2024年6月28日金曜日

『神への渇き』、第二章―何も持たない幸福

神への渇き
A・W・トウザー著
柳生直行訳、1958年、いのちのことば社
The Pursuit of God, A. W. Tozer

第二章―何も持たない幸福

こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。――マタイ五・三

主なる神は地上に人間を造られる前に、まずその準備として、人間の生存と歓びのために役立ち、また人間を楽しませる様々なものに満ちた世界を創造された。創世記の天地創造の物語では、それらのものはただ単に「物」と呼ばれている。それらのものは人間が使うために造られたのであるが、それらは常に人間の外にあり、人間に奉仕すべきものであった。人間の心の深いところには一つの宮があって、そこには神以外の何者も住む資格はなかった。人間の内には神がおられ、外には、神が人間に雨のように注がれた無数の贈物があった。

しかるに、罪が混乱を生み、そのような神の贈物を、魂の破滅の原因となりうるものに変えてしまったのだ。

神が人間の心の中心にある神の宮から追放されて、その代りに「物」がそこに入り込むようになったときに、われわれの悲惨は始まった。人間の心を「物」が占領してしまったのだ。今や人間は先天的に心の中に平和を持たないものとなった。それはもはや神が心の王座におられず、道徳的薄闇にとざされた心の中で、頑固で侵略的な横領者たちが至高の王座をねらって互いに争っているからである。

これは単なる譬喩(ひゆ)ではない。それは現実の霊的問題の正確な分析である。人間の心の中に、占有し、常に占有しようとする性質をもつ堕落した自我が、しっかりと根を張っている。それは根深く強烈な情熱をもって「物」を渇望する。「私の(マイ)」とか「私のもの(マイン)」とかいう代名詞は、活字で見れば、いかにも罪のない言葉のように見えるが、これらの言葉が絶え間なく到る処で用いられていることは意味深長である。それらの言葉は、古きアダム的人間の正体を、一千冊の神学書がなしうるよりもよく表わしている。それは私たちの体内に深く巣食っている病患の、言葉に表われた徴候である。われわれの心に張っている根は下に下にと伸びてゆき、ついに「物」にまで堕してしまった。そして、われわれはその一本をも抜き取ろうとはしない。死にはせぬかと恐れるからだ。物はわれわれにとってなくてはならぬものとなってしまった。初めは決してそんなはずのものではなかったのだ。今や神の贈物が神の座を占め、自然の全過程は奇怪な代用物によってひっくりかえされてしまった。

主イエスが弟子たちに、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう」と言われたとき、主は<物>のこの暴虐を指しておられたのだ。

この真理をもっと分かりやすく砕いて言うと、われわれ一人一人の内に敵がいて、しかも危険なことに、われわれはその敵を大目に見ているのだ。イエスはそれを「命」とか「自分」と呼んでおられるが、今日の言葉で言えば「自分中心の生活」である。その最大の特長は所有欲である。「もうける」とか「得」とかいう言葉がそれを物語っている。この敵を生かしておけば、最後にはすべてのものを失うことになる。逆にこの敵と絶縁してキリストのために一切のものを捨てるなら、究極的には何物をも失うことにならず、かえってすべてのものを保ちながら永遠の命に入ることができるのだ。また、この敵を滅ぼす唯一の確実な方法がここに暗示されているように思われる。それは十字架による方法である。「自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」

神の深い知識に至る道は、魂の貧困と万物に対する拒絶という淋しい谷間を通ってゆく道である。天国をもっている幸いな人々はすべての外面的なものを捨て、彼らの心から一切の所有欲を抜きとってしまった人たちである。これらの人々こそ「心の貧しい者」にほかならない。彼らは、エルサレムの街々にごろごろしていた乞食の姿に等しい心の貧しさに到達したのだ。キリストが使われた「貧しい」という言葉は、事実乞食の貧しさを意味していた。これらの幸いな貧しい人々はもはや<物>の暴虐の奴隷ではない。彼らは圧迫者のくびきを破った。それは彼らと戦うことによってではなく、かえって神に降服することによって行われたのだ。彼らはあらゆる所有欲から解放されていながら、しかし万物を所有している。「天国は彼らのものである」

