、その全能なる性質の深みから、他のすべての人格と同じように、考え、意志し、楽しみ、感じ、愛し、欲求し、また苦しみたもうのだ。神は私たちに御自身を知らしめられるのに、人格という私たちに親しい姿をそのまま維持しておられる。また、神は、われわれの知性や意志や感情を通路として、われわれと交わりを持ちたもう。神と救われた人の魂との間に、愛と思いとが絶えず自由に取り交わされることは、新約聖書の宗教のいきいきと脈うっている心臓であると言ってよい。

神と魂との交わりは、個人的意識として自覚される。それは個人的なものである。つまり、信者の集団そのものを通して来るのではなく、まず個人によって自覚され、次にその成員である個人を通して、集団として自覚されるのである。しかも、それははっきり意識できるものである。それは識閾(しきいき)の下にとどまって魂に意識されずにはたらくのではなく(例えば、幼児洗礼はそのようにはたらくとある人々は考えている)、意識の中に入ってくるのだ。だから、私たちは他のあらゆる経験的事実を知るのと同じように、それを「知る」ことができるのである。

われわれは(罪を別にすれば)大いなる神の小さい縮写である。われわれは神の姿にかたどって造られたから、神を知る受容力を内に持っている。罪のためにその力を欠いているにすぎない。だから、聖霊が新生によって私たちを活かされる瞬間、われわれの全存在は神との親近性を感じ、神を認めてよろこびおどるのだ。これこそ天国への誕生であり、それなくしては神の国を見ることはできない。だが、それは終着点ではなく、出発点にすぎない。なぜなら、神の無限の富に向かう輝かしい探来、魂の幸いな探険が、今始まろうとしているのであるから。くり返して言うが、それはわれわれの出発点である。だが、われわれはどこで止まるのか、誰も終着点を発見した人はないのだ。なぜなら、三位一体の神の威光にみちた奥義の深さには、限界もなければ終りもないからである。

岸辺なき大海よ
誰か汝を測りうべき
汝のものなる永遠汝をめぐれば
ああ、御稜威(みいつ)輝く神よ!

神を見いだしたにもかかわらず、なお神を追い求めるということは、魂の持つ愛の逆説である。それは、すぐに満足してしまうような宗教家には軽べつされるかもしれないが、この逆説の真実性は、燃えるような求道心を持った神の子たちの幸いな経験によって、すでに証明ずみになっている。聖バーナードは美しい四行詩でこの聖なる逆説を述べているが、心から神を礼拝している人は、この詩の意味をすぐに理解できるだろう。

ああ汝、生けるパンよ
われら汝をあじわい
なおも汝を味わい楽しまんと願う
われら泉の源なる汝より飲み
なおも汝によりて満たされんと
かわきもとむるなり。

昔の聖徒たちに近づいてみると、彼らがどんなに熱い心をもって神を求めたかが分かる。彼らは嘆きをもって神を求め、昼となく夜となく、時を得るも時を得ざるも、神を求めて祈りまた苦闘した。そして、ついに神を見出したとき、その喜びは求めることが長かっただけに、一層甘美なものとなった。モーセは神を知っているという事実を、さらによく神を知るための議論の前提として用いた。「それで今、わたしがもし、あなたの前に恵みを得ますならば、どうか、あなたの道を示し、あなたをわたしに知らせ、あなたの前に恵みを得させてください」そして彼はそこから立ち上がって大胆な要求をしている。「どうぞ、あなたの栄光をわたしにお示しください」神はモーセの示した熱意を心から喜ばれ、その翌日彼をシナイ山に召し、そこで、神のすべての栄光が厳粛な行列のように、彼の前を通り過ぎるようにせられた。

ダビデの生涯は霊的欲求の奔流であった。彼の作った詩篇は、探求者の叫びと発見者の喜ばしい叫びで鳴りひびいている。パウロは彼の生の源泉は、キリストに対する燃えるような欲求であると告白している。「キリストを知るために」ということが彼の心の目標であった。そして、このことのために彼はすべてを犠牲にしたのである。「わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストの故に、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためである。」

讃美歌集は神に対する甘美なあこがれにみちている。それは、すでに作者が発見してはいるが、依然として追求している神へのあこがれである。「主のみ跡を見、われは追う」とわずか一世代前にわれわれの父たちは歌ったものだが、この讃美歌はもはや大会衆の間で聞かれることはない。この暗黒な時代に生きているわれわれが、教師たちのために、せっかくの神探求を挫折させられているのはなんという悲劇だろう。何もかもキリストを「受けいれる」という最初の行為に集中されてしまう。(ついでながら「受けいれる」という言葉は聖書の中には見あたらない)そして、その後は、私たちの魂に示される神の啓示をそれ以上求める必要はないと考えられている。私たちは、一度神を見出したなら、もはや神を探求する必要はないと主張するもっともらしい論理の罠におちこんでいる。そして、それは正統派神学の権威ある言葉として、われわれの前におかれている。この論理によると、聖書によって教えられたキリスト者で、これと相容れない信仰をもった人はひとりもいない、と簡単に割切られてしまう。このようなわけで、この問題に関する、礼拝と探求と讃美とに専念している教会の証しは、あっさり無視されてしまう。芳ばしい香りを放っている多くの聖徒たちの、経験に基く心の神学は拒否され、それに代って、アウグスチヌスやルサフォードやブレイナードが聞いたら変な顔をするに違いないような、聖書の独りよがりな解釈が流行している。

このようにはなはだ冷たい風潮のただ中にありながら、浅薄な論理に満足しないでいる人々が多少なりともいることは、私の喜びとするところである。彼らはそのような議論の力を認めはするが、やがて涙を流しながら人々から離れ、淋しい場所を求めて、「ああ、神よ、私にあなたの栄光を示して下さい」と祈るのだ。彼らは神という神秘的存在を味わい、心をもってこれに触れ、内なる目をもってこれを見たいと願うのだ。

私はことさらに、神に対するこの執ような憧憬をおすすめしたいと思う。われわれが現在の低い霊的状態に落ちているのは、この憧憬の不足が原因となっているからだ。われわれの宗教生活が木のように硬直しているのは、私たちが聖い欲求を欠いていることから生じた結果である。自己満足ということは、あらゆる霊的成長にとって不倶戴天の仇である。強烈な欲求がなければ、キリストは御自身をキリスト者にあらわそうとなさらない。彼は求められるのを待っておられる。だが、私たち多くの者の場合、彼は長い間、いつまでも待ちぼうけをくわされておられるのだ。何という痛ましいことか。

すべての時代はそれ自身の特徴を持っている。現在われわれは宗教的に複雑な時代に住んでいる。キリストの中にある単純さは、われわれの間ではまれにしか見られない。単純さの代りにあるものは、プログラムや方法や組織、またわれわれの時間と関心とを奪いながら心の憧憬を決して満足させることのできない、果しない神経質な活動である。われわれの内的経験の浅薄さ、礼拝の空虚さ、牧師の抜擢方法に見られる世俗的習慣の卑屈な模倣等、これらのことはすべて、今日私たちが神を不完全にしか知らず、神の平和を全然と言ってもよいほど知らないことを立証している。

このように、外面的なことにばかり捉われている宗教の中にありながら、神を見出したいと思うなら、私たちは、まず神を見出そうと決断しなければならない。そして次に単純な道を進まなければならない。常にそうであったように今日でも、神は「幼な子」に御自身をあらわし、賢者や分別ある人人に対しては、厚い闇のとばりで御自身を隠してしまわれる。われわれは神に近づく方法を、もっと単純なものにしなければならない。余計なものをことごとく取り除いて、本質的なものを見出さなければならない。(幸いなことに、本質的なものはそう多くはない。)神に感銘を与えようとするような努力を一切捨てて、幼児のような偽りのない率直さで神に向かわなければならない。そうするなら、間違いなく神はすみやかに答えて下さるだろう。