この問題を真剣に考えていただきたい。これは、生気のない他の多くの教義と十ぱ一からげにして、心の片隅におしこんでおけばよい聖書の教えだなどと考えてはならない。それはみどりの一層あざやかな牧草地に至る道しるべであり、神の山の険しい山腹に刻まれた小道である。われわれはこの聖なる探求の旅を続けたいと思うなら、この道を避けてはならない。われわれは一時に一歩ずつ登って行かねばならぬ。一歩進むことを拒むなら、私たちの進歩はそれでおしまいである。

他の場合にもよく見られることだが、霊的生活に関するこの新約聖書の原理も、旧約聖書の中に最も適切な例証をもっている。アブラハムとイサクの物語の中に、われわれは山上の第一の垂訓についてのすぐれた註解のみならず、神に献身した生涯の劇的な姿を見ることができる。

イサクが生れたとき、アブラハムは年老いていた。イサクの祖父であったとしてもおかしくないほど年とっていた。そしてこの子供は、彼の心のよろこびであると同時に偶像になってしまった。彼が身をかがめて、不器用な手つきで初めてその小さな赤子を腕に抱いたその瞬間から、彼は息子に対する熱烈な愛情の虜になってしまった。そこで神はわざわざこの愛情の強さに批判を下されたのだ。それは理解するのに困難なことではない。この幼な子は父親の心にとって聖なるすべてのものであった。すなわち神の約束、契約、長年の希望また長い間の救世主の夢を象徴するものであった。子供が幼年から青年へと成長していくのを見ている中に、老人の心はますます息子の生命にかたく結びついてゆき、ついにその関係は危険な状態に近づくに至った。神がこの父子を、潔められていない愛より生ずる危険な結果から救い出すために干渉されたのは、まさにそのときであった。

神はアブラハムに言われた、「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」聖書の記者はベエルシバ近くの山腹で、この老人が神と論じ合ったその夜、どんな苦悩を味わったかについては綿密な描写を省いているが、敬虔な想像をめぐらせるなら、星空の下で唯ひとり身をかがめて痙攣的に苦闘している一人の老人の姿を、われわれは畏敬の念をもって心に描くことができるだろう。おそらく、アブラハムより大いなるお方がゲッセマネの園で苦闘なさるまで、このような死の苦しみは二度と人間の魂を訪れることはなかったろう。アブラハム自身が死ぬことを許されたのだったら、その方が千倍もやさしいことだったにちがいない。彼はもう年寄りだったし、神と共に長年の間歩いてきた者にとっては、死ぬことはそれほど大きな試練ではなかっただろうから。それにまた、衰えゆく眼で筋骨たくましい息子をながめ、彼がアブラハムの家系を嗣ぎ、昔カルデヤのウルで神から与えられた約束をその身に成就するにちがいないと考えることは、この世の最後の甘いよろこびとなったであろう。

どうして自分の子供を殺さねばならぬのか。たとい、傷つき反抗するわが心の同意を得ることができたとしても、どうしてこのような行為と「イサクに生れる者が、あなたの子孫と唱えられる」という神の約束を一致させることができようか。これはアブラハムにとって火のごとき試練であった。だが彼はそのはげしい試練に負けなかった。灰色の夜明けが東の空を染めはじめるずっと前、まだ星がイサクの寝ているテントの上に鋭い白点のように輝いている中に、この年老いた聖者はすでに決意を固めていたのだ。神の命じたもうたごとく息子を献げよう、そうして後、神が彼を死人の中からよみがえらせて下さることを信じよう。ヘブル書の記者によれば、これこそ、アブラハムの痛める心がその暗い夜の間に見出した解決だったのだ。彼は計画を実行するために、「朝はやく」起きいでた。彼は神のとりたもうた方法に関しては誤っていたが、神の大いなる御心の秘密については正しく感じとっていた。まことにうるわしいことではないか。この解決は「わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう」という新約聖書の言葉とぴったり一致している。

神はもはや後退の道がないことを知っておられるところまで、この悩める老人に苦難の道を進ませ、それから、わらべを手にかけてはならないと命じられた。いぶかり、あやしむ族長に向かって、今や神は次のような意味のことをおおせられる、「アブラハムよ、もうよろしい。わたしはあなたに本当にわらべを殺させる積りは全然なかった。わたしはただ、あなたの心をわたしだけが支配できるよう、あなたの心の宮からそのわらべを退けたかったのだ。あなたの愛情の中にある倒錯を矯正したかったのだ。その子供は完全な体のまま、あなたに返す。さあ、あなたの天幕に連れて帰りなさい。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」

そのとき天がひらけ、声がしてアブラハムに言った、「わたしは自分をさして誓う。あなたがこの事をし、あなたの子、あなたのひとり子をも惜しまなかったので、わたしは大いにあなたを祝福し、大いにあなたの子孫をふやして、天の星のように、浜べの砂のようにする。あなたの子孫は敵の門を打ち取り、また地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう。あなたがわたしの言葉に従ったからである」

この年老いた神の人は天よりの声に応えて頭を上げ、その山の上に立っていた。その姿は強く、純粋で偉大であった。彼はいと高き者の友また寵児として神から特別の扱いを受けた人であった。今や彼は完全に献身した人、全く服従した人、何ものをも所有しない人であった。彼は彼のすべてを愛する子供に集中していたが、神はそれを彼から取り去られたのだ。神はアブラハムの生活の周辺から始めて次に中心に働きかけて行くこともできたのであるが、むしろ単刀直入に、ただ一度の鋭い分離行為によって処理してしまうことを選ばれたのだ。それは残酷に傷つけはするが、有効な方法であった。

アブラハムは何ものをも所有していなかったと私は言った。だがこの貧しい人は富んでいなかっただろうか。彼は前に所有していた一切のもの、羊、らくだ、牛、その他のあらゆる財産を今も享受することができた。彼はまた妻と友人たちを持ち、何ものにもまして彼の息子イサクが安全に彼の傍にいた。このように彼はすべてのものを持っていた。しかし彼は何ものも所有していなかったのである。そこに霊的な秘密がある。そこに、放棄という学校においてのみ学ぶことのできる甘美な心の神学があるのだ。組織神学の書物はこれを見落している、が賢い人たちは理解するだろう。

この苦しいけれども幸いな経験の後、アブラハムにとっては「私の」とか「私のもの」とかいう言葉は、二度と以前と同じ意味を持つことはなかったのではないかと私は思う。これらの言葉が持っている所有の意味は彼の心から消えてしまった。物は永遠に追放されてしまったのだ。物は彼にとって外面的なものにすぎず、彼の内なる心はそれから解放されていた。世間の人が、「アブラハムは金持だ」と言っても、この年老いた族長はただほほえむばかりだった。彼はそのことを彼らに説明することはできなかったが、自分は何ものをも所有してはいない、自分の本当の宝は内面的永遠的なものだということを知っていた。

物に対するこの所有の執念が、人生における最も有害な習慣であることは疑い得ない事実である。それはきわめて自然なことなので、その真相たる悪はまれにしか認識されることがない。しかしその働きは悲劇を生む。

われわれは、しばしば私たちの宝を主に献げることを不安に思うその心配のために、献げようとする決心を妨げられることがある。その宝が親族や親友である場合殊(こと)にそうである。しかし、そのような心配は無用なのだ。われらの主は滅ぼすためにではなく、救うために来られたのだから。われわれが主にゆだねまつるものはすべて安全である。これに反して、主におまかせしていないものは、何にせよ本当に安全なものは一つもないのだ。

われわれの天分や才能もまた主に献げられるべきである。それらのものはその本来の姿において、つまりわれわれが神から貸与されたものとして認識されるべきで、いかなる意味においてもそれらを私たち自身のものと考えてはならない。われわれは青い目や強い筋肉を自分の手柄として誇ることができないように、特殊の才能を自慢することはできない。「いったい、あなたを偉くしているのは、だれなのか。あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか」