宗教が言うだけのことを言ってしまったら、神御自身のほかにわれわれが必要とするものは何もないはずである。神と何々を求める悪習慣は、私たちが完全に啓示された神を見出すのに、非常に大きな妨げとなっている。この「何々」の中にわれわれの悲惨があるのだ。この「何々」を取り除きさえすれば、私たちはすぐに神を見出すであろうし、また私たちが生涯を通じてひそかに熱望してきたものを、神のうちに見出すことができるだろう。

神のみを求めることによって、われわれの生活はせばめられ、拡大しようとする心の活動は拘束されはしまいかと恐れる必要はない。事実はむしろその反対である。神をわれわれのすべてとなし、多くのものを犠牲として唯一者に集中したからといって、決して損にはならない。

一風変った古いイギリスの古典である「不可知の雲」の作者は、右に述べたことを如何にして行うかを教えている。「柔和なる愛の感動もてなんじの心を神に向けよ。神のみを求め、如何なる被造物も求めるな。また、神以外の何ごとについても考えることを厭え。ただ神のみのほか何ものもなんじの知性、なんじの意志に働きかけることのないためである。これこそ神の最もよろこびたもう魂の働きである」

さらに彼は、祈りのときわれわれがすべてのものを、われわれの神学をさえもぬぎすてるように奨めている。「神以外の如何なる動機にもよらず、はだかのまま、まっすぐに神を求める心があれば、それで十分なのだ」しかも、彼の思索の根底には、新約聖書の真理ががっしりした土台となって横たわっている。彼は「神」の意味を説明して、「なんじを造り、なんじをあがない、恩寵もてなんじを召し、ひき上げたまえる神」と言っている。また、彼は単純さということをしきりに説いている。「宗教を一層よく理解するために、これを一言で言い表わそうと思うなら、一音節の小さな言葉を選ぶがよい。それは、その方が二音節の言葉よりよいばかりでなく、言葉が短かければ短いほど、聖霊のはたらきに適合するからだ。そのような言葉は「神(ゴッド)」あるいは「愛(ラブ)」という言葉である」

主なる神がカナンをイスラエルの種族の間に分与されたとき、レビは土地の分け前を全然もらわなかった。神は彼に、「わたしがあなたの分であり、あなたの嗣業である」と言われただけであった。だが、この言葉によって、彼は同胞の誰よりも、またこの世に存するいかなる王侯貴族よりも、富めるものとせられたのである。そしてここに、至高者に仕えるすべての祭司に対して今日もなおいて働いている、霊的原理があるのだ。

神を自分の宝としてもっている人は、唯一者の中に万物をもっている。彼には、普通の人が宝と考えているものの多くは、与えられないかもしれない。たとい与えられたとしても、その快楽は精練せられて、彼の幸福にとって不可欠なものとなることは決してない。それらの宝が一つ一つ失われてしまっても、彼はほとんど損失とは感じないだろう。なぜなら、彼は万物の本源をもつことによって、唯一者の中にあらゆる満足と快楽と歓喜とをもっているからである。彼は何を失ったにしても、実際には何一つ失ってはいない。なぜなら、彼は今や唯一者の中に万物をもち、しかも純粋に、合法的にかつ永遠にそれをもっているからである。

おお神よ、私はあなたの恵みを味わって満足すると同時に、なお一層それを求めずにはおれません。私はもっと多くの恵みを必要としていることを痛感しています。求める心の足りないことを恥かしく思っています。ああ神よ、三位一体の神よ、私はあなたをもっと欲求できるようにと欲求し、あこがれで満たされるようにとあこがれ、もっと渇くようにと渇き求めています。あなたを本当に知ることができるように、あなたの栄光を私に示して下さい。いつくしみの故に、私の心の中に新しい愛のわざをはじめて下さい。私の魂に、「わが愛する者よ、わがうるわしき者よ、立って、出てきなさい」と呼びかけて下さい。それから、私がかくも長い間さまよっていたこの霧深い低地から立ち上がって、あなたに従うことができますよう、御恵みを与えたまえ。イエスの御名により、お願い申上げます。アーメン。

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