たとい僅かでも自分というものを知っている、多少とも敏感なキリスト者なら、この所有病の徴候を認め、それが自分自身の心の中にあることを知って悲しむだろう。そして、神を慕う心が十分強ければ、彼はこの問題に対してなんとかしたいと思うだろう。では、どうしたらよいのだろうか。

何よりもまず、一切の自己弁護を捨て、自分の目にも主の前にも言い逃れを全くしないことである。誰でも自分を弁護するときは、自分のほかには誰も弁護してくれる者はいないが、一切の弁護を捨てて主の前に出るとき、ほかならぬ神御自身が弁護の任に当って下さる。求道的なキリスト者は欺瞞にみちた心の巧みなごまかしをことごとく踏みにじり、主との率直公正な関係を強く求めるべきである。

次に、これが神聖な仕事であることを思うべきである。不注意な、おざなりな取引では不十分である。必ず聞いていただくという固い決意をもって神の前に出なければならぬ。神に自分のすべてを受け入れて下さるよう、自分の心から物を取り除いて神御自身が大能をもって心を支配して下さるよう、あくまでも求めなければならぬ。そのためには具体的に物や人の名を一つ一つ挙げなければならないかもしれない。それを思いきって徹底的にやるなら、その苦痛の時間を何年という長さから何分という短時間にまで短縮することができるし、自分の感情を甘やかし神との取引に慎重を期すようなのろまの兄弟たちよりもずっと早く、幸いな国に入ることができるのだ。

このような真理は物理学の事実を学ぶときのように、ただ暗記しただけではだめだということを決して忘れてはならない。それはわれわれが本当に知る前に、まず経験しなければならない事だ。われわれもまたアブラハムの苛酷な辛い経験を心の中に再体験するのでなければ、それにつづく祝福を知ることはできない。太古からの呪いは苦痛を引き起さずに消えさりはしない。われわれの内にいる昔ながらの頑なな貪欲漢は、おとなしく寝たまま、われわれの命ずるままに死にはしない。彼は樹木が地から引き抜かれるように、われわれの心から強引に引き抜かれなければならない。顎から歯が抜きとられるときのように、苦痛と出血とをともないつつ抜きとられなければならぬ。彼は、あたかもキリストが神殿から両替する者たちを追出したように、われわれの魂から暴力によって追出されなければならないのだ。そのとき、私たちは彼の哀れっぱい命乞いに対して冷酷でなければならぬ。その命乞いが、人間の心に巣食う最大の罪の一つである自己憐憫から生じたものであることを認識することが必要である。

もし私たちが次第に神に親しむことによって本当に神を知りたいと思うなら、私たちはこの放棄の道を進まねばならぬ。われわれが神の探求を決意するなら、神は遅かれ早かれこの試練をわれわれに課されるだろう。アブラハムの試練は、その当時は、試練として彼に理解されてはいなかったが、もし彼が実際に彼が取った道とは違った道を選んだならば、旧約の全歴史は異なったものになったであろう。神は別の器を見つけなさったであろうが、アブラハムの蒙(こうむ)った損失は言いつくし難いほど悲劇的なものとなったろう。このように、私たちは一人一人試練を与えられるのだが、いつ試練を受けているか私たちは全く気が付かないだろう。その試練の際には、選択しうる道が十もあるというようなことは決してない。道は二つしかない。しかもそのいずれを選ぶかによってわれわれの全将来は全く異なったものになるのだ。

父よ、私はあなたを知りたいと思います。けれども私の臆病な心はその玩具を手放すことを怖れています。私は心の出血なしにそれらと別れることができません。この別れることの怖ろしさをあなたから隠そうとは思いません。私はおののきふるえながらもあなたの御前に参ります。どうか、あなたが私の心の内に入り、敵対者なしにそこに住み得るように、私がかくも長い間いつくしみ、私の生命の一部にまでなっているそれらすべてのものを、私の心から引き抜いて下さい。そうすれば、あなたの御足の立つところに栄光を輝かすことができるでしょう。また、私の心は太陽に照らされる必要はないでしょう。あなた御自身が心の光となって下さるのですから。もはや私の心に夜が訪れることはないでしょう。イエスの御名により祈りまつる。アーメン。

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